クスノキ
あまりに暑くて目が覚めてしまった。伸びをして起き上がってから違う景色に気がついて、あぁそうかと思った。
机の脚を折りたたんでバッグは目一杯端に追いやって、広くとったスペースで3人で寝た。寝心地は正直悪かった。でも修学旅行で先生にバレないように夜更かししている時みたいに、小声で意味もない話をするのは楽しかった。
私とソウの間に寝ていたユイの姿が見えないので携帯を探す。時計がないこの部屋ではこれがないと時間の確認ができない。
「8時……」
思ったより早いなと右を向くと、掛け布団の上でまだぐっすりなソウ。ちょっとずり落ちて頬が畳に押し付けられているし、寝心地は悪そうだ。捲れてしまっているお腹が心配だったので服を引っ張ってあげる。
ユイはどこに行ったんだろう。
「ヒトミ?」
どこかから声がして周囲を見渡す。ユイの声なのに姿が見えない。念の為にソウを確認してもさっきのまま眠っているので、じゃあユイはどこにいるんだと探していると網戸がカシャンと音を立てる。
恐る恐るカーテンから覗くと麦わら帽子を被ったユイがジョウロを軽く上げて「おはよ〜」と笑う。
「おはよう」
「ソウはまだ寝てる?」
「うん。ぐっすりだよ」
「どう? お腹空いてる?」
「あー……うん。空いてるかも」
「分かった」
待ってて、とユイはアパートの角に姿を消すと、ガタガタ音を立てながら部屋に戻ってきた。
両足を擦り合わせて靴を脱いで、寝ているソウなんてお構い無しに足音を立てる。ユイはほんとにぐっすりじゃんとソウの顔を見て笑うと、財布の中身を確認した。
「うち何も無いしコンビニ行ってくる。自転車とばしてくるからお留守番係してて」
「私も出すよ」
「じゃあ200円ちょうだい。パンでいいよね?」
「うん。あ、これソウの分」
「ありがとう。行ってきます!」
昨日ジュースを奢ってもらったお礼だ。ソウが寝ている間にと浴室に籠って着替えと洗顔を済ませる。変に寝癖のついた頭をどうしようかと悩んでから、昨日のお風呂上がりと同じように後ろでくくった。
Tシャツに短パンなんていつぶりの格好だろうか。足を出すのに少し抵抗はあるけど、そんなことより暑いので背に腹はかえられない。小さくて汚れも目立つ鏡を見て頷いて、いつもより身軽な気分で浴室を後にした。
昨日ユイがそうしたように、私も窓から海を眺めていた。気に邪魔されて砂浜も見えないし、1部沖のほうだけしか見えないけどそれは確かに海だった。穏やかにキラキラ光っている。空にはウミネコが飛んでいた。
後ろで布が擦れる音がして振り返ると、やっと目覚めたらしいソウが目を擦って天井を見上げている。右手で携帯を探り当てると目を細めて時間を確認し、緩慢な動きで起き上がった。
「おはよう」
「……はよ」
まだ完全に起きていないソウは久しぶりに見た。布団の上から落ちていたのか頬に畳の跡が付いていて、せっかくのイケメンが台無しだ。ユイがいればなと思い笑っていると、ちょうど自転車の停る音がする。タイミングがいい。
「ソウ起きたんだね。おはよう!」
んーと唸った返事に笑いながら、ユイはこれお釣りと私に小銭を渡す。215円。ユイに渡したのは400円だ。どう考えたってお釣りじゃないのに、当たり前のように押し返してくるのだ。帰るまでに絶対お返しする、と決めて食事ができるように寝惚けたソウを起こして準備を始める。
私の朝ごはんは175円のたまごパンで、残りの200円はソウの分だったんだなと納得しながらかじりついた。
「山行こうよ」
ユイが弾んだ声で言うので、私もソウも何も考えずに了承してしまったが……山。何をしに行くんだろうか。ユイに尋ねても「まだ秘密」としか言われなかったのでそれ以上は聞かない。今日も日差しが強いから日焼け止めを塗っておこうとポシェットを手繰り寄せた。
「夏祭りの写真見せてよ」
「夏祭り?」
「一昨日2人で行ったんでしょ?」
そうだ。ユイにソウが絡まれてるって写真送ったんだっけ。
夏祭りの最中、何枚かソウと写真を撮った。食べ物の写真に屋台のテント。ソウの写真も撮ったし2人でも撮ったはすだ。
髪のセットに忙しいソウをちらっと確認してユイに携帯を渡す。勝手に見せるのもよくないかと思ったけど、ユイにならいいだろう。
「へぇ……楽しそう」
いいな〜。懐かしい。
写真を左に送りながらそう零す。時々感想を伝えてくれながら画面を送っていたユイの手が止まる。覗き込んだその写真はソウが送ってくれた私の写真だった。
「え、ヒトミ浴衣着たの?」
「うん。お母さんが着て行きなさいって」
「ふうん……」
一段と興味を持った輝く目が画面の中の私を見つめている。似合うね、と笑顔を向けられると心が温かくなって嬉しかった。
「ソウ〜、ヒトミの浴衣姿どうだった?」
ピンクのワックスを片手に洗面所から出てきたソウにユイが聞く。恥ずかしいからやめてなんて言えず、ただ照れたように笑っているユイの手の中の私とにらめっこして返事を待った。
そんな浮かれた顔して。自分で見ても別人みたいだ。
「似合ってたし、可愛かったと思う」
「おぉ……さすがモテる男は愛情表現が素直だね」
「うるさ。早く行こうぜ」
ソウは毛先をくるくる弄びながら褒めてくれた。かと思えばユイの言葉に機嫌を損ねたのか携帯と財布をスウェットパンツのポケットに突っ込んで軋む扉を開け出ていってしまう。
あっつ! と苦しむ声にユイと笑いあってから追いかけた。
薄いカーディガンを羽織ってポシェットをかけて、2人の後ろに着いていく。いつも3人で歩く時は逆三角形になるのがお決まりだった。私は2人がふざけ合っている姿を見るのが好きだからこの位置がお気に入りだ。
昨日ソウと歩いてきた道とは反対向きに進んでも会ったのは2人だけで、本当に人がいないんだなとあらためて思った。
たかだか隣町のことでも知らないことはたくさんある。
「今から行く所ね、この前見つけたんだけど絶対2人と来たいと思ったんだよね」
麦わら帽子を揺らしてユイが私達に振り返る。
ユイはここ最近でたくさん冒険したらしい。そして私達に見せたいものや一緒にやりたいことを見つけては、いつかこの話をしようと考えていたらしい。まさか先にバレるとは思わなかった、と頬を掻きながら眉を八の字にしていた。
人1人が通れる幅の階段の先は生い茂る木で見ることができない。急だったのがかなり怖くて、手すりに掴まりながら2人の背中を追った。
車や工事の音、人の声も聞こえない木の中でセミの声が1種類じゃないことに気がつく。当たり前だろう。人間だっていろんなひとがいるんだ。セミも全部同じなんて、そっちの方がおかしいじゃないか。
「あともうちょっとだから頑張って!」
やっとの思いで登りきったのに次の山道は緩やかな下りで損した気になった。
木漏れ日と言うには強すぎる光で柄のできた土の道を三角形になって歩く。いつもなら前にいるソウは私の隣で情けなく脱力している。もう道も言うのかも分からない獣道をどのくらい歩いただろう。ちゃんと水分摂ってねとユイの言葉に私もソウも素直に従ってペットボトルに口をつけた。行き道にコンビニで買ったやつだ。ソウがコーヒーを買おうとしたのを慌てて止めて水を3本選んだ。
はぁ……。
美味いわ、と低い声に頷いて暑さと疲れで重い足を動かす。またしばらく行くと突き当たりで、腰辺りまで高さのある木の柵の向こうに線路があった。
こんな所を走る電車があっただろうか。隣のソウもぽかんとそこを見つめている。
「足元気をつけてね」
ユイが身軽に柵を乗り越えて線路の中へ入った。ちょっと歩いて線路の真ん中に立ってこちらを見ている。
「早くおいで」
そう目線で呼びかけてくる。
線路なんて勝手に入っていいのだろうか。戸惑う私とソウが立ち止まって顔を見合わせているのを見たユイは「大丈夫だよ」と手招きをする。
ソウが柵に手をかけたのを見て、私も覚悟を決めて着いて行った。
「この線路って今も使われてるの?」
「もう廃線になってるよ」
「入れるもんなんだな」
「僕も初めは迷ったけど好奇心には勝てなくて。見つかったら怒られるかも」
古くて割れたり白くなったりしている枕木は雑草に埋もれている。もう何年使われていないんだろう。何となく見上げた空には綿みたいな雲が浮かんでいた。一昨日ソウといったお祭りで、小さい女の子が持っていたわたあめみたいで美味しそう。
「雲は食いもんじゃないぞ」
呆れたようにソウが笑った。美味しそうと思ったのが伝わっていたみたいだ。
「わたあめみたい」
「たしかに。あれとか特にそう」
日に焼けたソウの手が指す方には、たしかに1番わたあめっぽい雲。小さい頃描いた雲はあんな感じだったかもしれない。無意識に伸ばした手が空を切って、行き場のないままぎゅっと握った。欲しいものは手に入らないことが多い。背伸びしてもジャンプしてもずっとずっと上にあって、届く前に馬鹿にされたり諦めたりする。どうせ雲だって掴めないのだ。
頭上を飛んでいったカラスが鋭く鳴いた。今は彼の方が雲に近い。私には空を飛べるための羽がない。カラスは空を飛べるのに雲は欲しがらないんだ。少しだけ私に譲ってくれたっていいだろう。
「ヒトミ! どうしたの? もう行くよ」
「置いてくぞ〜」
ずっと上を見上げていたからか首が痛いし、太陽が強すぎたせいで2人の姿がぼんやりする。麦わら帽子の輪郭がはっきりしてきたところで小走りで離れた距離を縮めた。
それにしても暑い。さっきコンビニで水と一緒に買った汗ふきシートをソウから貰って汗で濡れた首を拭く。正直気を紛らわせるくらいしか効果はないけど、やらないよりマシだと思った。しばらくするとスースーしてきて、気持ち涼しくなった気がする。ソウは制汗スプレーをTシャツの裾から身体中に振りかけていた。
「黒いシャツ着てくんじゃなかったわ……」
「黒い服って暑いよね。だから用意する時に僕言ったのに」
「光集めるんだっけ?」
「光のエネルギーを吸収したら熱に変えるんだよ。そのエネルギーを吸収しやすい色が黒ってこと」
「なんか小学生の時実験やったよな。ほら、虫眼鏡のやつ」
やったやった! ユイの声の調子が上がっている。
やっぱり1番盛り上がるのは昔の話で、それが嬉しいようで寂しくもあった。それだけ大人になってしまったのかと自覚せざるを得ない。私はまだ子どもでいたいのだ。
まだ? もうすぐだよ。あとどのくらい? もうちょっと!
そんなやり取りを繰り返して辿り着いたのは駅だった。両端がスロープになっているのでそこからホームに上がって、初めて見るその様子に私は目を奪われた。
駅の中心に大木がある。
頭より高い位置まで透明な囲いがつけられて厳重にされていた。山を削った所にあるこの駅はかなり高い位置にあるらしく、実際この木の高さも想像を遥かに上回るのだろう。ホームの床でなく屋根まで突き抜けて堂々と立つ脇に木の看板が置かれている。古くて読めない文字もあるけれど、このイレギュラーに駅に生える木の説明であることは見なくても分かった。そしてその隣になぜか水道がある。コンクリートの四角の隅に粉々になった落ち葉やいつのものなのか見当もつかないドングリが転がっていた。
あぁ、もう誰もここに来ないんだなとその悲しい水道を見つめる。公園にあれば水風船で遊ぶ人や転んだ後の傷、砂だらけの手を洗う時に使ってもらえるはずなのに可哀想だ。巻いて放置されている青いホースも泥がついて黒くなっている。
ソウが錆びた蛇口を捻るとキュルキュルと音がしたが水は出なかった。
「すげぇ……」
「なんでこんなとこに木があるんだろう……」
「駅に木があるんじゃなくて、木があった所に駅ができたんだよ」
見たこともない光景に呆気に取られている私達を見て満足した顔のユイが教えてくれた。
こんな山の中で、何のための駅なんだろうか。横にも上にも木しかないのに誰が使っていたんだろう。ただきっと、この木が大切にされていたのは分かる。ずっと地元の人に守られてきたんだ。
「駅作る時に切らなかったんだな」
「切るのも大変そうだしね」
「僕も調べたけどよく分からなかった」
「あれじゃない? 祟り的な」
「切ろうとしたらケガするとかね。ありそう」
2人の会話を聞きながら広いホームを散策する。ベンチには落ち葉の屑や汚れが目立って点字ブロックはところどころ剥がれている。発車標が真っ暗になっているのを初めて見た。
壁際に歩いて行くと見つけた時刻表はクモの巣が張ってある。電車は1時間に1本しか来ないようだ。
構造は普通の駅と同じで階段を下りると改札がある階に行けるみたいだ。黄色と黒のテープで塞がれているし湿っぽい雰囲気も怖かったので、少しだけ覗いて2人の元に戻った。
「これ何の木?」
まだ木に興味津々だったソウがてっぺんを見上げて尋ねる。
「クスノキだよ」
「神社の木と一緒なんだ」
「あれよりは小さいけどね」
それよりこっち、と手を引かれて連れていかれたのは古い窓の前で、傷だらけで白っぽくなっているそれにユイは手をかける。
白くて細い腕に筋が入って「ふんっ」と変な掛け声の後、耳障りな音を立てながら窓が開いた。思わず顔をしかめる。ソウは耳を塞いで嫌そうな顔をしていたがそこから見える景色に眉間のシワを消した。
「すげぇ……」
今日2度目になるソウの言葉に何度も頷いて、向こうの方にキラキラ光る海を見つめた。
「こうして見ると家多いんだな」
人に会わなすぎて分からないよね、とユイが返す。海沿いの、昨日勝手に横切った道をバスが走っていく。私とソウがアパートに向かう時に乗ってきたやつだ。
「アパートも見えるね」
「ほんとだ……あ、ゴミ出すの忘れてた」
「あーあ。ちゃんと来週出せよ」
アパート近くに停ったゴミ収集車の音楽は当たり前だけど聞こえてこない。3人分の息遣いとぽつりぽつり交わされる会話とセミ。それからカラスの鳴き声。それだけを聞いているとゆったりした時間に落ち着いて、知らずに息をついた。
メガネ外しててよかった。心の中で呟く。
突然の大きな羽音に視線を向けるとカラスが2羽町の方に飛んでいく。さっきから何度か行き来しているから、もしかすると巣があるのかもしれない。向こうの空に飛んでいくカラス達はいなくなった人間達に代わってこの木を守っているのか。遠くで聞こえる鳴き声に耳を澄ました。
カラスから目を離して次に後ろを向くと、ホームの反対側、線路の向こうに見える急斜面の上の方に切り出されたような窪みと古い建物が見える。あれは何だろう。よく目を凝らしてみる。
「鳥居……?」
「どれ?」
私の声を拾ったソウが目線を合わせてくる。あれ、と指をさすとその指先を追った。
「ほんとだ……あんな所に神社がある」
いつの間にか隣に立っていたユイが言う。彼も知らなかったらしい。どうすればあそこまで行けるんだろうと見回してみても階段はおろか通れそうな道も見えなくて、ただあるのは生い茂った木のみだ。
この駅と同じようにもう誰も来てくれないんだろう。可哀想な神社だ。ソウに倣って私も気持ちだけだけど手を合わせてお参りする。柔らかい風が返事のような気がした。
カシャと音がしたので目を開けて振り向くと、ユイが並んで手を合わせる私達にカメラを向けている。首からぶら下げていたデジカメはお父さんのお下がりらしく、カメラが好きなユイはしょっちゅう私とソウの写真を撮っていた
「持ってきてるの忘れてた。もう1枚」
はいチーズ! とお決まりの掛け声とと共にシャッターが押される。何となくピースするとソウが肩を抱いてくるのでびっくりして体が跳ねる。
見上げたソウは涼しい顔をして「なに?」と聞いてきて、ドキドキする心臓を隠しながら別に……と目を逸らした。ユイはただ1人でニコニコ笑っていた。
「こんなにいい場所なのに立ち入り禁止なのもったいないよね」
またさっきの窓のところまで歩きながら、誰に向けてでもなく言ってみる。次に私の言葉を拾ったのはユイだった。
「でも、秘密基地みたいで面白くない?」
「たしかに。見つかるんじゃないかってドキドキはするけどね」
「秘密基地かぁ……」
懐かしむようなソウの声。思い出すのは昔ユイの家の庭に置かれていた物置倉庫だった。
数年前までユイの家にあった紺色か何だかの大きめの物置には、少しだけ空いたスペースがあった。初めのうちはそこを使っていたけれど、ユイが思いついたと言って工事をした結果、倉庫とその前に生えている梅の木の枝に紐を括ってレジャーシートを被せたものを、私達は「秘密基地」と呼んでいた。そしてダンボールの机で私は絵を描いて、ユイとソウはチラシを丸めて剣を作っていた。いつだったかにユイのおばあちゃんが持ってきてくれた折り紙で手裏剣の大量生産が始まったり、ソウがお兄ちゃんから借りてきたゲームを順番にやったりもした。
結局年齢が上がって私が他の女の子と遊び始めたり、神社の木の下で待ち合わせするようになったりしていくうちに忘れられて、気がつくと倉庫は撤去されていた。実際遊んでいたのは小学校の1年生や2年生の頃のの話だ。今の今まで忘れていたし。
しばらく黙ったままそれぞれの時間を過ごしていたけど風が強くなってきた。
そろそろ帰ろうかとユイの呼び掛けに頷いて、スロープを下ってホームから降りた。行きと同じく線路の上を歩く。レールの上を歩いてみると思った以上に難しくてバランスを崩したので近くにいたソウの肩を借りた。
楽しそうと笑っていたソウが思い出したように言う。
「もしかして帰りってさっきと同じ道?」
「もちろん」
何当たり前のこと言ってるのといった顔でユイが笑っている。私とソウだけがげんなりしてため息をついた。