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ポニーテールは笑わない。  作者: 藤和春幹
第三章
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第41話 電光石火

 六回の裏、ワンナウトでランナー三塁。異様な空気の中での初球。


「ボール」


 ウエストボールだった。三塁ランナーは動く気配を見せない。


 二球目も、低めに外れる。奈々は悠々と見送り、屋敷先輩も小さくリードを取ったままだ。スクイズではないのか……?


 そう思った矢先の、三球目。屋敷先輩がスタートを切っていた。


 だが、井川はランナーの動きを見て無理やり軌道を変える。右投手の強みだ。三塁ランナーの動きを、投球前に知ることができるのは。


 しかし、屋敷先輩はスタートを切ってはいたが、半分もいかないうちに切り返して帰塁していた。ブラフか。おそらく奈々の指示だろう。だが、なぜ?


 カウントはノースリーになっている。まさか……。とは思う。


 彼女は優秀な策士であると同時に、優秀なバッターだ。この打席で、自分の力で、点を取りにいくはずなんだ。


 しかし。その、まさかだった。



「ボール、フォアボール!」



 奈々は四球を選んだ。


 しかも、ラッキーな四球ではない。自分からウエストを投げさせ、その後もファールで粘って四つ目のボールを引き出した。


 紛れもない、狙った四球。奈々は私にこのチャンスを渡した。


 彼女の打席で決まると思っていた。だから私は、さっきから客観的な立場で冷静に観察することができたのだ。


 だが、今はどうか。


 奈々がこれまで作り上げたチャンスを託されて、ほら、私は今、重圧に押し潰されそうになっている。


 どうして私に……託すんだ?


「あっちゃん! 落ち着いて!」


 奈々が叫ぶ。


 ワンナウト一三塁。井川相手にこんなチャンスはそう何度も回ってこない。おそらく、この機会が最後に等しい。


 私は助けを請うように奈々の方を向いた。彼女はそれ以上言葉を発することはない。


 代わりに、簡単なサインを私に向けて飛ばした。盗塁のサインだった。


 彼女は足の速い選手ではないし、この回既に盗塁とエンドランを行っているだけ相手の警戒も強くなっているはずだ。


 そんな確率の試みを、あの安達奈々がするわけがない。


 彼女には何か策があるはずだ。それがなんだかは分からない。もしかしたら、策などないのかもしれない。


 ……はっきり言って私はかなり動揺している。まともにヒットなど打てそうもない。


 私はバットを構える。井川はセットポジションに構えてから、ひとつ牽制を放る。一塁牽制だ。


 奈々は大したリードも取っておらず、足から戻ってセーフになった。


 セーフなのはいい。だが、あんなリードで盗塁が成功するはずがない。奈々のリードを見て安心したのか、井川がそれ以上牽制を入れてくることはなかった。


 初球、ストレートを外角低めに決めてきた。


 動いたのは、二球目。球種は運良くスローカーブ。私は盗塁を補助するために予定通り大きく空振りした――が、奈々のスタートが遅れた。


 キャッチャーが取った頃にはまだ中間ぐらいを走っている。キャッチャーは余裕を持ってスローイングした。


 ダメだ、間に合わない。そう思った……が。


 なんと、奈々は塁に到達する寸前、スライディングの体勢に入る直前に立ち止まり、切り返して一塁に走り始めたのだ。


「おっ、おい! ホームだ! バックホーム!」


 誰かが声を上げた。なんで、という間に、私は驚くべき光景を目にした。


 三塁ランナーの屋敷先輩が、本塁へ向けて駆け出したのだ。


 まさか、ホームスチール……!


 光陵内野陣は、奈々の唐突な行動とそれに対する狭殺プレーに気を取られ、少しばかり反応が遅れた。


 気付いたサードの掛け声でセカンドがホームへ送球するが――



「セーフ!」



 こちら側のベンチが、かつてないほどに沸いた。


 私は打席に立ったまま、ホームへのスライディングを決めた屋敷先輩の姿を呆然と見ていた。


 先輩はそんな私に平手を差し出してきた。私はその意図を察し、自分からも手を差し出す。パンッ、とハイタッチを交わし、屋敷先輩はベンチに戻っていった。


 私は何もしていない、のだが。


 まさに、完璧なディレイドスチール……。ディレイドスチールとは、ディレイ、つまり名の通り遅れた盗塁ということ。


 一塁走者の盗塁に一歩遅れる形で、送球の隙を突いて三塁走者が盗塁を成功させる。ホームスチールで最も多いのがこれだ。


 ……完全に予想外。奇策にもほどがある。


 だがついに、念願の一点が入った。均衡を破るディレイドスチール。瞬く間の、電光石火。


 ちなみに、奈々はちゃっかり二塁を陥れていたのだが、私と静江さんは揃って凡打に打ち取られ、追加点はならなかった。


「でも、一点取った。あの井川から……」


 一瞬、ベンチへ戻る井川に目を向ける。そのポーカーフェイスはなお、動揺の色は見せていなかった。

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