ボロアパート
着いた、と突然ソウが言って、足元を見ていた顔を上げると古いアパートだった。本当に? と思いながらソウの携帯を覗くと目的地はここを指しているし、メモに書かれた住所もここで間違いない。2人で顔を見合わせてから、周りを見渡した。
家らしきものはここしかないので、やっぱりここなんだろう。
何と言うか、古すぎる。言葉を選ばなくていいのならボロアパート。本当にユイは住んでいるのだろうか。
「取りあえず入るか?」
「……そうだね」
ジャリジャリ音を立てながら並んで敷地内に入っていく。2階建て6部屋のアパートは築何年になるのだろうか。背の高いひまわりが7輪咲いている花壇の前に古い軽トラックが止められている。辛うじて「工務店」の文字だけ読み取ることができた。
おばさんのメモには「103号室」と書かれているので、おそらく1階の右端がユイの部屋だ。
「あれユイの自転車じゃない?」
ソウの指した先には黒いカゴがついた赤い自転車。ユイのだ。ユイは昔からなぜか自転車だけは赤にこだわっていた。あの自転車を買ったという時も自慢げに見せくれたのはまだ覚えている。
「ほんとだ。じゃあここで間違いない、よね」
「信じられないけどな」
砂利道が終わってコンクリートに変わった家の前の道は海が近いからか砂を被ってザラザラしている。
さっきまでのソワソワした空気はなくなっていて、どっちかと言うと緊張感が走っている。ソウが紙袋を持つ手が強まってガサ、と音を立てた。
そして着いた103号室の「原田」の表札に赤い自転車。間違いなくここだ。でも、インターホンを鳴らしてもユイは出てこなかった。この辺は歩いて行ける範囲に何も無いし、自転車は置いてあるからいるはずなのに。
「いない、のかな?」
「おかしいな。さっきメッセージ送ったらいるって言ってたんだけど……」
もう一度鳴らすか電話をかけるかと話し合っていると、2軒隣のドアがギギっと開いた。
「……どなた?」
ドアを半分だけ開けて盾のようにして、そこから不審そうな目をしたおばさんがこっちを見つめている。完全に不審者だと勘違いされている。弁解しないとと慌てる私を制して、ソウが人当たりのいい笑顔を浮かべ凛とした声で答えた。
「この部屋に住んでる原田唯人の友達なんですけど、今留守みたいで。どこにいるか知りませんか?」
ソウの言葉におばさんは「あらあら」と嬉しそうに笑って近づいてくる。ヨレヨレなオレンジのエプロンに壊れかけのサンダル。太ったおばさんは警戒を解いた途端、急激に距離を縮めてきた。
「そう、原田くんのお友達」
「はい。幼なじみなんです」
「あらよかった。ちゃんとお友達いるのね」
「どういう意味ですか?」
「いつも挨拶以外はしたくないみたいでね、私もあんまり話したことないのよ。しかもこんなアパートに若い男の子1人なんて……学校で何かあったのかしらって心配で」
でもそうなら良かったわとおばさんは嬉しそうに笑った。
「ソウとヒトミ、なんでこんなとこいるの……」
予想に反して建物の裏から出てきたユイは麦わら帽子を被って白い半袖に黒のハーフパンツというラフな格好で、大きい目を見開いている。緑色の象の形をしたジョウロを片手に持ったその顔は、昨日と同じようにマスクはしていなかった。
「あ、ユイ! お前な!」
ソウは持っていたバッグを乱暴に落としてユイに向かって走っていく。逃げようとするユイに抱きついて、このバカ! と叫んだ。長時間外にいたのかぺったりしたユイの髪をソウはぐしゃぐしゃにして、ユイはそれから逃げようとして、そして2人はどちらからともなく笑った。
私はおばさんと顔を見合わせてから我慢できずに吹き出して、2人の元に走っていった。
家の中に入れば涼しい……なんてことは全くない。やはりここはボロアパートだった。
聞けばもうすぐ築40年になるらしく、この部屋にはクーラーもない。部屋の隅で動いている扇風機も壊れかけで、首を振る姿が謝ってるみたいで哀れだった。昨日の通話した時に電話の向こうから聞こえていたガタガタの正体はこれだったのか、と壊れそうな扇風機を眺めた。
「はい、麦茶。氷ないから温いかも」
まるで来るのを分かっていたかのように3つだけシンク前のカゴに置かれていたグラスは、ユイの家にあったのと同じやつだ。昨日もこれで麦茶を飲んだ。
「まじで古いな、ここ」
「そうなんだよ〜。壁も薄いし」
隣のお姉さんが彼氏連れ込むから困ってんのと眉を八の字にした顔はおばさんにそっくりだ。
「家賃は?」
「なんとびっくり3万円」
ほんとに? と思わず声が出た。ユイはびっくりだよねと頷いて「あ、でも」と続けた。
「ほんとはもうちょっと高いんだけど、大家さんが値下げしてくれた」
「やば」
「ここだけの秘密ね」
秘密、と笑ったユイの顔に昔のことを思い出して胸がキュッとなる。最近、小学生の頃を思い出すと泣きそうになることが増えた。ユイもソウも私も、3人でいれば何も怖くないとあの頃は本気で思っていた。いつまでも一緒だと信じて疑わなかった。
「お前バイトするの?」
「しない。当分は今まで自分で貯めてた分と、あとばあちゃんが貯金してくれてた分切り崩して生活するつもり」
だからカツカツなんだよね。眉を八の字にしてユイが笑う。
「ユイは夏休み明けからは、この家から学校通うの?」
それならかなり大変そうだけど。この引越しは期間限定なのだろうか。
「ううん。もう行かない」
「は? 行かないって……辞めるってこと?」
ソウが後ろに凭れていた体を起こして気持ち前に身を乗り出す。ユイは呑気に笑ってうん、と頷いた。
「なんで急に……あ、いじめっ子達?」
「あぁ、アイツらなら俺が何とかしてやるから――」
「違うよ」
ソウの言葉を遮って、立ち上がったユイがずっと風に揺れていた、古い部屋に似つかわしくないまっさらで、白いカーテンを開ける。網戸越しの海の方を向いて深呼吸してから、ユイは振り返った。
「僕、海の魚になりたいんだ」
昨日ソウの机に残されていた殴り書きのメモが脳裏に浮かんだ。
ユイは窓際から戻ってくるなり私達が持ってきた紙袋の中身を確認しながら、昨日は学校から抜け出してそのままこっちに来たのだと言った。私もソウも急に切り替えに着いていけず、困惑しながらも話を聞いた。
そしてユイは本当は言い返すつもりはなかったのだと肩を竦めて笑った。
目立ちたくない。それがユイの口癖だった。
「ここ何畳?」
「10畳だったと思う。でもワンルームだから実際7畳くらいかな」
「ふうん……まじで住んでるんだ」
小さい冷蔵庫に敷かれたままの布団。置きっぱなしのコンビニの袋はご飯だろうか。健康に悪い気しかしない。
「まじまじ。ちゃんと住んでるよってソウちょっと待って!」
ユイが突然大声でソウを止める。動いた勢いで不安定な机が揺れて麦茶が零れそうになったので急いで机を押さえた。
座っていた敷布団を捲ろうとしたソウは、白いそれを持ったままフリーズしてしまった。私も驚いてユイの動向を見守る。そして勢い余ってソウに突っ込んだユイは長くため息をついて、未だに動かない彼を見上げた。
「ここ、絵の具こぼしちゃったから隠してるの」
「絵の具?」
ソウと声が重なった。
「先週くらいに絵が描きたくなって書いてたら、窓開けっ放しにしてたからか変な虫入ってきてさ……」
「それで慌てたらバケツ倒しちゃったの?」
私の言葉に気まずそうな顔でうん、とユイが頷く。「馬鹿」とソウが小さい頭をチョップして笑った。
「あのおばさんには言わないで」
ユイが泣きそうな目で言う。
虫が苦手なのにこんなところに住むからそうなるんだよ。懇願するユイとからかうソウを眺めながら呆れる。
昔からユイは女の私よりも虫を怖がった。顔が可愛いからと遊ばれていた小学生時代、休み時間に机の上にダンゴムシを置かれて号泣していた姿が懐かしい。そういう時いつも決まって助けるのはソウだった。ちょっとヤンチャで優しかったヒーローは未だに私達を守ってくれる。ソウは本当にかっこいい人だ。
「黙っててやる代わりに交換条件。ここに俺達のこと泊めて」
人差し指を立ててそう提案したソウに、一瞬だけキョトンとしたユイは満面の笑みで何度も首を縦に振った。夜更かしして遊ぼうぜと計画する2人を横目に、お母さんに連絡しないとと携帯を手に取った。
そうだ、せっかくだから。
カメラを起動して2人を画角に収める。カシャと小さな音に反応した茶髪と黒髪が同じような顔をしてこっちを向いた。