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ポニーテールは笑わない。  作者: 藤和春幹
第三章
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第43話 私は笑わない

 再びプレイボールが宣言された。八回の表。ノーアウト二塁。カウントワンナッシング。


 静江さんに私がサインを出し、まずはセットに構える。いつものフォームから、目一杯の力を込めて、私の腕はボールを射出した。


「ストライク!」


 コースは少し甘かったかもしれない。


 だが、井川は手が出ないという風だった。私自身も驚いている。終盤まできて、こんなストレートを投げられるなんて。


「いいぞ敦子! ナイスボールだ!」


 返球を受け取る。もう、吹っ切れた。


 間を空けず、私は足を上げた。そして、挟み込んだ二本の指から白球は流麗な軌道でもって離れてゆく。


 静江さんが捕れるか捕れないか、ということは気にならなかった。静江さんはどんな球でも捕ると言ったんだ。だから、捕る。彼女はそういう人だ。


 白球は一直線に内角低めへ。井川はコンパクトなスイングで狙い打つ。


 たった一瞬の攻防。空を切る音がする。


「ストライク、スリー!」


 ――手元で、ストンと落ちた。フォーク。井川の唖然とした表情が、徐々に驚愕へと変わっていく。


 ボールはバウンドした。振り逃げの権利は発生している。


「アウト!」


 だが、静江さんはしっかりとボールを捕球していた。井川にタッチし、アウトに仕留める。


 ……これで、ワンナウト。打順は一番に返る。気は抜けない。


「千弘!」


「ほいよっ!」


 二遊間に強烈な打球。私と静江さんの声とほぼ同時に、飛び込んだ荒木の右手のグローブにボールが収まった。


 アウト、と。 審判の右手が突き上がる。


 二塁ランナーは飛び出している。荒木はそのまま立ち上がり、ベースにタッチした。


「アウト!」


 ダブルプレー成立。そうか……奈々。


 孤独という壁を取っ払えば、こういうことができるのか。鉄壁のバック。これほど心強いものはない。


 私は、もう独りじゃない。


 八回の裏は、井川の投球にやはり成峰打線は沈黙した。奈々のあの奇策が無ければ……と思うと、ぞっとする。




 そしてついに、九回の表がやってくる。


 打順は二番から。厄介な上位打線だが、私は自分と、仲間を信じて投げる。奈々が死守した一点を守り抜く。それが私の使命だ。


 あとアウト三つだ。それであの光陵に勝てる。


 思い出せ。奈々が言っていたことを。彼女のリードを。彼女のインサイドワークを、私が引き継ぐんだ。


「ストライク!」


 初球からフォークで入る。奈々の信条は意外性の追求。


 カウントを稼ぐ球としてフォークを使った。三振が取れなくても良い。とにかく、カウントを有利に保つ。


 息もつかせず二球目。二番は慎重な打者だが、もう最終回だ。当然、早い段階で打ちに行こうとする。


 ――そこへ、内角にシュートだ。


「敦子!」


 ピッチャー正面のゴロ。


 打球の勢いは死んでいる。私は素手で掴み捕り、一塁へ送球した。


 まずは、ワンナウト。



 ――思えば、色々なことがあった。よくよく考えてみれば、まだ奈々と出会ってから三ヶ月しか経っていない。なのに、この三ヶ月は異常なまでの濃密さがあった気がした。


 独りで塞ぎこんでいた私。他人と関わりたくなかった私。自己満足で野球をしていた、私。


 私は籠の中の鳥だったし、井の中の蛙だった。私に大空を、そして大海を思い出させてくれたのは、他でもない安達奈々だった――



 続く三番の打席。まず、ストレートを外角に投げ込む。


 自分でも驚くくらい、疲れは無かった。むしろ、試合前より球の威力は高いくらいだ。


 そして二球目、これまであまり投げてこなかったチェンジアップを、ここで投げる。見慣れないボールにバッターは手が出なかった。


 これで、追い込んだ。 無駄球は使わない。それが安達の流儀だ。ならば、私もそれに従う。


 ワインドアップ。そこから精一杯の力を込め、そしてそれを解き放つ。


「ストライク! バッターアウト!」


 内角高めの直球。一体、何キロ出ているだろう。多分、今までの限界は遥かに超えている気がする。でも、そんなことはどうでも良かった。


 これで、ツーアウト。



 ――友情なんて、下らないと思っていた。仲間を想う気持ちなんて、もう一生理解できないと思っていた。けれど、やっと分かった。


 友情は、こんなにも辛い。そして、温かい。


 奈々が私にしてくれたことは、どれほどお礼を言っても足りないくらい重くて、大きいものだ。いつかの喩えで言うなら、積み石をぶち壊す大岩。あるいは、籠を開ける鍵、井の壁を伝う蔦だ。


 その奈々のためなら、私はどこまでも飛べる、どこまでも泳げる。鳥だろうと、蛙だろうと、私はどこまでも走れる。


 夢の舞台までだって、駆け抜けられる――



「あっちゃん! あと一人だよ!」


 ベンチから奈々の声が私の耳を突く。同時に、激しい高揚が私の身体を駆け巡った。


 九回の表。一点差。ツーアウトランナーなしで打席には四番。


 キャプテンの受け売りを借りるなら、まさしく「燃える」展開だ。私はこの状況に熱く燃え上がっていた。



「あっちゃん言うなぁっ!!」



 自分を鼓舞し、吠えながら投げた初球。


「ストライク!」


 ストレートが内角低めに決まる。二球目も、ストレートで追い込む。身体が軽い。球が走る。まるで追い風が私を後押ししてるみたいだ。


「あと一つ!」


 誰が、という分けでもなく、誰かがそう言った。


 もしかすると、それは奈々だったかもしれない。それとも静江さんか、荒木か、あるいはそのみんなか。


 まあ、いい。あと一つ。それは変わらない。


 私は高々と腕を突き上げた。ワインドアップから左足一本でマウンドに直立する。


 右手側に体重をかけ、右足を踏み出していく。


 足の裏から腿、腰、背中、肩、肘、手首、そして指まで。想いが、思い思いではなくただ一筋に。


 エネルギーが全身を駆ける。


 二本の指から今、白球が放たれる。そして――



「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!」



 スリーアウト。試合終了。



 勝利の瞬間、静江さんと荒木に前後から挟まれ散々もみくちゃにされた。まるで甲子園が決まったかのようなノリだ。練習試合だというのに。


 でも、勝ったんだよね。夏の予選大会シード校の光陵に。そして、あの井川に。


 私はなんとか歓喜の輪から逃れ、ベンチに引き上げた。そして、手に持ったボールを奈々に放る。彼女は難なくそれを捕ってみせた。


 まだ泥が付いた、ウィニングボールを。


「勝った」


 私が言ったのは、その三文字だけだった。言葉は要らない。なんとなく、そう思ったからだ。


 彼女はなんとも不思議そうに、目をぱちくりさせながら私の顔を見ていた。


「あっちゃんのそんな笑った顔、初めて見た」


 へ……?


 私はべたべたと顔を触って確認した。よく分からない。そんなに顔に出ていただろうか。


 自分の表情ばかりは確認できないので困る。


 けど、なんとなく自分でもにやついてるのが分かる。グラブに顔を埋めて、私は必死に浮かれた顔を隠した。


 まだ、私は笑わない。夢の舞台のチケットを掴むまで。


 でも、今は少しだけ、この心地いい瞬間に身を預けていたい。込み上げてくる喜びを抑えきれないでいた。


「あっちゃん」


 最初は忌み嫌っていたその呼び名も、今はもう心地いい響きに聞こえてくる。嫌であることに変わりはないのだが。


「あっちゃん言うな。……なによ」


 必死に笑みを隠す私に、奈々は面白おかしそうに言った。


「ナイスピッチング」


 嬉しかった。本当に。こればっかりは、頭で考えても仕方が無いのかもしれない。嬉しいものは嬉しい。仲間とは、そういうものだと思う。


 友情に、インサイドワークはいらないのだ。


 安達奈々に出会って、それを知った。


 (了)

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