最終話……甲山の猛虎達
浮きつ沈みつ均衡した戦場であったが、甲軍別動隊の到着により、形勢は一気に傾く。
烈火の如き勢いで、甲軍の将兵が押し寄せる。
……越軍は如何に退却するかが、喫緊の課題となっていった。
「退くな! 戦え!」
越後方の殿一番備えは、直江景綱。
堅守を旨とした堅実な用兵家だったが、甲軍の勢いに飲まれる。
前線を構築する長柄部隊の整列さえ難しい。
「矢、放て!」
「うぐ……」
槍衾を並べようとしたところを、真田幸隆の手勢の矢が乗馬にささり、退かざる得ない儀となる。
郎党に守られ、引きずるように戦線を離脱。
「掛かってきませい!」
代わって、殿備えについたのは宇佐美定行の手勢だった。
後に越後流軍学の祖ともいえる彼の指揮は、見るものがあった。
長柄足軽に加え、巧みに徒武者を並べ、粘り強く白兵戦で応じる姿勢を見せた。
「御首頂戴致す!」
そこへ、郎党を率いて、槍を掲げて突っ込んでくるは、飯富昌景。
甲州の暴れ牛と称された昌虎の弟だった。
「いやぁ!」
勢いよく甲軍の騎馬武者が、正面からも側面からも踊り込み、それを見た長柄足軽たちが、主人たる徒武者を見捨て逃げ出す。
「……ぬぅ」
誰の目から見ても、趨勢の帰結は明らかだった。
霧は既に晴れ上がり、越軍の劣勢はより明白になる。
「退け!」
宇佐美隊も側面からの包囲を恐れ、撤退に掛かる。
上杉方の旗が、あちこちで武田方に踏みにじられる。
……ここに越軍は混乱し、戦場にて潰走に映る。
犀川は両軍の血で真っ赤に染まった。
首のない死体が、浮きつ沈みつ多数流れていった……。
「……儂は勝ったのか? それとも負けたのか?」
信玄は越後方の勢力を信濃から一掃し、甲信地域の支配を手中にしたが、弟信繁や勘助をはじめとした股肱の臣を多く討ち死にさせてしまった。
彼はその後、このような乾坤一擲というような戦術は避けるようになり、老獪な戦略を縦横無尽にすることとなる。
孫子曰く『戦う前に勝て!』を実践し、稀代の戦国の巨獣と恐れられることとなった。
☆★☆★☆
――信玄と謙信。
もしも信玄が北進策をとらなければという説がよく提議される。
彼らが別の方向に力を注げば、天下の趨勢は変わってきたかもしれないというのだ。
特に両者とも、野戦においては絶大な強さを発揮した。
それは、両者の軍勢が、寒い越後や貧しい甲斐の武士だったのも大きい。
戦いに勝たねば、即困窮する身分だったのだ。
よって、大して豊かでもない北信地域を巡って争っている。
それは両者の戦略の誤りというより、当然の帰結だったのかもしれない。
川中島に訪れた人は、今でも名将たちの息吹を感じるという。
これからも、多種多様な人たちによって、異なる新しい川中島が産まれて来るであろう……。
――御旗盾無、御照覧あれ!
【完】
最後までお読みいただき有難うございました。
2021年3月7日
黒鯛の刺身♪




