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癌だった。
かなり前から兆候はあったのだが、それが癌の兆候だとは気付けなかった。
聞いた時は愕然とした。これから始まると思っていた人生は、既に終わりを目前に控えていたらしい。
仕事も辞めた、遊びも辞めた、恋も辞めた、全て辞めた。やがて死に行く僕との関わりが深ければ深い程に、その人は落胆し、衝撃を受けるだろうから。
いや、僕は僕を過大評価し過ぎか。自分のような変哲もない一介の人間が一人死んだ所で、会社も、友達も、いずれは忘れていく。
だけど――――
百合の事だけが心残りだった。
百合とはこれ以上無い程に深い関係を持ってしまった。家族のように思っていた。
今はそれを後悔している。
百合や、僕の事を息子のように思ってくれている百合のお母さんは、僕の事をなかなか忘れられないだろう。
それが気掛かりでならない。
僕の事を思い出していつまでも悲しみ続けるのだろうか? 僕の事を思い出す度に暗い気持ちになるのだろうか?
百合は僕の事を一生気に病んだまま、残りの半生を生きるのかも知れない。それは百合に誰よりも長く付き添った――いや、誰よりも長く付き添っているのは百合のお母さんか。
何にせよ、僕の存在はこれからの百合の人生の足枷となるだろう。
それだけは嫌だった。
僕は今も百合を愛している。誰よりも絶対に。
――だからこそ、この愛が苦しい。この愛が憎い。
百合には幸せに暮らして欲しいんだ。
僕に百合は幸せに出来なかった。僕も幸せになれなかった。
僕に出来なかった事、僕がしたかった事、僕が手に入れられなかった物。百合はまだ手に出来る。百合の中で僕という存在さえ消してしまえば。
だからもう百合には連絡を取らない。百合に繋がる百合のお母さんとも。
両親には事情を説明して口裏を合わせてもらっている。大丈夫だ、きっと上手くいく。上手くいったかどうか、それを確認する事は僕には出来ないけれど、このまま離れていけば、ひっそりと僕は百合からも、百合のお母さんからも、姿を消していけるだろう。
それで十全だ。
それが最善だ。
けれどまだ……ただ一つ残した未練。
この未練を晴らせば、僕の役割は終わりだ。静かに誰の目にも止まらずに眠ろう。深い地中で永遠に眠ろう。静かに孤独に朽ちていこう。
――ああ、そういえば百合の誕生日の日に渡す予定だったプレゼント。結局渡せなかった。オーダーメイドの上、友人の店なので取り置いてくれているとは思うが……。
「おい」
突如、声のした方へ振り返る。真っ白に支配される病室の入り口に、紺色のスーツを纏った百合の母が腰に手を当ててこちらを睨んでいた。
一瞬、その光景が信じられなかったが、改めてその光景を確認し、そして愕然とした。
――どうして僕が入院しているとバレた? これでは、百合にも知られてしまう……っ。
「……お母さん」
一位の声を受けて、櫟は心中でショックを受けた。
とても弱々しく、自分の知っている一位の声とは到底考えられない程微かな声だったのだから。
櫟は察した。
これは生きる事を諦めた奴の声だ……。
櫟は毅然と一位を睨みつけるように見据える。
「一位、説明しろ……」
その言葉を聞いて、一位はうんざりとした。痛い程に受け入れた自分の現状を、今再び口に出して説明すれば、きっと自分を襲うのは改めた絶望だろうから。
「癌です……」
結論だけを言ったその言葉に、櫟は明らかな動揺を見せてから、一歩一位に近付いて口を開いた。
「……癌? でもまだ、治るかもしれないんだろ?」
やっぱり、説明なんてしたく無かった。受け入れたくなくても受け入れざるを得なかった自分の状態を、まるで自分が決めた事かのように説明する事に落胆があるから。
「若ければ、癌の転移も早い……もう、遅いんだよ」
「遅い?」
「帰ってください。どうして来たんですか……。どうして僕に関わろうとするんですか!」
弱々しくも、悲痛の叫び。
「わかった。全部わかった。……それでか、それでお前は百合や私を突き放していたわけか」
一位は微かに微笑した。力無く笑うその顔に、今は無い少し前の面影を感じた。
「お前の考えてる馬鹿げた事が、これでよくわかったよ」
――馬鹿げた事?
「……」
「一位、それでいいのか? 私たちとの関係を断ち切って、私たちに知られずに静かに死んで?」
「…………」
「言いたい事も言わず、自分は後回しか」
「……僕はもうじきいなくなります。僕とあなたたちがこれ以上関わっても、悲しみを増幅させるだけです」
「じゃあ、百合は?」
「…………っ」
その言葉に反応し、一位は顔を伏せるように俯いた。
「百合はどうなる? 百合との関係も断ち切って、それでどうなる?」
「どうなるって……」
「百合がお前の事を忘れると思うのか? お前とそんな別れ方をして百合が前向きに生きられると思うのか?」
――好き勝手言いやがって……っ!
一位は力強く顔を上げた、その眼差しには確かな怒りが現れていた。
「僕はもうじき死ぬ。百合には幸せになって貰いたい。だから僕は百合との関係は断ち切る。百合にとって僕の存在は足枷でしかなくなる。最後に僕に出来る事はこれ位だっ!」
痩せ細った身体と反し、燃えるような意思を感じる瞳だったが、櫟はそんな事には動じなかった。
櫟は一位と瞳を合わせ、間を開けてから口を開いた。
「お前、誰の為に生きてるんだ?」
――誰の、為に……そんな事……っ
「……どういう事ですか?」
一位はよろよろとベッドから腰を上げ、立ち上がる。
「お前の人生は他人の物か?」
「なにを言って……」
その時。
――ふざけんなぁっ!! と激しい怒号が一位の耳を突いた。
「お前はお前の幸せを考えろ! 私の娘は自分で幸せになる! だから私の息子も自らの幸せを望め! 死ぬかも知れねぇ時にまで人の事気にしてんじゃねぇよ、お人好し!」
櫟の声が病室中に響き渡る。
『息子』と櫟は、一位を言ってくれた。いつも通りに……それが、今更ながら涙が出る程嬉しかった。
「いいか? 百合の幸せはお前が渡すもんじゃねぇ。百合の幸せは百合が選び、勝ち取る物。お前の幸せは、お前がその手で掴み取る物だ!」
「でも、僕にはもう……」
「……でもじゃねぇよ馬鹿野郎! 自分の思いをっ! 自分の願いを言えよ! お前の人生だろうが! 自分を後回しにして生きてんじゃねぇよっ!! 百合がそんな事されて喜ぶと思ってんのかよっ!! お前と一緒に頑張らせろ!! 一人で決めんな!! お前の事背負わせろ!!」
「――――っ!」
自分の思い上がりを言語道断と断ち切られた一位の衝撃は大きかった。自分の下そうとしていた決断が、ぐるぐると形を変え始めた。
そして一位の心に、確かに灯った。
「……たい…………」
――生きたい。
「生き……たい」
僕の為に、そして。それは百合の為にもなる。百合の幸せにも繋がる。それは僕が下した、僕自身の幸せだ。
「僕だって……百合と一緒にっ! これからも生きていたいんだよっ!!」
しん、と病室は静まり返る。今思えば、あんなに弱っていた自分の口から、こんな声量の出た事に一位は驚いた。
つまり精神だ。弱っていたのは身体では無く精神の方だった。お母さんはそれを教えてくれた。
だから、今ならやれる。今からならやれる……まだ闘える。まだもう少し生きていたい。諦めるのは、精神が死んだ時だ。
「一位。さっき言ってたけど……もう遅いんだってな? じゃあお前、このまま死ぬのか?」
ズイと顔を近付けて櫟は呟く。幼い頃に、よくこうして櫟に叱られた事を思い出し、少し笑った。
「死なないよ。……何としてでも生きてみせる。……だから待っててお母さん。元の身体に戻ったら百合とお母さんに会いに行きます。それまでは、待ってて。必ず戻るから」
そして母は、太陽のように暖かくニッコリと笑って言った。
「……そうか」




