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百合は最近、その日が近付くに連れて一層と顔が綻んでしまう。そんなせいもあってか、同業の保母さん達も百合を気にしていた。
「華木さん。最近ニコニコしているけど、何かあるの?」
園児たちのお昼寝休憩の間、職員室で日誌を付けている百合に、園長先生が気さくに話し掛けて来た。
「えっ? いやー、別にニコニコなんて。えへへ」
頭に手をやり、一際ニコニコとしながら、百合は園長の方に視線をやる。
「そう? 私には何か楽しみな事があるように見えるけどね。まっ、結構結構。若いっていいわね。私なんて四十過ぎてからワクワクする事なんてないわー」
「いやー、実はですね……」
さっきはなんでも無いと言った癖に、百合は待ってましたと言わんばかりに話し始めた。
「もうすぐ誕生日なんですよね。それで、毎年なんですけど、彼氏を呼んでうちで誕生日パーティーするんですよ! それが毎年楽しみで……えへへ」
百合は言いたくてたまらなかったとでも言った風に、満面の笑みを園長に向けた。園長は百合の話しをうん、うん、と笑顔で相槌を打って聞いてくれている。
「それで日に日に笑顔が増していってた訳ね。ちなみに華木さんの誕生日っていつなの?」
「えーっとですね。五月の二十五日です」
「あら? あと五日もあるじゃない?」
園長は目を丸くして百合を見た。
「何言ってるんですかー。五日なんてすぐですよー」
百合は掌を前で合わせて顔を傾げてみせた。
「うーん。華木さん三日前位からずっとそんな風にニコニコしてたわよね? あと五日もそのペースでニコニコし続けたら保たないわよ?」
困ったような表情で百合を見る園長は――華木さん、まるでサンタさんを心待ちにしてる園児たちみたい――と心の中で子ども扱いしていた。
「えへへー。大丈夫ですよー、業務はちゃんとこなしますからー」
そんな事を言う百合は未だニヤけている。
「そう、じゃあ日誌よろしくね。浮かれるのもいいけど、もうちょっと綺麗な字で書いてくれると助かるけどね、ふふ」
百合がギョッとして日誌を見ると、確かにそこには綺麗とは言い難い文字が並んでいた。
「うわっ、ご、ごめんなさい。書き直します」
筆箱から慌ただしく消しゴムを取り出す手を園長の手がそっと遮った。
「明日からでいいわよ。それに、華木さん元々字が綺麗だから汚いように見えるけど、全然これでも普通だから」
そういうと園長はニコっと笑って自分の机に向かって行った。
百合は園長が去った後に自分の日誌を改めて見直す。これが普通なのか……と思ってもみたが、やはり百合は消しゴムを手に取った。
百合がこの保育園で働き出してから早二ヶ月が経過しようとしている。仕事は思っていたより大変だし、給料も安いけれど、百合はこの職場が気に入っていた。何よりも子どもたちと触れ合っていると、疲れなんて吹っ飛んだ。
キーンコーンカーンコーン。子どもたちが寝静まった園内に、トーンチャイムの音色が響く。百合はなんとかお昼寝の時間に午前中の分の日誌を仕上げる事が出来た。午後の日誌はまた授業後に書かなければならない。
百合はピンク色のエプロンの紐を後ろで縛り直して園児たちの教室へと向かった。
百合の担当するクラスは年少組で、三十人程の園児たちを二人の保育士で担当している。
「華木さん。職員室出るの早いわね」
後ろから声を掛けられたので振り向くと、同じクラスを担当する、保育士歴二十年の田代さんだった。面長でポニーテールが特徴的な女性だ。
「はい、うさぎ組はお昼寝終わると大変ですし、少しでも早くって思って」
「あら、新米の癖に根性あるわね。よーし、今日も私がビシバシ華木さんを指導してあげるからね!」
田代は微笑しながら百合の肩に手を乗せた。百合が先ほど言ったうさぎ組とは年少組の事だ。ちなみに年少組はうさぎ組、年中組はコアラ組、年長組はライオン組となっている。
「はい! よろしくお願いします!」
先述したように、年少組はお昼寝休憩が終わると大変だ。ぐずり出す子、お漏らしをしてしまう子、まだ園に慣れない子も多いのでその数は多い。
「あー、由奈ちゃんお漏らししちゃったの?」
百合は早速布団の横で目をこすりながら泣いている園児の前で膝を折って尋ねる。
「……ぐす、う……う、う…………うわー、お、おかあさーん」
百合は、ぐずり出した由奈と呼ばれた子どもをそっと抱き締めた。
「大丈夫だよー。お母さんがお迎えに来るまでにはまだちょっとあるから、先生と一緒に遊んでいようねー。今は先生がお母さんの代わりだよ」
百合が抱き締めていると、由奈は次第に泣き止んで来た。
「……ひっく、……ひっ、う、うん」
由奈はそう言って百合のエプロンをギュッと握り締めた。
「じゃあ今からパンツを替えるからね……はい、足上げて」
百合は由奈の下着を脱がせ、エプロンのポケットに忍ばせていたおしぼりで一通り拭くと、直ぐに替えのパンツをロッカーから出して履き替えさせた。
「あ、ありがと。ゆりせんせい」
「うん。大丈夫だよ。少しづつ慣れて行こうね」
といった具合に次から次へ、園児への対応を終えると、汚れてしまった布団を纏めて干す作業に移る。やはりそういった作業も、田代の手際は見事だった。
「ふー、ひとまずは一段落ね。華木さん、少しは慣れて来たみたいね、日に日に手際が良くなってるわ」
田代は額の汗を手の甲で拭きながら百合を見た。
「えっ、いやっ! わ、私なんてまだまだ全然です」
「いやいや、大したもんよ」
百合は謙遜しながらも、内心しっかりとガッツポーズをした。
布団を布団叩きで叩きながら、田代は百合を見た。
「さ、まだまだ仕事は残ってるわよ」
「はっ、はい!」
教室に戻って行く田代の後を、百合は小走りでついて行った。
「ゆりせんせー、ばいばーい」
「またね、陸斗くん。明日は筆箱持って来てねー」
「ぼく、せんせーのこと好きだから、せんせーはしょうらい、ぼくとけっこんしてね」
「ええっ!? ……あ、う、うん。わかったよ」
「こら、陸斗、変な事言わないの。すみません」
「いえいえ、いいんですよ、私も嬉しいですし」
「ばいばーい」
「はい、ばいばーい」
手を振りかえしたそのシルエットは、夕陽が逆光になり黒い影となり、次第に小さくなって曲がり角に消えた。
「華木さんは本当に子どもが好きなのね」
職員室でコーヒーを啜りながら、一息ついていた所で、百合は田代に話し掛けられた。
「はい?」
突然話し掛けられ、百合は素っ頓狂な声を出す。
「だって見ててわかるわよ? あなた凄くニコニコして仕事こなすんだもん。保育士ってこれでかなり大変な部類に入る職種よ?」
「いやぁ、子どもたちと触れ合ってると不思議と疲れなくて、私」
ニコニコしてたのはもうすぐ自分の誕生日があるから、という事は伏せて答える。しかし、本当に子どもたちの面倒を見ていて、疲れたとは思った事も無かった。
「知ってる? 百合先生って子どもたちから人気なのよ? おかげで私のお株は落ちて来てるわ、ふふ」
目を見開いて驚いた、と言うか素直に喜んだ。
「えっ、そうなんですか?」
言うと同時に百合は心の奥がポカポカと温かくなって来るのを感じた。
「そうよ、みんなまだまだ小さいんだから、お母さん離れが出来てないんだけど、みんな百合先生は二番目のお母さんだから平気って」
「そうですか、嬉しいですね」
「よかったわね? 早二ヶ月でここまで気に入られちゃって。お母さん達からの評判も良いみたいよ?」
言われて百合は、いやーと頭を掻く。
「そう言えば華木さん、ずっと付き合ってる彼氏がいるって言ってたわよね?」
「はい? そうですけど」
そして田代の口から思いも掛けぬ言葉が出た。
「結婚しないの?」
ブーっと百合はコーヒーを吹き出した。
「そ、そんな、結婚なんて、まだ早いですよー」
照れながら手をブンブンと振る百合に田代はなんで? と聞いた。
「華木さん、そんなに子どもが好きなら良いお母さんになるのに。それに友達も何人か結婚したりしてるでしょ? 考えなかった訳は無いわよねー」
田代はいたずらっぽく目を細くして、百合を見つめた。
「そ、そうですけど、でも……」
言い淀む百合に、田代は細くした目を微笑みに変えて言った。
「人間何があるかわからない。極論、今日死んでしまうかもしれない。だからと言って即断即決を迫る訳じゃ無いけど、心に決めた人がいるなら決断してみてから様子をみればいいわよ。親に孫の顔を見せてあげるのは最大の親孝行だしね」
「親孝行……ですか」
親孝行、その言葉が百合の胸に響いた。女手一つで毎日馬車のように働いて自分を大学まで行かせてくれた母、その母に少しでも恩返しをしたい。その壮絶な過去を思えば、親孝行という言葉は百合にとってとても魅力的なものだった。
「まぁ、でも結婚は誰かの為じゃなく、自分の為にするものだからね、それだけは間違っちゃ駄目よ?」
「……は、はい。それは言うとおりです」
「何よりも、子どもが出来た時点で、極端に言えば、その人生は自分の為じゃなく、子どもの為の人生になるの。それを理解していない人は、子どもをつくる資格も無いわ」
「そうですね」
――そうなのだ、その信念の元に、百合は母に何不自由無くここまで育てて貰ったのだった。小中高の入学費、私立大学の入学費。必要だったお金は想像を越える。百合の為に使わなければ、相当贅沢をして過ごせたはずの人生を、母は百合の為に当ててくれのだった。当時は何も考えずに私立の大学に進学したりしていたけれど、今の言葉を聞いて、ひどく身に沁みた。
そこで百合は一つ訪ねてみた。
「田代さんも結婚して、子どもさんがいらっしゃいましたよね?」
「ええ、いるわよ。今年中二になる息子が、これがまたやんちゃ坊主でさ……」
そう語る田代の顔には満面の笑みが浮かんでいた。その顔はとても可愛らしかった。
「田代さんは、結婚して、子どもが出来て。今は幸せですか?」
そんな質問に、田代は迷った風も無く答えた。
「……幸せよ。これ以上なくね。色々大変な事もあるけれど、子どもの成長を見ていられるのが人生最高の幸せよ。充実してるわ」
百合は田代の言葉を聞いて内心、胸を撫で下ろす。
「ありがとうごさいます。私も結婚の事、ちゃんと考えてみます」
お母さんも、田代さんと同じように、私を育てる事を喜びとして生きてきてくれたのだろうか?
田代は自分の席へと戻って行き、業務に取り組み始めた。
「……結婚、結婚か。確かに、考えてなかった訳じゃなかったんだけどね」
そう呟いて百合はマグカップを置いて机に向き直った。