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 私はそれから直ぐに一位の住むアパートにまで足を伸ばした。本来なら一位はこの時間は会社に行っているはずだが、一応確認しておきたかった。一位に何かあったとわかってしまっては、何もしないなんて事は出来なかった。

 最寄りの駅までバスに乗り、そこから一位の住むアパートの最寄り駅まで電車を乗り継ぐ。一位が引っ越して直ぐに百合と共に引っ越し祝いとして一度訪れた事があったので、家の場所はわかっていた。

 ようやく目的の駅に着き、足早に改札を抜ける。そして駅を出て十分程歩くと、木製の古いアパートが見えて来た。ギシギシと軋む階段を踏み越え、迷わず二階の奥の部屋へと一直線に向かう。

 チャイムは無いのでドンドンとドアを叩く。しかしいくら待っても、水を打った様に反応は無かった。

「保月さんに用ですか?」

 ギィと古い扉を軋ませて隣の扉が開いたかと思うと、寝癖頭の中年の男が顔を出した。

「……はい、そうなんですけど、留守みたいで。やっぱり仕事に行ってるんですかね?」

 すると男は気付いたように、少し眉を上げた。

「ああ、保月さんね、この部屋引き払っちゃうみたいですよ。大家さんに聞いたんですけどね。いやー、保月さんはいい人で、よく残り物とかお裾分けしたりしてくれたのに、残念ですよ」

「引き払った?」

「そうそう、でも二週間位前ですよ? 大家さんが言うには、今月分の家賃は既に払ってたみたいなんですけどね、何処行っちゃったんでしょうねぇ」

 男はじょりじょりとした髭の生えた顎に手を当てて、瞳を天井に向かわせた

「二週間前……。部屋を引き払った理由は聞いていますか?」

「んー、なんか大家さんが言ってたようなー……。いやぁ、思い出せないな。大家さんに直接聞いたら早いんじゃないですかね?」

「じゃあ、大家さんの部屋は、どこですか?」

「ちょうどここの下の部屋だよ」

「ありがとうございます、じゃあ、行きます」

「いやいや、ちょっと待って待って。でもこの時間はなー。いるかわかんないよ? 大家さん、ここの家賃収入だけじゃやってけないっつって、副業してるんすよ」

「そうですか、帰りは何時頃かわかりますか?」

「んー、八時位かな? このアパートボロボロだし、扉開け閉めする音も聞こえちゃうんすよね、下の階から扉を開ける音がするのは、だいたいそれ位の時間かなぁ」

「そうですか。ありがとうございました」

「うーい」と言ってボサボサ頭の男は部屋に引っ込んでいった。――かと思うと再度扉が少しだけ開き、男の顔だけが覗いた。

「そういえばあんた、保月さんのなに? 保月さんの事知ってんの?」

 今頃気付いたというように、男は怪訝な目つきで私を見た。そんな問いに私は気然として答えた。

「私は、一位の母です」

「…………ああ、はいよ、わかりました。保月さんに会ったらよろしく言っといて下さい。また一緒に酒飲もうって」

 男は訝しげな表情を辞めて、今度こそ扉を閉じた。

 ――あいつ、アパートの人たちに気に入られてたんだな……。

 階段をギシギシと鳴らせながら下りていき、さっき教えられた部屋の前に立った。

 コンコン、と一位の部屋でした時とは違い丁寧に扉をノックした。

「…………」

 やはりと言うべきか、大家の部屋からは反応一つ返って来なかった。

「……どうすっかな?」

 一位の勤める証券会社に連絡してみるか? でも詳しく何処の会社なのかはわからない。百合に聞いたらわかるかもしれなかったが、もし一位の身に何か重大な事があったのだとしたら、それを百合に悟られる事は避けたかった。

 それに、何があったのかはまだわからないが、一位だって今回の件が百合に知られる事は望んでいないのだろう。一位の母の言葉や、一位のメールから察するに、何かを隠そうとしている事が窺えたし。

「じゃあ、どうすっかな」

 考えた末、結局私は大家を待つ事にした。時刻はまだ午前の九時を少し越えた辺り。空には今にも雨が降りそうな黒雲が低く立ち込めている。そんな中、私はアパートの階段に腰を掛けて待つ事を決めた。

 さっきの男が言っていた、大家の帰宅する時刻まで、まだ十一時間もある。しかし、毎日その時間に帰ってくる訳でも無いだろう。そして大家は何か有力な情報を知っているとも限らない。

 それでも、私は待つ事にした。

 軋む階段に腰を掛け、色々と思考を巡らせた。

 八時頃には百合が帰ってくるはずなので『今日は友達と一緒にご飯を食べるから、百合も何か食べてから帰っておいで。ニコちゃんマーク』とメールを出しておいた。


 午後八時を少し回った頃だった。真っ赤な唇と、厚塗りのファンデーションを施した中年の女性が、私を凝視しながら大家の部屋の前でがさごそと鍵を取り出した。

「あっ、あのっ、ちょっとすみません」

 私は小走りでその人に近づきながら声を掛けた。強烈な化粧の香りが鼻腔を突いて来た。

「あの、すみません、保月一位の事についてお聞きしたいのですが」

 私がそう言うと、女は――あぁ。と言った風に、改めて私の方に振り返った。

「あら、保月さんのお知り合い? 何かしら?」

 大袈裟にも見える上品な素振りで、大家は私の質問に応じてくれた。私はその態度を見て、少しだけ緊張を解いた。

「あの、一位……保月一位が。あの部屋を二週間前に引き払ったって聞いたんですけど」

「あら、誰から聞いたの? そうよ、二週間前に保月さんの親御さんが来てね」

「なにか、引き払う時に言ってましたか? 引き払った理由とか……あと、その時一位本人は来てましたか?」

「んー。一位さんはいなかったわ、本人が来なかったのは確かに不思議に思ったけれど、元々契約は保月さんのお父さん名義だったから。そこまでの疑問は感じなかったし」

「じゃあ、何故引き払うのかは言ってませんでした?」

 んー、と大家は考える。大家が少し動く度に香水の香りが風に乗って流れて来た。

「こういう事を突然来た人に言っていいものなのかどうかわからないんだけど……。まぁ、あなたが悪い人じゃないってのは目を見たらわかるし、いいわ」

 大家は母の瞳を見つめて微かに微笑み、そして続けた。

「なんかね、保月さん今入院してるみたいで、しばらく退院出来そうに無いみたいなの、それで部屋はもう引き払うって」

 暗く、低く朝から立ち込め続けた黒雲から、しとしとと雨が降り出した。そして徐々に徐々に、雨脚は強くなっていった。

 それでもその黒い雲は、とめどない様に、更に立ち込めていった。


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