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姿見の前でコートをあてがう。黒のコートか赤のコートか。華木百合は洋服選びに没頭していた。
時分は十二月。真冬の真っ只中にあり、厚手の衣装の数多ある選択肢を削りに削り、ようやく二択にまで絞り込んだ所だ。
赤のコートを自らの前に合わせ、姿見に映る自分を眺める。
「よしっ! 可愛い!」
自分で自分を褒めながら、お役御免と黒いコートをベッドに投げ出す。
「あっ! 遅刻しちゃう!」
時計を見ると二時二十分。駅前での約束の時間は二時三十分。いつもの事だが百合は自分で自分に落胆する。しかし慌てない。遅刻しながらも、あくまでマイペースである。
「忘れ物、なーし!」
百合は白いニット帽を浅めに被り、二階の自室から一階へと下っていった。
「百合、出掛けるのか?」
階段を下りて直ぐ右手にあるリビングから、テレビの前で胡座をかいた母。華木櫟がこちらに向けて尋ねた。その手には昼間から缶ビールが握られていて、何処となく顔も朱くなっている様だ。
「もー。お母さん、昼間っからビール呑まないでよね」
百合の親の身を慮っての忠告も、母には馬の耳には念仏で「へいへい」と適当に手をヒラヒラと振るばかりだ。
「一位とデートか?」
「だからそうだって。昨日言ってたでしょ?」
ガサツに問い掛け――そうだっけ? と母は顔を捻ったが「いっちゃんに優しく温めて貰いな」と言ってイタズラっぽい顔で、にひっと笑った。
母の無神経な言葉に、百合の頬は母とは別の理由で同じように朱く染まった。
「いってきますっ!」
見え見えの照れ隠しで、百合は勢いよく廊下を走り抜け、ブーツを手で持って、靴下のまま外に飛び出した。
「まったく、デリカシーが無いんだよな……」
扉に寄り掛かりながらブツブツと呟き、同時に真っ白いブーツを器用に履いて、百合は駆け足で最寄りの駅へと向かった。
「ごめん、待った?」
流石に駅前でのこの時間帯という事もあって、人は絶えずあちらへこちらへと行き交っている。しかしそんな中、百合は直ぐに見覚えのある灰色のコートを見つけ、息を弾ませながらその背の高い背中へ近づいていった。
「全く、いつもいつも遅刻しやがって。いつになったらその遅刻癖治るんだよ?」
灰色のコートの前のボタンを締めた長身の男、保月一位は微かに微笑みながら呆れた声を出した。
むー、と百合は今度は寒さで朱くなった頬を膨らませた。
「いっちゃんだってこの前遅刻した!」
「おいおい、半年前の話しをいつまで引っ張るつもりだよ」
一位は困ったようにぽりぽりと頬を掻く。そのいつもの癖を見て自然と顔が綻んだ。
今日は週に一度のデートの日だ。お互い社会人となり忙しなく働く中。一週間に一度はデートをするという取り決めは学生の頃から今も続けていた。
「だいたい、いっちゃんが一人暮らしなんて始めるからこんな事になるんでしょ? 昔はお隣同士ですぐ会えたのに」
「そんな事言って……お前、昔から約束の時間に絶対出てこなかっただろ。……全く、毎回どれだけ待たされてると思ってるんだよ」
呆れた表情で、一位は肩を落とした。
百合と一位は実家が隣同士で、物心付いた時からの幼馴染でもあった。お互いを異性と意識し出したのはいつ頃かはわからないが、二人が付き合い始めたのは今から六年前の高校二年の十六歳の時だ。
「早く行こっ、男は小さい事気にしないの!」
百合は一位の袖を掴んで、ズカズカとお目当てのショッピングモールへと足を運んだ。
「わかったよ」
一位はズルズルと百合に引きずられる形で歩みを進めた。
「服買うから似合うかどうか見てね」
「また、服買うのかよ、女の子は大変だな」
一位がため息を漏らしても、百合は気にせずに人混みを掻き分けてショッピングモールへと向かった。
「ただいまー」
「あれ? うーい、おかえり」
百合が一位をショッピングモールで連れ回し、両手に買い物袋を携えて帰って来たのは時刻が七時が過ぎてからだった。
「百合、いっちゃんと晩御飯食べて来なかったの?」
リビングに入ると、意外そうな顔でソファに座る母に尋ねられた。
「うん、お金も無かったし、それに私がいっちゃんとご飯食べて来たら、お母さんが一人になっちゃうでしょ?」
「全く、そんな事は気にしなくていいって言ったろ?」
母はソファの上で額に手を当てて少し項垂れた。
「なんでー、お母さんの週一回の休み位は一緒にご飯食べたいんだもん」
そう言って百合は頬を膨らませた。それを見てか母は「そう、ありがと、百合」
ニコニコと惜しげも無い笑顔で母は百合の好意に応えた。
「じゃあちょっと着替えてくるね」
百合は両手に携えた買い物袋を持って二階へと向かった。
「またそんなに服買ったのか。女の子は大変だねぇ」
後ろのソファから、何やら呆れた様な母の声が聞こえて来た。百合は二階へ向かう足を止めて、少し驚いた表情で振り向いた。
「同じ事、いっちゃんも言ってた」
「え? そう?」
素っ頓狂な声で母は意外そうに応えた。しかしこんな会話はずっと以前から、いつも忘れた頃に繰り返している。
「昔からそうだったよね、なんかいっちゃんとお母さん同じ事言ったりする」
「またそれか。知らないよ。まぁ、一位は幼稚園の頃からよく家に遊びに来てたし、私に少なからず影響されたんじゃない?」
母は笑いながら顎に手を当て、まんざら嫌でもなさそうな表情だ。母は一位の事を昔から息子のようだと可愛がってたし、その表情はそれもあっての事なのだろう。
「そうかなー」
昔から母と一位は、何故だか仕草も言葉のセンスもなんと無く似通った所があった。
「でも、違う所も沢山あるけどね」
「ほー。例えばどういう所だ?」
百合は階段の途中で立ち止まったまま、吹き抜けた階段から肘を乗り出した。母は興味深そうにしてテーブルの上の赤いマグカップに入ったコーヒーを一口飲んだ。
「……うーん」
「うんうん」
「顔」
「なんだそりゃっ、それもありなら、性別から体型から全部違うぞ」
母は大仰にソファの上で笑った。
「うーん、お母さんは思った事を何でも言うけど、いっちゃんはそうじゃないって所は?」
「なんだ? 一位はそんな所があるのか」
母は笑いのボリュームを下げて百合の言葉に耳を傾ける。
「そうだよ。知らなかった?」
「知らなかったな。それは今の社会では必要なスキルだよ」
「へー、そうなの? 言いたい事を言わない事が? ただ主張性が無いだけじゃなくて?」
百合は興味ありげに身を乗り出した。階段から廊下の方へ落ちてしまいそうだ。
「そうだよ、社会で個々の主張性なんて求められちゃいないよ。主張出来るのは上の人間だけ。あとの人間はその後ろついて回るだけさ。そうじゃないとまとまらないしな。それに社会に出たら理不尽な事に耐え続ける毎日だ、そこでその主張性を発揮して上司に反発しようもんなら、すぐ首切りだよ」
母はそう言って首に手を当てて横に引いて見せた。
「へー、じゃあいっちゃん出世する?」
「また無骨な事を聞く娘だな? まぁ、上司に逆らわず、上司に気を使い、器量良く、上司に都合の良い部下を演じてれば、何処でも、何処の世界でも出世するよ」
「なにそれ、聞こえ悪いよ」
百合の眉間に少し皺が寄った。
「しょうがないんだよ、みんなそうしなきゃ守るべき物も守れない世の中なんだ」
「いっちゃんは会社犬なんかじゃないよ!」
百合は語気が上がる程では無いものの、少しムキになって答えた。
「むくれるなよ。犬とまでは言ってなかっただろ。要は言うべきタイミングとそうでないタイミングを知るべきって事だよ。黙ってばっかの奴は安泰だが、トップにはなれないって事だよ」
しかし百合は、ふんと鼻を鳴らして二階へと上がっていってしまった。
「ありゃ……百合の奴、一位の事になるとすぐムキになるんだから」
母は困った様な顔をして、特徴的な翡翠色の瞳を一度瞬き、テーブルに置かれたビールに手を伸ばして、プルタブを上げた。