第37話 怪物の面影
一回の裏開始前。向こうのスターターである井川が投球練習を行っている。
球速は私よりも速い。140キロ以上、と言ったところだろう。しかし、数球目で井川は突然遅い球を放った。
ボールは山なりの曲線を描き、利き手と逆方向、つまり私たち一塁側から見て手前に変化した。
カーブだ。それも、いわゆるスローカーブと呼ばれるものに近い。
「このカーブを攻略できるかどうか。それが、私たちの攻撃の鍵だよ」
隣に座っていた奈々が言った。
確かに、あのスローカーブは厄介そうだ。ストレートとの緩急や変化は、かなり高いレベルにあると思われる。
スローカーブの厄介さは、遅い上に曲がる、ということに集約される。
チェンジアップなどもストレートを速く見せるために使われるが、そちらは縦に落ちるだけでヤマを張れば容易に打つこともできる。
しかし、スローカーブは縦の変化に加え大きく横に曲がるため、狙っても中々バットが追いつかないのだ。
単純な速さや変化球の多彩さではない。
ストレートとスローカーブのコンビネーションで打ち取る技巧派。その上、井川は女子にして140キロオーバーを放る速球派でもある。
それが怪物級と言われる由縁だった。普通に攻めては、凡打と空振りの祭りになるだろう。
「なるほど、それでこういうオーダーなのね」
「そういうことだ」
静江さんが声高に返答する。私はもう一度オーダー表を見返した。
一番、屋敷。二番、荒木。三番、安達。四番、私。
見事に全員左打者。
右利きの井川が投げるカーブは、右打者が打とうとすると奥に逃げていくような変化になり空振りしてしまう。
逆に左打者ならば、スローカーブは手前に曲がってくるような変化になる。
つまり、左ならばタイミングをずらされても何とか対応することができる。
スローカーブの利点の一つである「曲がる」という部分を潰すことができるのだ。
しかしまだ疑問は残っている。
「それは分かったけど、なぜ荒木が二番なんですか?」
いつもはピッチャーの私がいつも上位の打順を打つため、代わりに九番には荒木が入っている。
それは、彼女のバッティングに重大な欠陥があるからだ。
前も言ったように、荒木は球種を読もうとしない。かと言って、何か一つの球種を待つわけでもない。来た球を打っているだけだ。
そんな荒木を使うくらいなら、たとえ右打ちでも進塁打の上手い二番を置くべきじゃないか。
もちろん、熟練したバッターならばその打法は弱点がなくて良いのだろうけど……。
「それは始まれば分かるさ」
今は、静江さんの言葉を信じることにしよう。
井川の投球練習が終了した。一回の裏、怪物右腕が復活のマウンドへ上がる。
「プレイ」
一回裏、審判のコールで一番の屋敷先輩が構えを取る。井川はセットポジションから第一球。
「ストライク!」
外角低め一杯にストレート。球速がある上に、コントロールも良いらしい。
二球目は内角低め。こちらもゾーンを掠めるように決まってツーナッシングとなる。そろそろか?
三球目。やはり来た。リリースした瞬間分かる。スローカーブだ。屋敷先輩はぐっと我慢して、曲がる軌道に合わせバットを振り抜いた。
コン、と芯を外れた音。ボールはファールゾーンに転がっていった。
「よーし、当たるぞ! しっかり見てけよ!」
静江さんの声が飛ぶ。だが、光陵バッテリーに動揺はない。
一塁側からではセットポジションに構える井川の表情はよく見えないが、大した反応はしていないようだ。その凛々しい背中にエースナンバーがよく似合っている。
四球目もカーブだった。外角の際どいコースだったが、見逃しでボールカウントが増える。屋敷先輩は、しっかりスローカーブの軌道が見えているようだ。
だが、五球目。一転して内角高めのボールゾーンへストレートが放られる。突然の豪速球にバットは空回る。
空振り三振。スローカーブの後では、つい手が出てしまうのも仕方がないのか。
「よーし、打つよー!」
二番の荒木が打席に立った。あまり期待はしていないが。
案の定、荒木は初め二球を空振りした。どちらもストレートだったのだが、高め低めと投げ分けられて全く当たる気配がなかった。
三球目はスローカーブで、これは何とか掠らせファールにした。屋敷先輩と同じような配球だ。
次はストレートか、カーブか。四球目――
「あっ」
思わず声が出る。カキーン、と綺麗な音を響かせ、荒木が放った打球はセンター前に。
打ったのはスローカーブだ。まぐれか?
「千弘が打ったのは決して偶然なんかじゃないぞ」
「……心、読めるんですか?」
静江さん。底知れない人だとは思っていたが、まさか私の心の声と対話するとは。
「千弘の癖は知っているだろう?」
クセ、というレベルではないと思うが。
「千弘は要するに来た球を打つ打法だ。球種は読まないし、ヤマも張らない。行き当たりばったりもいいところだ」
だがな、と静江さんは続ける。
「あの井川に対しては、千弘のバッティングは有効になる。なぜだか分かるか?」
宙に放り出された質問に、私は疑問符を浮かべることしかできなかった。
「……分かりません」
「そうか。まあ、私にも確証はない。次の千弘の打席が来たら、また考えてみてくれ」
私は静江さんから視線を離し、グラウンドに向ける。
ちょうど奈々が打席に立ったところだった。私はヘルメットを被ってバットを持ち、ネクストサークルに向かう。
その奈々は、二球目のカーブをいとも簡単にライト前へ弾き返した。まるでボールがバットに吸い込まれていくようだった。
こいつも底知れない。そして私の打順が回ってくる。
打席に立って、マウンド上の井川を見据える。初回からワンナウト一二塁というピンチを背負いながらも、光陵の二年生エースは全く動じていなかった。
彼女の髪は肩に届かない程度にきちんと切り揃えられている。偉いな。私なんか面倒臭くてポニーテールに縛るだけなのに。
しかし、井川の顔、どこか見覚えがあるのは気のせいだろうか。
私はバットを構えた。まだ初回だ。ベンチからサインも出ていないし、打ちにいく。
一球目。クイックモーションから放たれたストレートが内角低めに決まった。遠くから見るのよりも速く感じる。
次もストレートで、今度は外してきた。外角低めの際どいコースだ。私は二球続けて見送った。
三球目。きた。スローカーブだ。遠い。遠い、が――
「ストライク!」
――外に決まった。
恐ろしい曲がり方だ。カーブって、こんなに曲がるものなのか。
何はともあれ、これで追い込まれた。ここは……ストレート待ち。カーブを無理に打ちにいって併殺なんて笑えない。
それに、屋敷先輩もカーブの後のストレートにやられたのだ。多分、内角。内角ストレート狙いでいこう。
四球目、井川が投げたのは、
「っ…………」
スローカーブ。
ダメだ。ストレートで待っていた為かタイミングが違いすぎる。私がスイングして、数瞬後。ボールがミットに収まった。
「ストライク、バッターアウト!」
掠りもしない。左なら当たる、なんて過小評価もいいところだ。カーブの後のカーブでもこれほどまでタイミングを外されるなんて。
本当に凶悪なのは上下左右の変化じゃなく、この前後の変化なのだ。
タイミングという目に見えない要素に干渉する強さ。たとえ左を並べたところで、それをクリアすることはできない。
――井川はまるで、そんな私を嘲笑うように、こちらを一瞥した。
その静かな表情が、実力差を物語っていた。ランナーを出しても彼女の姿勢は変わらない。ずっとセットポジションで、一定のリズムを崩さず投げ込んできた。
なるほど。これが奈々の言っていた試合のテンポか。ヒットを打たれただけで崩れる私とは大違いだ。
……彼女に、勝てる気がしない。
「気にするな敦子。私に任せろ!」
静江さんに打席を明け渡す。結局サードゴロに終わって、一回の攻防は両チーム無得点で終わった。




