2.突然の告知
「あ、アタシ一年後に死ぬから」
「…………はい?」
聞いた瞬間、手に持っていた鍋を取り落としたのは仕方が無いと思う。
「本当にきっかり一年後に死ぬとは…」
朝、いつまで経っても起きてこない師匠の様子を見に寝室へ入ると、目の前には昨日師匠が来ていた服がベッド上に、まるで着ていた人がそのまま居なくなったような形で残されていた。
ウルリカは師匠と二人、森の奥の粗末な小屋で暮らしていた。
師匠の名前は知らない。聞いても教えてくれなかったからだ。それに年齢も。笑いながら二百歳とも五百歳とも言っていた。見た目は老婆だから、それなりの歳だったのだとは思う。
師匠は聞いたことは教えてくれないのに、聞いてもいないことは一方的に教えてくれた。ウルリカが嫌だと言ってもだ。傷を治す薬草、星から暦を読む方法、獣の狩り方、文字の書き方、話し方。加えて、師匠は不思議な力を持っていた。魔法と呼ぶその技と知識を、同じくウルリカに叩き込んだ。やり方はやや人道的では無かったが。まともな人付き合いを殆どしてこなかったウルリカでもそう思うほどに。杖一本と共に谷底に捨て置かれた時は本気で死ぬかと思った。
そんな師匠がたまに突拍子のない事を言うのは今に始まった事では無かった。が、一年前。突然死ぬと言われたときは流石に何の冗談かと思ったものだ。
しかし、それからも師匠は事あるごとに死ぬ日までの期間をウルリカに告げ続けた。あと半年。あと一ヶ月。あと、一日。
そして最初に自身の余命を宣言してからちょうど一年後の昨日。最後の晩餐だ何だの言いながら自分に作らせたご馳走と途轍も無い量の酒を平らげ、ウルリカに介抱されながら酔っ払って早々にベッドに入っていったのである。
ウルリカは目を擦る。しかし、何度見ても師匠が寝転んだはずのベッドはもぬけのから。あるのは昨日寝る前に師匠が着ていた服と、枕元の僅かな砂だけである。
…確かに死んだのだと思う。
いつも感じていた師匠の魔力の揺らぎが感じられない。それに何より、いい加減な師匠だけれど、一度言葉にした物事は、決して覆されたことはなかったのだ。
嵐が来ると言えば嵐が来た。麦が豊作だと言えばその年は豊作だった。家畜の仔が死産だと言えば、その通りになった。
ウルリカは鈍い足取りでベッドに近づく。枕元に文字の書かれた小さな紙切れがあった。
"ウルリカへ
アタシが死んだら、変じた砂をイスヴァルトの海に撒きなさい"
「…砂になるなんて聞いてないし」
一年の猶予があったからだろうか。思っていたほどの悲しみはやってこない。ただ、師匠はもういないのだという現実だけが目の前にある。悲しくはないのだ。何より、人としてどこか欠けている自分にそんな感情はあるはずがない。ただ、胸に空虚な穴が開いたように感じるだけだ。
「…泣くの、今だけだから、怒らないでね師匠」
この虚しさも、一粒の涙で流してしまうから。
名前も何もかも知らない師匠。出来の悪い弟子だと言いながら、しわだらけの手で頬を撫でてくれた師匠。
ウルリカは、またひとりぼっちに戻ってしまった。
ウルリカは師匠と二人暮らしだった。そして、ここは森の奥深い場所で、周りに他の家はない。そこそこ歩けば街があるが、ウルリカが特に親しい人間は居ない。例外は師匠だけだ。
これからどうするか。とりあえず師匠の遺言に乗って、海に行ってみようか。
ウルリカが暮らす森があるこの国を、イスヴァルト国と呼ぶ。国の東には王都があり、そこは数え切れないほどの人で溢れ、とても活気があると聞く。そこで一儲けするのもありだ。なにせ自分にはお金を稼ぐあてがある。この田舎にずっといるよりもっと稼げるかもしれない。それに、生まれてから一度も見たことがない海。少し興味がある。師匠が居ないのなら、もうこの森に残る理由もない。
とりあえず今日は諸々の準備をする事にしよう。そうと決まればまずは朝食を食べる事にする。まだ温かい野菜のスープに乾燥して硬くなったパン、塩を振って焼いた明告げ鳥の肉。一緒につくってしまった師匠の分は…お昼に回せばいい。うん、つくる手間が省けて良いじゃないか。
冷めないうちに平らげ、今日だけは食後のお茶を飲もうと戸棚を覗き込む。紅茶は師匠の私物だ。たまにしか同伴に与れなかった。持ち主がいないのだから勝手に使っても許されるだろう。そう思ったウルリカがふと見ると、紅茶缶の下に紙切れが挟まっている事に気がついた。…何か文字が書いてある。
"ウルリカへ
アタシがいなくなっても食事はきちんと食べること。仕事に熱中して忘れないように"
「師匠…」
どうやら追加の遺言ならぬお小言のようだ。
(死んでからも口煩いんだから…あれ?)
しばし思い出に浸るが、よく見ると紅茶缶の隣、砂糖壺の下にも同じような紙切れがある。
"ウルリカへ
紅茶を飲むなら砂糖を入れな。アタシがいない分、少しは贅沢に使うんだよ"
枕元の遺言と合わせて、わざわざ三枚も紙切れを残したのだ。本当に最後まで口煩い師匠だ。眇められた赤い瞳を思い出す。
淹れた紅茶にスプーン二杯分の砂糖を入れる。甘いものは大好きだが、倹約が身に染み付いているウルリカはいつもスプーン半分しか入れなかった。好みの甘さになった紅茶を飲みきり、使い終わった食器を洗う。洗ったものを棚に置こうとすると、棚の上にまた見覚えのある紙切れがあった。
(え、もしかして)
そっと指先で摘まむと、文字が書いてあった。
"ウルリカへ
ベンじいさんの店にツケてた酒代払っといてくれ"
「うん、これは見なかった事にしよう」
摘んだときと同じ動作でそっと元に戻す。小言だけではなく面倒なお願いも残していったようだ。…知らない知らない、見てない。
だいたいウルリカのお金はウルリカのものなのだ。師匠のツケは死んでも師匠のものだと思う。親族が尻拭いすべき?残念だけど師匠との間に血の繋がりはない。
汚れた水を家の外に撒き小屋に戻る。開こうとした部屋の扉。木材のひび割れに差し込まれた紙切れが見えた。
"ウルリカへ
アンタ夜中に台所から小麦粉やらバターやらくすねてたけど、菓子作りの才能は無いから諦めな"
「……」
師匠の教えに根を上げて、街で人気の菓子職人にでもなればひとりで稼いで生きていけると思った時期もあったのだ。結果として貧乏性が祟り、砂糖やバターをふんだんに使わなければ美味しくならない菓子作りは、ウルリカの性に合わなかったのだが。
引き抜いた紙切れをそっと畳んでテーブルの上に置く。すると座った椅子に敷いた布の下にも見覚えのある紙切れがあった。
"ウルリカへ
アンタのつくるスープは美味いけど材料ケチって味が薄いのが難点だ。良い男ができても同じ味のスープ出し続けたら愛想尽かされるから気をつけな"
余計なお世話である。それに味が薄いのではなく素材の味が生きていると言って欲しい。節約は生活の中からするべきなのだ。もちろん浮いたお金はウルリカの貯蓄になる。
ふと目線を壁にかけた乾燥木の実の袋に向けると、そこにも。
"ウルリカへ
アンタが画家になって楽して稼ごうと買った画材一式、三日間と続かずにベッドの下にしまったね。隠すならもっと工夫しな"
"ウルリカへ
アンタが作った香水、失敗したからって魔物除けの名目で売るんじゃないよ"
畳んだ服を仕舞おうと開けた衣装棚の中にも。
"ウルリカへ
アンタがハンカチに刺した魔物の刺繍、魔除の印だと言ったら行商が高く買い取ってったよ。才能があるんじゃないか?"
"ウルリカへ
アンタの下着、穴が開いてたから縫ってやろうと思ったんだけど余計に穴が広がったから捨てたわ。もっと色気のある下着買いな"
「うるっさいわ!!だから余計なお世話だわ!!」
叫んだ瞬間思わず掴んでいた紙を引きちぎってしまった。それにハンカチに刺繍したのは魔物ではなく野ウサギだ。かわいい野ウサギのつもりだったのだ。最初は。
ウルリカは脱力して床に座り込む。死んだはずなのに死んでないような気さえしてくる。歩くたびに書き置きが見つかる。このままのペースで見つけると、出てきた手紙で本が作れそうだ。というか高価な紙を無駄に使わないで欲しい。
脱力したままのろのろと顔をあげると、食卓テーブルの裏面にも紙が貼り付けてあるのが目に入った。
"ウルリカへ
ジョアンナの店にもツケといたんだけど忘れてた。明日にでも代金を取りに来ると言っていたから、よろしく"
決めた。今すぐでもここを出よう。独り立ちして早々借金まみれは御免である。
ウルリカは自室に戻ると木箱から手のひらに収まる大きさの瓶を掴み、師匠の部屋に戻る。そしてベッドの上に散っていた砂をかき集めて持ってきた瓶に詰める。
調合部屋から当分の間に必要な薬と煎じる道具、台所から小刀と調理器具をまとめて背負い袋に入れる。自室のベッド下からガラクタを押し除けてその奥、少しずつ貯めた銅貨の袋を引っ張り出して丈夫な皮袋に移し替えた後、腰にくくり付けた。
諸々の出立の準備を終えて、旅装束に着替える。愛用の杖を手に取ると、家の中を見渡したウルリカは、少しの逡巡の後、口を開いた。
「…行ってきます、師匠」
そしてウルリカは長年暮らした家を後にした。