第40話 奇襲
四回の裏の攻撃は、私からだった。
とにかく、ストレートとスローカーブのコンビネーションだけでなく、井川はカットボールという第三の武器を使うらしい。
まあ、何かあるとは思っていたが、よりにもよってカットボールというのはかなり厄介な存在になる。
さて、どうするか。
カットボールを混ぜられるということは、ストレートとスローカーブの単純な二択の上に、さらにストレートとカットボールの二択が追加されたことになる。
ヤマを張ってはスローカーブが打てず、ヤマを張らなければカットボールが打てない。ジレンマだった。
どうすればいい。分からないまま、私は打席に立った。
一球目。外角の際どいコース。僅かに外れたと思いきや、手元でストライクゾーンに抉りこむように変化する。
「ストライク!」
これが、カットボールか。なるほど。カット、とは過言ではないらしい。触ると本当に切れそうだ。
続く二球目はスローカーブだった。手が出ない。
まずい。このままではどっちつかずになってしまう。カーブを狙うか、カットボールを狙うか、それともストレートか。
せめて、スイングのタイミングだけでも決めておきたい。なら、迷わずストレート狙いだ。
打てるか、ということは気にしない。どうせノーアウトランナーなしだ。気楽に行こう。
「ストライク、スリー! バッターアウト!」
三球目。スローカーブだった。
ダメだ。完全に読まれている。こんなの、どうやって打ち崩すんだ?
「……奈々」
「あっちゃんが言いたいことは分かるよ」
ベンチに戻るなり呼びかけた私に、彼女は視線を移してまたすぐ戻した。そしてそのまま長考の体勢に入る。
やがて、五番の静江さんがゴロに仕留められた頃に、彼女は長考から覚めて顔を上げた。
上げるなり、一息にこう言い切った。
「奇襲を仕掛けよう」
何を言っているんだ、とも思ったが冷静に考えてみるとあながち悪い選択肢ではない。
「悔しいけど、今の私達じゃ井川には勝てないよ。怪物という名は伊達じゃない」
過去を振り返っても怪物と呼ばれる選手は、いずれも甲子園で活躍し、スターと呼ばれた逸材ばかりだ。
決して舐めていたわけじゃない。しかし同じ高校生、井川に至っては私と同学年ということが感覚を鈍らせていた。
彼女は、間違いなく怪物と呼ぶに相応しい。まざまざとその現実を見せつけられた。
「この回、このまま三者凡退で終わったら、次の回は七番から始まる。それも三者凡退になったとすれば、六回の攻撃は一番からだから、そこで仕掛けるんだ」
私は五回の表と六回の表。それぞれ一本ずつヒットを許しはしたが、二塁を踏ませず無失点に抑えた。
良い流れが来ているように見えるが、こちら側の攻撃は見事なまでにノーヒット。
六回の裏は一番からの攻撃となる。
作戦は滞りなくスタートした。一番打者の屋敷先輩に、奈々のサインが飛ぶ。屋敷先輩は強く頷き、フォームに構えた。
初球から動いた。奇襲を仕掛ける、と彼女は言った。なるほど、そういうことか。
「ファースト! 急げ!」
光陵のキャッチャーが、初めて慌てた声を上げる。今まで気付かなかったが女子の声だ。
仕掛けたのはセーフティバント。
屋敷先輩は、井川が投じた初球ストレートを綺麗に三塁線に転がした。
終盤に来て初めてのバント決行は、奇襲としてこれ以上ないくらいの威力を発揮した。サードは反応が遅れ、しかもボールを掴むのにもたついた。
そんな守備で送球が間に合うはずもなく、まんまと内野安打を記録した。
初めてのノーアウトのランナー。しかも出たのは俊足の屋敷先輩。真骨頂だ。
次は二番の荒木の打席だが、カットボールの存在がある以上、荒木のヒッティングが成功するとは限らない。
ここで奈々が指示したのは盗塁。光陵のキャッチャーも強肩ではあるが奈々ほどではない。
ならば、いつも練習で私と奈々のバッテリーからばんばん二塁を奪い取っている屋敷先輩なら、心配いらないだろう。
予定通りに盗塁を成功させ、ノーアウト二塁とする。
先制のチャンスだ。だが、チャンスだけ作って後はヒット待ち、というだけでは点は取れない。さらに戦術を重ねなければ。
ワンナッシングからの二球目。
――また、屋敷先輩はスタートを切る。
ただし、今度は単独スチールではない。確実にランナーを進めるためのコンビプレーだ。
コン、と。鈍い音。ボールはインフィールドを転がっていく。
送りバントだ。スタートを切った屋敷先輩は悠々三塁へ。バッターランナー荒木はアウトになり、ワンナウト三塁に変わった。
「……よし」
奈々は満足げに頷いて打席に向かった。
ワンナウトで俊足のランナーが三塁、打席には安達奈々。これはもう、点を取れないほうがおかしいぐらいの状況だ。
私が相手の立場なら、ここはスクイズを警戒するだろう。
もうお互い無得点のまま六回。勝とうとするなら、ここで用心するに越したことはない。そして、内野ゴロでも最悪点が入るという状況だから、内野前進シフトを敷いてくるだろう。
特殊な状況であるからこそ、相手の作戦は絞れてくる。
だが、そんなことは相手も織り込み済みだろうから、それを踏まえた上でのさらに高位の戦術を図ってくるだろう。問題は、奈々がそれを越える策を用意しているのかどうかということだ。
奈々のインサイドワークが、相手よりも勝っているか、否か。
奈々が構えを取る。同時に、井川がセットポジションに入り、そして内野は定位置よりも前に出てくる。
瞬間、異様なまでの緊張感がグラウンドを包み込む。私は息を呑んだ。




