第42話 二人のエース
七回の表、光陵高校の攻撃は三番から。
丁寧に散らしていったつもりだったが、甘く入ったスライダーを狙われた。センター前ヒットとなって、この試合四本目のヒットが記録される。
ここからは四番、五番と強打者が続く。集中して抑えにかからなければ、さっきの一点が無駄になってしまう。
四番には初球ストレートを外角低め、さらにカーブをもう一つ外に決め、最後はフォーク。空振り三振に仕留めた。
ここまでフォークは計十球ほど投げているが、どれも空振りまたは見逃しのストライクになっている。
決め球としてこれ以上ない働きだが、流石に指が疲れてきた感じがある。
五番の打席も最後はフォークで締めた。
これでいくつ目の奪三振だろうか。もう覚えていないが、多分、奈々に聞けば答えてくれるだろう。
これでツーアウト。ここからは下位打線だし、ランナーがいるのはあまり気にならない。……しかし。
「ボール。フォアボール」
一点背負って少し気が抜けたのか、ストライクが中々入らなかった。
際どいコースばかりに要求してくる奈々も奈々だが、思うように球がいかなかった。
そう。私は油断していたのだ。何もかも。
ツーアウト一二塁。この試合初めて得点圏にランナーを背負った。
が、次のバッターは七番。平常心で投げれば大丈夫だ。大丈夫。そう言い聞かせて、私は初球を投じる。
「ストライク!」
よし。ちゃんと狙ったところにボールがいった。
球威もまだまだ衰えていない。大丈夫大丈夫。二球目もしっかりスライダーをストライクゾーンに入れた。
ボール球を極力投げさせない配球をしてくれるため、奪三振数に反して球数は少ない。肩に疲れはない。まだ全然投げられる。
三球目。サインはまたフォーク。コースは真ん中。一応ランナーの動きを警戒しつつ、私は足を上げた。
そこから足を踏み出しつつ腕をテイクバック。体が開かないようにしながら踏み出した足を着地し、そこから腰、肩、肘とエネルギーを伝えるように身体を一本の軸のように動かす。
生まれてから今まで何度繰り返してきたかも分からない動作。
だが、今回は違っていた。
足から全身を駆け上がっていったはずのエネルギーは、指の付け根で急激に失速した。
ここまで蓄積してきたフォークの疲労が、この回、集中的にフォークを投げたことで一気にのしかかったのだ。
指に、力が入らない。
投げたというより、投げ出されたという表現の方が正しい。力のないボールが、私の手を離れて――
カキーンと。低く鋭い弾道で硬球が外野へ飛び去っていく。
右中間の打球だ。屋敷先輩がなんとか打球に追いつき、カットの荒木に送球した。
二塁ランナーは三塁を回ってホームへ突入しようとしていた。タイミングは際どい。荒木は流れるような動作でホームへ送球する。
荒木からの送球を奈々が捕るのと、ランナーがスライディングを始めるのが同時だった。
その光景を、私はいつものマウンドの上ではなく、カバーに入ったホームベースの後ろから見ていた。
地面を滑る音と、続いてスパイクとレガースがぶつかる音がした。そして、
「アウトッ!」
主審の拳が突き上がった。
途端、両ベンチから歓声と、落胆の声がそれぞれ吐き出された。だが、私はそんなことに構っている暇はなかった。
私の視線は、うずくまって動かない奈々に、釘付けになっていた。
ああ……。
私は、また失ってしまうのか……?
「奈々っ!!」
私は叫んだ。昔、両親が事故に遭った時。私は、同じように叫んでいたのだと思う。
奈々は目を開けた。その瞳は弱々しい。
「立てる……?」
「うん、だいじょ……ぶっ」
立ち上がろうとした奈々は、右足を地に着いた瞬間、顔をしかめた。浮かべるのは苦悶の表情。
右足を怪我したらしい。私はさらに動揺してしまう。
「あっちゃん……。私は大丈夫、だから……」
「で、でもっ!」
私は完全に落ち着きを失っていた。周囲も騒然としている。主審は両チームの監督を呼び、話し合いをしているらしい。
「立てないんでしょ!? だったら早く病院行かなきゃ!」
「落ち着け、敦子!」
静江さんが見かねて私を一喝した。私はびくっと肩を震わせ、静江さんの方を振り向く。
「お前が慌ててどうする。しっかりしろ、お前は奈々君のパートナーだろう?」
パートナーだからこそ心配しているんじゃないか……。そう反論しようとしたが、奈々の言葉がそこへ割って入った。
「私は大丈夫。後のことは、あっちゃん。君に任せたよ」
でも……、と言おうとして、私はその続きを見失った。
奈々が大丈夫と言っているなら、大丈夫なのだろう。任せられたからには、やるしかない。けれど……。
「それじゃあ、安達さんは車で病院まで送っていくから」
「あ、待って監督」
話し合いが終わり、山内監督が奈々を車まで運ぼうとした時。彼女は待ったをかけた。
一応、簡単に固定するだけの応急処置は施した。あとは診断の結果次第ということになるが、本人の希望ということで、試合終了までベンチにいることが許可された。
「敦子、チェンジだ。一旦ベンチに戻ろう」
私はぼんやりとしたままグラウンドを降りた。
ダメだ、私は。奈々に任されているというのに。自分の投球に集中しなくちゃいけないのに。奈々のことばかり考えてしまう。
彼女はああ言っていたけれど、やっぱり、かつての井川のようにいなくなってしまうんじゃないか、そういうことが頭をよぎってしまう。
私のトラウマはそう簡単に薄らぐものではない。
失う恐さ。それを知っているから、どうしても完全には安心し切れないでいるのだ。
七回の裏の攻撃も終わり、八回の表。
守備の交代が告げられた。キャッチャーには静江さんが入る。サードには控えの二年がコールされた。
「敦子。球種とコースはお前が決めろ。サインは球種だけでいい。コースは、どこへ投げても、どんな球でも捕ってやるから」
静江さんはマウンド上の私にそう言った。久しぶりになる静江さんとのバッテリー。
前までは信頼できるパートナーだったのに、今は少し頼りないように思える。……いや、静江さんが頼りないんじゃない。私が頼りないんだ。
この回、先頭バッターの八番への初球、気の抜けたストレートが甘いコースに入った。
そんなラッキーボールを見逃すはずもなく、フルスイングで打球は外野を越えていく。レフトオーバーのツーベースヒットとなった。
ノーアウトランナー二塁という、この試合始まって以来最大のピンチを迎える。
この状況で、バッターには九番井川。
「天才野球少女なんて呼ばれたあなたも、メンタル面は素人ね」
井川が、皮肉を込めた言葉で私を嘲った。
これまで調子よく投げていたのに。奈々が負傷するという大きすぎるアクシデントがあったとはいえ――今は、こんなザマだ。
だが、頭で修正しようとしても、身体は良くも悪くも正直だ。私のモチベーションは限りなくゼロに近かった。
井川に対する初球。ど真ん中の棒球。
「――チッ」
彼女はそれを思い切り引っ張り、ファールにする。金網に叩きつけられる打球。わざと引っ張った。そんなバッティングだった。
「……本っ当に、どうしようもないわね」
呆れた、という風に井川はバットを投げ出した。
タイムをかけ、あろうことか私に向かって歩いてきた。マウンドに詰め寄った彼女の姿を、私は呆然と見ていた。
「あなた……さあ」
私の胸倉を掴む勢いで、彼女は言い放った。
「また、リトルの時みたいに投げ出すつもり?」
え……?
「無責任なのもいいところ。悲劇のヒロインぶって。あなたが辛いのは分かるけど、一番辛いのはさっき退場した彼女だっていうのが分からないの?」
そうだ。私は、リトルリーグの時もそうだった。怪我した井川が一番辛いし悲しいはずなのに。せめて、残った私が頑張らないといけなかったのに。
だけど、あの時の私はそんな気持ちも知らないで、自分が辛いからってあんな無様なピッチングを晒した。
「佐山敦子。あなたは昔から変わってない。やっぱり、本当のエースは私ね」
昔から変わってない、か。彼女は私の過去の事情も、私の思いも、全て知っている。
井川の言う通りだ。彼女には、本当に悪いことをした。……いや、そんな一言じゃ言い表せないぐらい、私がしでかしたことは無責任だった。
一番辛いのは、私を残して逝った両親であり、あの時の井川聖であり、そして今の安達奈々なのだ。
それに気付けないで、独り塞ぎ込んで。私はなんてバカなんだ。これじゃ……誰も、得しない。損しかしない。
だから。井川に向かって、私は確かな声で、言った。
「あの時はごめんなさい。でも、本当のエースは私よ」
試合前に自分に言い聞かせたように、そして、昔言っていたように。
たとえ今は実力で劣っていようとも、負けない。絶対に。決意を瞳に灯し、私は井川を真っ直ぐに見つめる。
「何言ってるの。エースは私だってば」
昔と同じように、井川はこう言い切った。満足したのか踵を返してバッターボックスへ戻っていった。




