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約束の焔―終わりを迎えた家族の、一つの約束―
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「村長。これ、新しい子のプロフィールです」
新緑生い茂り広大に連なる山と、色取り取りな木々に囲まれた景色。何処ともしれぬ日本屋敷。時刻は夕暮れに近づき、次第に群青だった空は、茜色へと変わっていく。そんな空を、何をするでもなく、ぽけーっと縁側で片肘を着いて眺めていた老人は声の主の方へ顔を向けた。
「新しい子かいな? 久しぶりじゃの」
訛りながらそう言うと、村長と呼ばれた老人は、寝転んだ姿勢のまま、一枚の紙を持ったまま突っ立っている男に、だらしなく手だけを伸ばした。
「焔の契約をした者ですね」
「そりゃ、そうじゃろ。それ以外の者に来られても、わしらで面倒見切れんわい」
村長は男からプロフィールの紙を受け取ったのに、それに直ぐに視線を落とさずに、またぽけーっとしばらく視線を彷徨わせていた。
「んー、んー?」
ようやく手元の紙を確認し始めたかと思ったが、近眼のせいか、村長はプロフィールを目の前に持ってきたり、少し離したりといった動作を緩々と始め、未だに内容が判然としない様子である。
すると、禿げ上がった村長の頭を休憩所と見込んだ、一匹の小さな赤トンボが、村長の頭のてっぺんにピタリと止まった。
「ぬ?」
それに気付いた村長は動きを止め、そろそろと頭に手を近付け、頭上に止まったトンボに向かって人差指をクルクルと回し始め、遂にはパッと頭上の赤いトンボを捕らえた。
「おいおい、この子と同じ名前の子が村にはおっただろ」
村長はトンボの話しでなく、プロフィールの事を喋っているらしい。村長がトンボを捕らえた手を広げると、小さな赤はそそくさと自然へと帰って行った。
「でしたらいつもとは違う名付け方をしなければなりませんね、同じ名前になってしまうと何かと不便でしょう」
村長の背後で直立した男は、今の滑稽な光景に、ピクリと顔を動かさずに口を開いた。
「そうじゃのー……」
何やら思案顔をして、プロフィールと睨めっこをする村長。
「漢字は違うんだがのう。おそらく、同じ読み方じゃなあ。……そうじゃっ」
言葉の途中で何やら思い付いたような声を出した村長は、おもむろに甚平の懐から白色の長方形の物体――電子辞書を取り出した。
「村長、相変わらず適当に名前を決めますね」
腕を組んで村長の後ろに立ち尽くしている男が、軽く毒突いた。
「うるさいの。……よし、出たぞ。よし、『ユウ』に決定じゃ」
そう言って、一人で決めてしまうと、村長は電子辞書を懐に仕舞ってしまった。
「次は何処の国の言葉です?」
呆れた風な声で、背後の男は村長に問い掛ける。
「えんぐりっすじゃ」
「ああ、次はイングリッシュですか、そういえば最近ご執心でしたね。……まぁ、名前なんてこの村にいる間だけのものですから、なんでもいいですが」
村長は傍で煙を上げる緑色の蚊取り線香に視線を落とす。年々発生時期が早くなる蚊に備えて置いている物だが。元書いてあった字が読めない程に、蚊取り線香の灰を受ける皿は年季が入っていた。
「そろそろ、蛍の季節じゃな」
「そうですね、蛍の季節です」
村長が何処か淋しそうに呟いたが、男は素っ気なく言葉をおうむ返しにしただけだった。
チッチッチッチと鳥が平和に鳴いたかと思うと、すっかり茜色に染まった山に向かって飛び立った。流麗な一陣の風に乗った草木の香りが辺りを満たし、足元でリーリッリーとマダラスズが大合唱を始めた。
村長と男はただただそんな風景を眺め、風情に身を任せた。




