ユイの失踪
思えばその日、ユイは変だった。
学校に来るにしては大きいリュックを抱えて、トレードマークだった黒マスクは外していた。そしていつも彼に突っかかってくる男子達に「うるせぇ、おこちゃま」と反論して教室から逃げ出したのだ。私はそれを教室の隅で見つめて、ソウはいつものグループに囲まれながら視界の端でチラッとだけ確認していた。
突然のことにザワつく教室の中、目の合ったいじめグループのリーダー格の男子に「何見てんだよ」と睨まれたので慌てて手元に視線を落とす。読んでいた本の内容は一切頭に入らなかった。
本鈴5分前になってもユイは教室に戻って来なかったので、コソッと声をかけてきたソウと一緒に校内を探し回った。いつもなら放っておくところだけど、今日は終業式なのでいくらユイでも遅刻は避けておきたいだろう。
「どこにもいないな」
「ね。どこ行ったんだろう……」
「アイツ馬鹿だよなぁ。あんなしょうもない奴ほっときゃいいのに」
心底面倒臭いといったようにソウが言う。見上げた彼の右耳にはいつものイヤホンが着けられていなかった。いつも着けられている黒の有線イヤホンは私やユイといる時だけ外されている。それが特別扱いみたいで私は嬉しかった。
「つか、さっきお前睨まれてただろ。俺が言ってやろうか」
「いいよ、そんなことしなくて。学校では絡まない約束でしょ」
「そうだけどさ……」
もしもソウが言ってくれれば、ユイへのからかいや私への強い当たりも無くなるだろう。学年の中心で指揮を執るような彼のグループは目立つし、それなりに権力がある。でもそれをしないのは、私達3人の間で約束があるからだ。
『学校にいる時は必要以上に絡まない』
お互いにキャラや立場があるのだ。変な噂や波風立てるようなことはしないように、と入学前に決めた。
それでもソウは、おとなしいせいか遊びの的になりやすいユイや友達の裏切りで心が折れてしまった私が過ごしやすいようにと、密かに手回しをしては助けてくれた。私は彼のそんな優しいところが好きだ。私もユイも、ソウのおかげでここまで来れたと言っても過言ではない。
「あ、いた」
ソウの声に俯いていた顔を上げる。
屋上へ続く扉の前。階段の1番上に座って下を向いているユイは、ソウの声にこっちを見ると大きい目を瞬かせている。
「お前何してんだよ。早く教室戻るぞ」
「もう本鈴鳴るよ」
「……アイツらさ」
声をかけても全く動かなかったユイがボソリと呟く。小さい声を聞き逃さないようにソウと2人して耳を澄ました。
「見た? あのマヌケな顔」
続いた言葉は思ったより大きく明るい声だった。珍しく肩を震わせて大爆笑しているユイは別人みたいで違和感がある。え? と零したソウも不思議そうな顔でユイを見つめている。
そんな私達を置いて「ほんと馬鹿だよね」と1人で笑うのが変だと思った。ユイはこんな子だっただろうか。
「迎えに来てくれたんだよね? いいよ、僕式出ないから」
未だに声を震わせながら言ったユイを何とか説得しようとしたけど、最後まで聞き入れてくれなかったので2人で来た道を戻ることになった。
隣のソウが「今日のユイ変だったな」と呟いたのに頷いて早足で歩く。チャイムと同時に教室に着くとかなり目立ってしまって、女子に人気な「聡太くん」と何していたんだと疑いの目を向けられた。何も言えない私の代わりに、別に何もないよと不機嫌な低い声が聞こえて私はやっと席に着いた。
ユイの大きいリュックは教卓ド真ん前の彼の机に置き去りにされたままで、「原田はどこだ」と聞く担任にいじめっ子リーダーが逃げましたと返す。笑い声に包まれた教室から目を逸らして、清々しいほど真っ青な空を横切るカラスを追った。カラスは嫌いだけど、羨ましいとは思う。私も自由に空が飛んでみたい。
アイツやばかったよな〜とユイをネタにして笑う教室の中で、私と同じように死んだ目をしたソウから舌打ちが飛び出したのを聞いて少し笑った。
式が終わってから呼び止めてきた担任にユイの行方を聞かれて、初めて彼が学校を抜け出したことを知った。本来彼は真面目でそんなことをする子じゃない。知りません、と返しながらもどこか胸騒ぎがした。ソウはいつもの目立つ人達に囲まれていてなかなか声をかけられなかった。向こうも何か言いたそうにしているのを感じ取りつつも、怖くて近付けないのを知っているソウは何も言わずにいつも通りイヤホンを着けている。
ユイの席にあの大きいリュックが無いのを確認すると、ホームルーム中こっそりつけた携帯でバレないようにユイにメッセージを送った。
「どこにいるの?」
「勝手に抜け出したの?」
「先生探してたけど」
いつもならすぐ返信が来るのに全くそんな気配がない。5分待ってみても動きがなかったので電源を落として、暑い暑いと怠そうな先生の話を聞いた。古いクーラーのガタガタ鳴るうるさい音に、夏休みの予定を練るソワソワした声。普段はイライラするだろうその音達が気にならないほど、頭の中はユイのことでいっぱいだった。
どこにいるんだろう。何をしているんだろう。あの大きい荷物は何だったんだろう。どうして今日はマスクをしていなかったの? あの変な態度はどういうつもりだったの。
膝の上に置いている帰り支度の済んだリュックを抱き締めて顔を埋める。ユイは今日、変だった。
何が変だったのかと聞かれるとそれはよく分からない。何か、変だったのだ。そんな曖昧なと呆れられるかもしれないけど、私達3人は小学校からの付き合いだ。ちょっとの変化でも分かるくらいには距離が近いはず。
「どこ行ったの」
こっそり呟いた声は教室の喧騒に吸い込まれて誰の耳にも届かない。重なるように鳴ったチャイムに一層騒がしくなって1学期が終わった。
気をつけ礼でさようならして、逃げるように教室を出る。相変わらず返信のないユイとのトーク画面から電話のマークを押して耳に当てる。最後までしっかりコール音が鳴って、電話に出ることができませんと女の人の声がした。
「どこ行ったの」
再度出た言葉は自分でも驚くほど弱くて、大きい笑い声もバイバイと元気な声も異世界みたいに感じる。
いないと分かっていてもパーティー状態の校内を歩き回って、朝ユイが逃げ込んでいた階段の前までやってきた。不意に手の中で震えた携帯を急いで確認するとソウからのメッセージ。
「ユイいなくなった」
頭が真っ白になって、気が付いたら教室に戻っていた。
「ユイどこ行ったの!」
脇目も振らず教室へ駆け込むと、自分の席の前に立って机を見つめるソウがいた。教室には他に誰もいない。私に気がつくと奥二重の綺麗な目がこっちに向けられて呆れたように細くなった。
「お前ほんと、ユイのことになると必死だね」
俺の時でもそうしてくれる? と首を傾げているソウにたぶんねと肩を竦めた。
「これ見て」
「なに? メモ?」
「式終わってから戻ってきたら置いてあった」
ノートの切れ端に癖のある丸っぽい字が書き殴られている。
『僕は海の魚になりたい』
間違いなくユイの字だ。
「魚ってなに? どういうこと?」
「さぁ……。さっきから返信もないし電話も出ないんだよな。ヒトミはどうだった?」
「私も全然。既読もつかないもん」
まじか、と頭を抱えてソウが唸る。
それでも取り乱さないのはまだ当てがあるからだ。きっとソウも同じだろう。スピーカーになっている携帯で何度もコール音を鳴らしては切ってメッセージを送っている。私も返信のないトーク画面を見つめてため息をついた。
「生きてるよね?」
そう入力して送信を押そうとして縁起でもないと文章を取り消す。
去年の今頃、どうしても断れない誘いがあると言うソウ抜きで2人だけで海に行った。膝まで水につけて何も言わずに立ち尽くす姿が並にさらわれそうで、思わず腕を掴んでしまった。驚くユイに消えちゃいそうだなんて言った私に「僕はそんな簡単に連れてかれないよ」と笑っていたのはまだハッキリ覚えている。
嫌な予感が消えない頭の奥を消したくて、黒縁の伊達メガネを取って目を擦った。未だになり続けるコール音と耳を塞ぎたくなるセミの声。
「死んでないよな」
ソウが呟いた。
「さあね」
無意識に出た言葉は思ったより冷たい、ユイと同じような口ぶりだった。そんなことないと言い切りたい。でも。
人なんていつ死ぬか分からないよ。
静かな波の音の中、遠くを見つめて私に言ったのは他でもないユイだった。