【コラム】鶴翼の陣VS車懸かりの陣……実際はどうだった!?
以前の定説の川中島と言えば、信玄が八幡原で待ち受けて、謙信がそれを見抜いて攻撃するというお話がおおかったです。
……しかし、昨今では霧の中での偶然の遭遇戦であったとの見解が有力になってきました。
例えば両軍の死傷率は70%にも登ります。
これはきちんと統制が取れていれば、20%くらいになれば勝敗がつくのが一般的です。
お互いわけがわからないまま、延々と戦っていた一つの証左であると言われています。
他にも霧の中で、相手を狙って見つけるのは、懐中電灯や暗視装置がない時代には、不可能だという見解もあります。
ではなぜ、兵力を二手に分けた武田軍本隊が、兵力劣勢なのに鶴翼の陣形をとったのでしょう?
鶴翼の陣とは日本では、相手より兵数が多い場合や、こちらの人数を多く見せたいときに使います。
相手の陣形がわかりにくい霧の中では、特に有利ではない気がしますね。
……では、実際はどうだったのでしょうか?
☆★☆★☆
有力説としては、武田上杉両軍が縦長い縦隊で移動していたのが、ちょうど図のように偶然出会った説が有力です。
縦隊行進で出合い頭、ほとんど何もできません。
当時陣をキチンと整えるには1時間くらいは掛かったであろうと言われています。
きっと無理ですよね!
相手がすぐそこですから……(;^_^A
☆★☆★☆
結局しょうがなく、武田勢は左を向いただけの横陣のような鶴翼となり、上杉側もそのまま縦隊のまま攻めてきたのではないかと言われています。
上杉側の車懸かりの陣は、一般的に以前はくるくる回りながら攻めるという超難易度で、戦う前に兵隊がばてそうな陣形でした。
いまでは『それはさすがに無いんじゃないか?』といわれ否定されています。
……しかし、じゃあどんな陣形だったのかについては謎です。
でも、まぁ少しくらいは謎があったほうが楽しいですね (*´▽`*)
☆★☆★☆
【余談】……新説でも、関ケ原の戦いの新説はなんだかガッカリしました。
やっぱり昔話の合戦絵巻は、夢があった方が良いですね (*´▽`*)