9~12
9
後日病院へ足を運ぶと、一位は他の病院へ移ったと言われた。どれだけ押し問答しても、そこがどこの病院なのかも教えてもらえなかった。しばらくすると、隣に住んでいたはずの一位の両親も、行き先も告げずにどこかへ引っ越してしまった。
携帯も繋がらない。一位の行方がまたわからなくなった。
「一緒に頑張るって……言ったのに、一位の馬鹿野郎」
それでも時は流れた。一位の事など露知らず、時は一定にその針を刻む。誰が不幸になろうと、誰が幸福になろうと、刻々と進み続ける。
10
気付けば、一位が百合の前から姿を消してから、一年と半月が過ぎていた。季節は再び冬となり、寒くなった。百合の元には一位からの連絡も無く、一位の両親も何処かへ引っ越してしまって、一位に繋がる手掛かりなど掴めるはずも無かった。
毎日毎日。
それしか出来ない機械か何かのようになって仕事に没頭した。
ある日、そんな百合を心配した園長が、一週間の休暇を取らせた。百合はそれを断った。仕事を休んだら他に何をしたらいいのかわからなくなっていたから。
けれど、半ば強制的に百合は一週間の休暇を取らされた。
一日、一日、また一日と時が流れる。百合はショッピングに出掛ける為に、赤いコートを着て駅前に出たりしたが、結局何も買わずに直ぐに戻って来た。目の前を行き交うカップルが目に付いた。
一年と半月経っても、百合の一位への気持ちは今尚変わる事が無かった。それ程までに純粋に心から愛した人だった。けれど今はもう、その人はいない。
駅前を行き交う人々に目をやる。ごった返すようにひしめく人々、目の前にこれだけの人がいる。ならば世界にはどれだけの人がいるのだろう。
だけど違う。百合にとってどれだけの人がいようと、関係が無かった。百合に見えているのは、ずっとただ一人の人間だけだった。
――私は思い過ぎだろうか? 一人の人を思い過ぎだろうか? 世の中にはこんなに沢山の人がいるのに、私にはたった一人しか見えていない。
その人の存在は、未だ消えずに残っている。――否、そう思っていた。その人の事を思い浮かべる。ずっと思い続ける、ずっと一緒にいた人の顔を――――
けれどその人の顔が、少しづつ、少しづつ日を追う毎にボヤけていってしまう。
歯噛みした。たった一人思っている人さえも消えていく、不条理にも消えていく。こんなに忘れたく無いのに、その姿は不鮮明になっていく事をやめない。
――私の中でその人が消えたら、私は一人になる……。
いつか来る結末に恐怖した。
人間はこんなにも薄情な生き物なのか。あれだけ愛した人をも忘れてしまう、そんな生き物なのか。
――何処にいるの? いっちゃん。……私、ずっと一人だよ……。
そんな心の叫びは虚しく、そして儚くも何処かへ消えていった。
11
一位はまだ、何処かで闘っているのだろうか?
背負わせてくれ、と私は言った。だけどあの言葉は、一位の思いを蔑ろにする発言だっただろうか?
生きる事を諦めるなと私は言った。けれど、それを思い出させるのは、残酷な事だっただのろうか?
――いや違う。
もし時が巻き戻ったとしても、私はもう一度一位に同じ事を言うだろう。何度だって言ってやる。たとえそれを残酷に捉えられ、失望される事になっても。
死の美徳など存在しない。
美徳でなくても人は生にしがみついて生きていかなきゃならない。ならば生きている意味は? 生きている理由は?
――そんな事は知らない。
それは生きていてこそ見つけられる物だ。死んだら何にもならない。箸にも棒にもかからない。
しがみついて一秒でも永く生きろ。生きてきた意味がわかる瞬間が必ず訪れる。
死の美徳などは無い、けれど生の美徳はある。
死を宣告され、ただその時に恐怖し、時を待っているだけの行為は自殺と同義だ。
そんな奴には何にも見えちゃ来ない。生きた意味すらわからずに土に帰っていくのだ。
けれど、死を宣告されようと、生きる事を諦めない奴には、かけがえの無い奇跡を見つけられる。
私はただ、それが言いたかった。
これは私のエゴなのかも知れない。私のエゴに一位を引きずり回しているのかも知れない。だとしたら、これ以上無い位に私は愚かで、愚鈍だ。大切な人間の命を、生命を、好き勝手連れ回そうとしている……
――そして私は、愚かで、愚鈍で、馬鹿でも構わない。この行動で私は地獄の業火に焼かれる事になっても構わない。
私は、大切な息子をこのまま死なせる訳にはいかないのだ。
一位は、人の重しを背負って一人で死のうとしていた。けれど一位が一人で背負ったつもりのその重しは、その後必ず生きている誰かが代わりに背負う事になる。
一位は今、何処かで闘っているのだろうか?
櫟は煙草の紫煙を燻らせるながら寒空を仰いだ。
12
諦め掛けていた僕を見兼ねてか、お母さんは僕に生きる事を促し、病室を後にした。
それ位までしなければ、お母さんは引かないという事は僕にもまたわかっていた。
僕は嘘をついた。
僕は嘘をついて、お母さんを欺き、自分を後回しにした。
何故なら、完全に病に侵された僕の命は、もってあと半年だったから。
残酷だ。
確実に死する運命に、生きようとする意思を促す程に残酷な事は無い。
詭弁だ。偽善だ。綺麗事だ。
それ程残酷な事は無い。
――生きたい。
僕はそう言った……けれどあの言葉は本心だった。心からの気持ちだった。
それを考えてなかった訳じゃない、頭に無かった訳じゃない。
だけど、この世にはどうしようもない事がある。
お母さんには理想しか見えていない。
理想では人は生きられない。
幸せは、むしろその後に待ち構える絶望の色を濃くする事になる。
僕を待ち受ける未来は、僕自身が一番理解している。
結果、僕は何もかもを裏切り、そして失望させ、姿を眩ます事にした。
ごめんね、お母さん。
ごめんね、百合。
僕の事は、忘れてくれ。
――けれど、けれど確かにお母さんの言う様に…………
一位は無意識に頬を掻きながら、真っ白い気持ちで、真っ白い天井を見上げた。




