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風を追うもの

「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」

 旧約聖書『コヘレトの言葉』一章十四節


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 時に西暦一二五八年(回教歴六五六年)。

 イスラームの法主カリフが座る平安の都(マディーナ・アッ=サラーム)バグダードは、モンゴル帝国征西軍の侵攻を受けた。

 このモンゴルの西征によって、五世紀の長きにわたり命脈を保ったアッバース朝カリフ王権は廃滅し、それに代わりメソポタミアの地には、遥か中央アジアから地中海沿岸レヴァントに至るまでを版図とする、久方ぶりの大帝国が打ち建てられることとなった。

 後に、フレグ・ウルスとかイル汗国とか呼ばれる国である。

 その征西を率いたフレグは、モンゴル大カアン・モンケの弟であった。この『フレグの征西』は、先んじたバトゥのそれと共に、十三世紀世界に吹き荒れた『モンゴル』という嵐から生じた大いなる旋風の一枝であった。

 黒風のごとく敵を薙ぎ倒すその苛烈非情の戦いぶりから、フレグ・ハンは敵には大変に恐れられた。そも『フレグ』というその名は『度を外れたもの』を意味していた。


 そんな帝国ウルスの創設者、偉大なるフレグ・ハンが月の沙漠を旅したのは、バグダードを攻略する直前のことであったという。

 いましも栗毛の駿馬にまたがり、ゆるゆると沙漠をゆくこの男の面差しの、優美なことと言ったらどうであろう。

 戦場で見せるモンゴル貴族の猛々しさ雄々しさをその面差しに保ちながら、それらは月明かりと混然となり、凛々しい美しさを秘めた彫像の如くである。

 若駒のたてがみは夜気に濡れ、月の光を吸っては鈍色に輝いている。枯木も石つぶても、深藍色の影を引き、ただただ夜の水底に月の光が降り積もっていく。

 伴なうものは気心の知れた連中ばかり。しかし、獅子の夜遊びというには、いささか枯れた風情がある。

 フレグは、栗色の髭をさすりながら、馬をゆるゆると彼方に見える墳丘へとむかわせた。吹きそよぐ風が、砂礫の間を駆け抜けて、彼のために何かの見取り図めいた風紋を描いてみせた。

 あの丘へ。

 あの丘へ。

「そう急かすものではないぞ」

 苦笑してつぶやく主の言葉を従者たちは訝しんだが、彼は笑ってばかりいる。

 風の声を聞けぬものに、四方世界を統べる資格はない。

 これなるはメソポタミア。

 ティグリスとエウフラテス、二つの大河の間を巡り、かつて数多の帝国ウルスが勃興した。その創始者の誰もが風に教えを請うたのだ。

 上古よりの定めだろうと、フレグは思っている。

「イスカンダルという男を、お前は知っているか?」

 連れの者にフレグは不意にそう聞いた。

 男が首をふると、フレグは目を細めた。

「その男は、なんでも俺達とは逆、つまり西から東へむかってこの地を征服したというのだ。二本角の鬼のような男であったとも言うし、もっと古い国の王の兄弟であったとも言う。まあそれは良くは分からぬ。

 だが、楽しい話だ。昔々のことだから、あのバグダードの都さえまだなかったそうだが、イスカンダル王は別の都を滅ぼしたのだそうだ。そして征きて征きて、最後は兵どもが音を上げてしまってな、しぶしぶ身毒インドの地で引き返したのだそうだよ」

「では、それでは貴方はその古代王以上のことをなさいますな。我等は、そのような兵どもとは異なります。御身の指図する先、どこまでも、どこまでも、お供をいたしましょうぞ。あのバトゥ様も手を伸ばせなかった、遥か西方の海までを平らげてみせましょう」

 そう言葉をかわした男たちの、その笑みの凄まじさを何と言おうか。

 後の世の作家は言う。モンゴル戦士たちこそは、漠北ばくほくの天地が、この地上に育んだ最高の獣である。

 中央ユーラシアの峻厳な自然と無尽の大地、そしてイラン・イスラーム世界の壮麗な文明が、その獣たちを奪い尽くすことのみならず、なにかを打ち建てんと欲する真に恐るべき征服者へと育てていた。

 フレグらは既に地中海世界を知っており、フランス王権と通じてイスラーム世界を飲みつくそうとしていた。

 この先にあるものはエジプトでありマグリブの地である。

 あるいはアナトリアの半島を抜け、ボスフォラスの海峡を渡りきり、ジョチ・ウルスの軍勢と交わってパンノニア平原へと出れば、彼らを阻むものはいない。

 黒風はやがてフランクの地、ヨーロッパをも吹きさらうものとなるだろう。

 しかしフレグは、今はそのような野望のことを考えてはいなかった。

 この地に興っては消えた数多の都、行き過ぎてしまったもののことを思っている。

「そして失意のイスカンダルは、若くして死に、ある街で最期を迎えた。そして偉大なウルスの帝権を誰に譲るのかを問われ、こう言った。「最も強いものに」とな。

 ははは。そしてウルスは四分五裂。彼の後を継ぎたくば、この世で最も強きことを証明せなばならなくなった。まったく迷惑至極、愚かな話。だが小気味良い。我が祖父チンギスとて今わの際に問われて、そう言いおおせはしなかった。俺が思うにな。イスカンダルは、己の後からこの世に来るすべての征服者に対して、そう命じたつもりだったのだ。汝ら、征きて征きて最も強きことを証せよと。奴はその為に、その為だけに、自らの生涯をかけて築いた帝国ウルスを風にしたのだ。吹きすぎれば後を留めぬ一陣の風にな」

 泣いているような、笑っているような、不思議な面差しでフレグは独り言のように語った。

 彼の供はみな、一様に黙り込み、ある者は古の王の無法に怒り、ある者はその愚かさを笑い、またある者はそうありたいと願った。

 やがて一行は墳丘の麓にたどり着く。

 ゆるゆると丘は続き、冷たい月がその上に光っている。丘の麓で供を待たせ、フレグはひとりで丘を登りはじめた。


 わずかに馬がいなないた。

 何かに怯えるように。

 丘の上に至り、フレグは馬を降りた。

 その時、小さな石塊の影が大きく伸び上がり、人の形をとった。

『さてもお約束の通りに、いらっしゃいましたね』

 その人影は黒いぼろをまとっていた。

 頭巾をかけており、顔はわからない。それどころか、どんな体つきなのかもわからないのだ。ぼろの縁が風に揺られて、夜と融け合って見えた。

 その得体のしれない者が、冷たい水に響くような声音で語りかけたのだ。

「そうさ。いかにも、俺は約束は違えない」

 フレグは恐れる風でもない。

 ただピシリ、と手にした馬の鞭をしなわせて、もて遊んでいる。

「かつてまみえた時お前は言った。我こそは『死』であると。我こそは歓楽の園を見せるものと。昔、身毒インドの勇士にも同じものを見せたと。かつてイスカンダル王にも同じものを見せたと。昔、昔、その昔にも同じことをしたのだと」

「そうとも、あなたは天命を持っている。私はその天命を教えるものだ。あの夜、ニザリの法灯をどう吹き消そうかと、あなたが頭を痛めていた時、私は言った。二年のうちに、この地へ来いと。そしてあなたに、あなたの手にすべき『楽園』をみせた」

 ニザリとは、暗殺教団アサッシン伝説で名高いニザール派のことである。フレグは、二世紀に渡りイランからシリアの地に勢威を示した強力な宗団と対峙しこれを討ち滅ぼしていた。

 そして、その最後、あの荒鷲アラムートの城をどう落とそうかと考えていた時、この影が彼のもとへとやってきたのだ。

「そして、あなたは来た。ニザリを滅ぼし、荒鷲の城から私を解き放って。私に抱かれるために」

 そう言うと、影身はまとっていたぼろを引きむしった。

 黒い布が千切れて、強い風がそれをさらっていく。

 フレグの眼に写ったのは、女だった。

 それも美しい女だ。

 白い裸身に、赤玉や青玉の嵌めこまれた金の手鎖や首輪、腕輪を無数に身に着けている。腰帯は深い紫の地で、薄っすらと竜の絵が染め抜かれていた。

 爛々と燃える金色の瞳が、その美貌の中心を占めている。そして、同じように地平線の近く金色に瞬く星が女の背後に見えた。

「我なるは、死。我なるは、美。私はあなたに望むものを与えよう。いやさ、あなたは既に天命に望まれているのだから、私とともに使命を果たすのだ」

 手を広げ、女はフレグへと歩みを進めた。

 フレグは微動だにせず、女を見ている。女はそれを承諾の印と受け取り、彼を抱こうとした。

 ヒュン、と風が鳴った。

 女は立ち止まり、息を呑んだ。

 その片方の乳房に、赤い線がうまれ、やがて血の雫が、ふつふつとそこから湧いた。ルビー色の粒が壊れ、赤い筋となって女の下腹へ流れていった。

 フレグは、手にした鞭で女を打ったのだ。

「俺は、天命など手にしていない。俺は、風だ。ただの風で良いのだ。それが吹きすぎた後、火明は消え、枝は折れ木々はうち倒されているかもしれぬ。あるいはまた、ツグミや鷹が飛び立つ役には立つかもしれぬ。花園を吹き過ぎれば、恋人たちを労う薫をまとうのかもしれぬ。

 だが、風は風。地平線を追って征くだけだ」

 傲然と男は言った。

 フレグ・ハンではない。ただの男になって彼はそう言ったのだ。

 女は、目を見開いた。

 その金色の瞳の中に、劫火が燃えているのが分かった。

 女は死である。あの金星の輝きが、荒々しく光ると、女は胸に手を当てフレグの鞭の痕に、自らの爪をたてて引きむしった。

「この私を抱かなかったのは、ギルガメシュよりこの方幾人目だろう。イスカンダルもまた私を袖にしてインドへ旅立っていった。最期は私が見とることができたが、あれは私にはついに興味がなかったのだ。

 私はそれが悲しかった。征服者が次々と私のところへ来たった。シャープールも良い男だった。あれらは私を愛してくれた。だが、やがて私は忘れられたものになった。

 我なるはバビロン。都市の母。ある者共は私を淫婦という。だが我なるは『金星』。マルドゥクにこの世の始まりの王権を与えたもの。四方世界を統べる者だ!」

 古い女神は、そう言った。

 そうして、眼を見開くと、死の炎がフレグを取り囲んだ。

 しかし、真のモンゴルは死を恐れない。

 死を知らぬことと、死を恐れぬことはちがう。恐れぬということは、己もまた死であるということなのだ。

 ゆえにこそ、炎の中に身を浸しても、フレグは焼かれなかった。

 金色の炎の中で、フレグの眼だけが優しい光を宿していた。女神と彼の視線が交錯し、ただ時が流れた。

 金星が幾度か瞬いたが、それはあたかも涙を流しているようであった。

 そして女は、ついに自分は真に愛されたことがなかったのだと悟った。

 地平線に没して金星の輝きが消えた。

「だが俺は、お前の声を聞いた時、お前の心を知ったと思った。己が何者なのかを知りながら生まれてくる空に煌く星の心を知ったと思った。それは俺達モンゴルにはわからぬ心だ。だが、その分からぬ所が良い。そのわからぬ心こそ、風を追うものが求めるものなのだろうから」

 フレグは女の腕を取り、己の胸に手のひらを当てさせた。

 金の焔が二人を取り巻き、ゆるゆると巡りながら空へ登っていく。

 月だけがそれを見ている。

 フレグは、死を愛していたのだ。ゆえにこそ、死から何物も受けとりたくはなかったのだ。

 女神は、風を追うものの心を知った。

 その虚しい探求の果てに、ついに自らの宿命さだめをさえ解き明かせずに消え失せていくものの心を知った。ソロモン王はそれを嘆いたが、フレグ・ハンはその虚しさをこそ愛したのだ。

 人は風に促されて歩みを始め、やがて風を追って走りだす。

 その行方ゆくえに何があるのか、その彼方かなたはどこへ連なるのか、人であるならば誰しも己が消え失せる前にその答えを得たいと思うだろう。

 そうでないならば、それは人ではなく、獣でもない。

 永遠というものを虚しいものと思えぬ星の女神には、ついにわからぬ心のはずである。

 いやさ風を追う心なぞわからぬ者こそ、神であり星である。定めの軌道に従い夜空をゆく、あの常住の星々に相応しい心得なのだ。

 星の女神はふと微笑んだ。

 やがて墳丘を朝焼けが照らし始めた。夜霧にぬれた駿馬が、金襴に縁取られてフレグを迎えに来る。

 一陣の風が吹きすぎて、彼は微睡みから覚める。

 女の姿はどこにもない。

 しかし、手にした鞭に、薄っすらとルビー色の条痕が残っていなかったろうか。

 夜はその色を落とし、青いメソポタミアの平原が目の前にうち広がる。

 墳丘の名はバビロン。

 かつて神々が住まい、女神イシュタルが愛した都。イスカンダルの死んだ都。メソポタミアを統べる者の都。

 すべては風の如く流れ去った古の都。


 その夜から、しばらくしてバグダートは陥ちた。二十万とも八十万ともいう無辜の民が殺され、イスラームの最大権威であったカリフもまた殺された。

 モンゴルは、やはり苛烈な死であり暴風であった。

 しかしその後、一二六〇年シリアの地。ゴリアテの泉(アイン=ジャールート)の戦いでモンゴルは、エジプトのマムルーク軍によって敗れた。あたかもかつてペリシテの巨人ゴリアテが、ダビデによって挫かれたように。

 巨人モンゴルの西進はここに止まり、ついにヨーロッパ世界が寇掠されることはなかった。

 だがむしろバグダードを滅ぼして後、フレグはオリエントの地に自らの帝国ウルスを建てることを考え、風を追うことをやめたように思われる。

 フレグのウルスはアゼルバイジャンのタブリーズを首都としたが、冬営地キシェラックには、バグダードの地を、メソポタミアの平原を選んだ。

 それは思うに、女神の星が光るあの沙漠を、フレグは愛したからではなかっただろうか。また或いは、あの夜ついに彼は彼が風のむこうに求めた、夜の最も遠い星をみつけたからかもしれない。

 いずれにせよ、風追い人の征服は、その時終わっていたはずである。

 その後、フレグのウルスは一三四〇年に滅び、他のすべての国々と同じように行き過ぎたこととなった。偉大なフレグが、イスカンダルとは道を違え、敢えて自らのウルスを風にしなかったのは、いずれはそうなることをよく知っていたからだろうか。

 あの不思議の夜のことも、星が瞬く如く興亡した遥かな国々のことも――地平線の向うに金星イシュタルの光を追うような、風だけが知っていることである。

 この星を巡る風の物語を聞き、夜空の光に胸ざわめかす時、お前は知る。

 自らもまた『風を追うもの』であることを。

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