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15~16


   15


 走る、走る。

 看護師に聞いた通りに階段を登って、突き当たりを右へ、しばらくすると、伝え聞いた部屋番号の記されたプラカードが見えてくる。

 会える、やっと会える! いっちゃんに会える!

 部屋が近づくにつれ、百合の鼓動は張り裂けそうに音を増していった。

 ――ずっと待ってたんだよ、私、ずっといっちゃんの事を待ってたんだよ! どうして私を置いていったの? でも、もうすぐに会えるからね。

 扉の前に立った。目の前の扉からは、無機質な電子音が聞こえる。

 ――これからはもう勝手にどこかへ行かないでね。だって私、やっぱりいっちゃんの事が世界で一番好きだから。いっちゃんがいないと壊れてしまいそうだから。いっちゃんがどんな姿になってても私はずっといっちゃんの事を好きなままだよ……。

 目の前の扉を開け放つ、この先にあれ程待ちわびた一位がいると知って。

 ――ピッピッピッ

 百合が扉を開け放つ一瞬前に、微弱な心電図の音が耳を貫いた。

 白い部屋の扉を開け、白い部屋の中が見える。あれはいっちゃんのお母さんとお父さんだ。じゃあやっぱりこの部屋にはいっちゃんがいるはずだ。

 何人かの看護師や、お医者さんが忙しなくベッドを取り囲んでいる。

 するとこちらに気付いたのか、一位の父が、驚いたようにこちらを見た。

「よかったな、一位。百合ちゃんと百合ちゃんのお母さんが来てくれたぞ……なぁ、一位」

 程なくして、看護師や医者たちは忙しなく動くのを止め、ベッドの足元に整列した。ごにょごにょと何かを言ったらしいが、何を言ったかは聞こえなかった。だけどその言葉を聞いて、一位の母はベッドに寝ている人の胸で泣き始めた。

 百合は一歩、一歩と近づいていく。

「一位? ほら、百合ちゃんが来てくれたよ。あんたと百合ちゃんは、やっぱり繋がってたんだよ、こんな事しても、無駄だったね。ねぇほら、一位……? 最期に百合ちゃんが来てくれたよ……ねぇ、一位…………?」

 ――最期ってなに?

 絶望的な表情を顔に貼り付けた百合を見て、母はこの部屋の雰囲気の危険を察知した。

「待ってください! 一位はまだ死んじゃいません! 必ず意識を取り戻します!」

「…………いっちゃ……」

 百合はベッドに眠る一位を覗き込む、そこにはかつての面影などほとんど無いような、幽鬼のように痩せ細った、顔の青白い人がいた。

 だけどまぎれもなくそれは一位なんだと百合にはわかった。

 いつしか母はベッドの端にしゃがみ込み、一位の左手を取って力強く握っていた。一位のその指にはシルバーに輝く指輪がハマっている。しかし木の枝のように指までも痩せ細ってしまった一位の指から、その指輪はあっさりと外れ、百合の足元にまで転がった。

 百合がそれを手に取り眺めると、指輪の裏に『yuri』と刻まれている事に気が付いた。

「これ……は?」

「百合ちゃん、それね一位が、百合ちゃんの誕生日に渡すはずの物だったんだって……」

「一位ママ……っ! まだ、まだ一位は……っ!」

 一位の母は、鞄からおもむろにもう一つの小さな赤いリングケースを取り出した。それを開けると、そこにはもう一つ、指輪が鎮座していた。裏には『ichii』と刻まれている。左手の薬指にはめてみると、ピッタリと百合の指にハマった。

 そしてそれと他に、一枚の簡素な手紙が同梱されていた。その小さな紙を裏返して見ると、綺麗な字でこう書いてあった。

『誕生日おめでとう。これからもお前と一緒に年を取っていきたい。口でも言うけど、自分が逃げ出せないようにこの手紙も書いて同梱しとく。百合、結婚しよう』

「一位ママ……っ! 今それはっ!」

 母は狼狽えて百合からそれを奪おうとした。

「………して……の?」

 リングケースを持ったまま、腕をだらりと下げてうつむいて、百合は何かを呟く。

「百合ちゃん。一位からの最期の気持ち、受け取ってくれるかしら……」

 ――だから最期ってなに?

「……うして……うの?」

「……え?」

 再度、一位の母は百合に問い返す、そして百合は悲しみに歪んだ顔を上げて激昂した。

「どうして今こんな物を渡すのよぉぉおおっ!!!!」

 百合は勢い良くリングケースを病室の床に叩きつけた。病室がしんと静まり返り、一位の微弱な音だけが虚しく聞こえる。そして改めてしらしめさせられる。

 一位はもうすぐ死ぬ。

「ゆ、百合……一位は、まだ死んで無いんだ! きっと、きっとこいつは目を覚ます、だから……っ」

 肩を抱こうとする母の手を、百合は払いのけた。母にこんなに反抗的な態度を示す事は初めてだった。百合では無く、ベッドに眠る一位を見つめながら母に問うた。

「お母さん、知ってたの? いっちゃんが病気だって」

「ちがっ……百合、お母さんはっ」

「やっぱり知ってたんだ……?」

 未だ百合の目は、母を見てなどいない、大切な物を失った瞳、生気を失なったような瞳で大切だった人を見下ろしている。

「……どうして?」

 ボソリと囁くように喋る百合の顔は、今や正気とは思えないような表情に歪んでいる。

「百合っ……落ち着け……っ」

「きらいきらいきらいきらい。大っ嫌い、みんな大っ嫌いっ!!」

 百合は勢いよく病室を飛び出していった。

「ゆっ、百合っ……!」

 母は追い掛けたが、結局百合を完全に見失った。必死になって今も娘の居場所を捜して走っている。

 否、母はいつから百合を見失っていたのだろうか。

 すまん一位、一番最悪な事になった……。

 神などいない事を、この日痛感した。

 そして悪魔の存在を確信した。


   16


 病院を走り抜けて無我夢中に走る、まだ頭の中は判然としなく、ある種パニック状態のまま百合は人混みを掻き分ける。

 一位の入院していた病院は、割と人が賑わっているような地域で、百合は車の行き交う街中を必死に走っている。

 百合の心にはぽっかりとした虚空が出来た。しかし、未だ先程起こった現実を現実と理解出来ない。否、理解する事を拒んだ。

 しかし、足を動かし走り出し、息が上がるにつれて意識は鮮明に、且つ現実を直視しなければならなくなってくる。

 人の逃げていられる時間は限られている。

 そのタイムリミットが刻々と百合に差し迫ってくる。しかし理解したらどうなってしまうのか。

 いずれにしても転ぶ先は転落でしかなかった。

 息を荒げて、自然と足が速度を緩め始める。しかし止まる事はしない、止まってしまえば理解してしまう。

 群衆はそんな百合を一瞥して、なんの事も無く普段の日常へと戻って行く。

 百合の不幸など露知らず、人の災難など露知らず。関わりたくないと目を逸らす。

 いつしか百合は走る事を辞め、ゆらゆらと揺らめきながら、街中を歩いた。ファーストフード店、電気店、雑貨屋、アパレルショップ、コンビニ、ゲームセンター、パチンコ屋。――テレビ。人の不幸で金を稼ぐニュース番組。それなのに狡猾に偽善者を装う報道者。

 ゆらゆらと、ゆらゆらとやかましい喧騒の中をひた歩く。しかしそんな喧騒は百合の耳には届いていない。百合は今、真っ暗闇の中にいた。光も見えない闇の中をゆらゆらと彷徨っている。

 何かが聞こえて来た。騒がしい喧騒が百合の耳を突くようになる。

『きみの為ならー命だって投げ出そう〜♩……』

 どこかの店の店内から、最近流行っているアイドルグループの歌が聞こえる。百合もこのグループの事が大好きで、通勤中などにひたすら聴いては、一位の事を想い描き、涙を流した。

 しかし、何度もリピート再生した大好きだったはずのこの歌の歌詞が、今の百合の癪に酷く触った。ふつふつと沸騰するような感情、この歌に対する嫌悪感、いやそんな生易しい物では無く、殺意に近い物が芽生えた。

 君の為に死ぬ事は厭わないと歌う。君の為なら死ねると歌う。

 本当に死ねる? 死ぬという事がどう言う事だかわかってるの? 軽々しくも人の為なら死ねると歌うあなたは『死』がわかっているの? 

 人の為に死ぬ事は格好良い事だとでも歌っているの? 

『死』これ程絶望的なまでの恐怖は他に無いというのに、それを格好良い事のように歌う。

 駄目だ、理解したく無い、理解したく無い理解したく無い理解したく無い!

 百合の頭は徐々に『死』をテーマに思考を始めようとする。しかし百合はそれを拒む。しかし嫌でも今は『死』に過敏になる。

 ドラマだってそうだ、映画だってそうだ、小説だってそうだ。

 人が死ぬ。

 しかし人はそのシーンでこそ涙を流す。

 ――――わかった。

 人は人の死が好きなんだ。誰かが死ぬ事をこんなにも楽しんでいるんだ。

 しかしそれはタブーだ。それを言えば人は非難し、叱責し、排他する。なんて酷い人だと蔑む。そして自分たちは人が死ぬ事を可哀想だと同情する行為に大勢で酔いしれる。

 これが真実。

 目を背けるな、これが真実だ。


 お前たちは皆、悪魔なんだ。


 夢想、空想の、無限大の世界の中で、何故に人の死などを描くのだろう? 自由な世界で、何故不幸を描くのだろう?

 無限大の世界、ならば人の幸せを描けば良い。しかし人は遥か昔から、国境問わず人の死を描く。

 何故? 何故? 何故?

 その方が盛り上がるからだろう?

 人が死んだ方が気持ちが昂ぶるからだろう?

 テレビを観ればわかる。そこに全てがある。人の不幸で金を稼ぐ。

 充分だ、誰かが死ぬなんて、この現実世界だけで充分だ! この世界は狂っている!

 何処か遠くへ行こうと思った。何も聴かずにいられる、何も見ずにいられる静かな所へ向かいたかった。

 地下鉄の階段を降り、一番高い切符を買い、目の前のホームに立つ。行き先など知らない。知らない方が良い。知らない所へ行きたいのだから。

 どれ程だろう? どれ程待っただろう? もはやそれもわからない。

 やがて電車が来るというアナウンスが流れ始めた。じきに人を沢山乗せた鉄の塊が、ここに到着する。それに乗って百合は何処か静かな所で気持ちを落ち着かせるのだ。

 その時、一人の小さな子どもがパタパタと走り出し、黄色い線を越えた。すぐに電車が来るというのに……。

 ――危ない、と思った。子どもは前など見ずに走る。故にホームへの転落も百合には容易に想像出来た。

 自然と足が前に出た。まだ電車は来ないが、あんな小さな体では、ホームから転落しただけでも大怪我になり兼ねない。

 百合は黄色い線を越え、ふらふらとする子どもを抱き上げようとした。しかしその時、その子の母親らしき女性が後ろから百合にぶつかり、押し退けてその子の元へ駆け寄った。

 ――ドサッ

 百合の華奢な体は、その衝撃で線路上へと転落した。ざわざわ、と辺りがざわついた。

 頭から落ちたか、視界がふらふらとボヤける。暖かい物が百合の額を伝う。

 ホームの方を見た。

 先ほど百合にぶつかった母親は、ホームに転落した百合に手を伸ばそうともしない。ただ、泣きそうな顔で子どもを連れて、黄色い線の後ろへと引き下がった。

 ぐるりとホームを見渡した。皆、ホームに百合が転落した事に気付き、慌ててはいるものの、手を伸ばそうという者は誰もいない。誰もが関わりたく無いといった。風な表情や態度を取る。

 ふらふらする。ふらふらする。

 誰か助けろ! と声が聞こえる。しかし誰も応えない。誰も百合を助けようと手を伸ばす者はいない。

 まだ電車が来るには少しの猶予がある。頭がふらふらとしていても、ホームへよじ登る事は可能だった。

 しかし、戻りたく無かった。

 百合は黄色い線で隔てられたそちら側へ戻りたく無いと思った。

「こんなに汚れ、狂った人たちに紛れて、生きていく事なんてしたく無い」

 心から、心からそう思ってしまった。

 あぁ、いっちゃん、いっちゃん。いっちゃんは私を置いてあっちゃった。私が病室へ辿り着くのがあと少し早ければ、もう一度いっちゃんに会えたのに……

 プァン、と電車の近付く音がする。ゴトゴトと鉄塊の動く音がする。真っ暗なトンネルの先に光が差してこちらに近付いて来る。

 ホームを見ると、顔を覆う者、必死にこちらに何かを訴える者、正に阿鼻叫喚。しかし、人々は嘆くだけで、結局最後まで百合に手を伸ばす者はいなかった。

 ふらふらする。ふらふらする。

 ガタガタと鉄塊が近づいて来る。

 そっちに行ったら会えるかな? そっちに行ったらいっちゃんに会えるかな?

 スローモーションの中、百合はそっと左手を眺めた。その手の薬指には病室ではめてそのままの、銀色に発光する指輪がハマっている。

 誕生日プレゼントって……これだったんだね、いっちゃん。

 リングの裏には『ichii』と刻まれている。きっとまた一緒になれる、きっとまた一緒に。

 電車が近づいてギギギギっと急ブレーキを掛ける。しかしもう間に合わないであろう事は明白であり、ホームにいる人は顔を覆った。


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