第33話 新球種
かつて、リトルリーグで私とエースの座を奪い合った一人の女の子がいた。
例えるなら「彼女」は、怪物という言葉が一番しっくりくるかもしれない。実力こそ拮抗していたが、私はいつも「彼女」の背中を追い掛けている気分だった。
私達の間には絶対的な違いがあったのだ。それは、信頼感。大崩れしない安心感。私に足りないものを「彼女」は持ち合わせていた。
絶対的エースに必要な、ウイニングショットを。
私はそれが羨ましかった。どうしても欲しくて、自分のモノにしたくて、しかし、いくら練習しても「彼女」には追いつけなかった。
『あなたじゃ、私には勝てない』
大会の数日前、そう言われた記憶がある。
その時はむっとして喧嘩にもなったが、今になって考えてみると納得がいく。「彼女」は、まさしくエースに相応しい実力だった。
「彼女」もエースナンバーを確信していただろうし、私もそれを認めていた。
でも、諦めたくなかった。負けたくなかった。結局その日は仲直りしないまま、別れ際に私はこう言った。
『それでも、本当のエースは私よ』
「彼女」は笑っていたような気がする。
その後、「彼女」がマウンドに上がることはなかった。故障した右腕を抱えたまま転校し、私の前から姿を消してしまった。
――――――――
昼を過ぎた。朝食の時間が遅かった分、まだ空腹ということはない。
私はまた奈々の家に来ていた。……もちろん一人で遊びに来たわけじゃない。もう一度あの野球ゲームで対戦しようと、半ば無理やり荒木に連れてこられたのだ。
当の荒木はというと、まだ私に敵わないと知るやいなや、そそくさと帰っていってしまった。遊び飽きた猫かあいつは。
さっきまでガチャガチャとコントローラーを駆使しつつ適当にゲームをしていたのだが、それも疲れてきて、今はソファに座って休憩している。
新聞を手にとって読んでみることにする。ちなみに、この家は普通の地方紙に加え、スポーツ新聞も取っていると言う贅沢な家庭らしかった。
それはそうと、スポーツ紙を手にとる。
昨日の試合で、智美さんは100セーブ達成後初めてになる101セーブ目を記録したらしい。
他の記事に目を向けてみると、今度は「あのゴールデンルーキーまたも大活躍」という見出しを発見する。鳴り物入りで去年プロ入りした選手が、昨日の試合で逆転打を放ったと言う内容だった。
そういえば、奈々はプロに興味があったりするのだろうか。
「ねえ」
「なに?」
私に代わってゲームをしていた奈々が振り返る。私は単刀直入に聞いた。
「あんた、プロになりたかったりするの?」
「なれるんならなりたいけど。なんで?」
プロ野球選手の子供としての意識はどうなのか興味があったりする。
よく考えてみれば、プロ選手の子供がプロになるという話は、長嶋親子や野村親子ぐらいしか聞いたことがない。
ただ、彼女の実力であれば、プロも十分視野に入ると思った。
「あっちゃんはどうなの? プロになりたいとか」
「……私?」
そんなこと、考えてもみなかった。
私の今のところの進路希望は進学だ。普通に進学して、普通に就職する。それが私の構想だった。
もちろん、大学野球はやろうとは思うが、その野球で食べていこうなどということは全く頭の中になかった。
天才野球少女。かつてそう呼ばれた私ではあるが、それでもやはり私は女であって女以外の何者でもない。
女性選手は増えてきてはいるものの、男性以上に狭き門であることは変わりない。
「なれると、思う?」
「なれるさ。あっちゃんならね」
彼女は強く断言するものの、私には到底見えない話だった。
しかし、プロか……。そういう夢も、アリかもしれない。
私は今まで、自分を見失わないために野球をしてきたところがある。他人と関わらないで生きていくと、時に自分が分からなくなることがあるのだ。
人間は相対感覚でしか物を認識できない。だから、比べるものが周りになければ、全く何も考えられなくなる。
本当に孤独な人間は、自己を世界に繋ぎ止めておくことすらできないのだ。
だから、私は野球と言う一つの物差しでもって、アイデンティティを確立してきた。野球は私にとって物差しでしかなく、逆に言えば、それ以上の何かがあるわけではなかった。
だが、私は新しい物差しを手に入れた。だったら、野球の存在を、私の中でより昇華させてもいいのかもしれない。
「まあ、それはあっちゃん次第だと思う」
奈々はゲームの電源を切る。そして、私の対面のソファに腰掛けた。
「蒸し返すわけじゃないけどさ。あっちゃんにはまだまだ課題がたくさんあるよ。協調性とか」
奈々はふふっ、と笑いながら言う。私はその言葉に苦笑して、同時に、それを笑い話にできている現状に嬉しさを感じた。
私と彼女の関係は、完全に修復されたどころか、前より親密になっていた。
「そうだ。この前さ、言ったよね。あっちゃんには決め球がないんだって」
彼女は思い出したようにポンと手を打った。ああ、そういえばあったなそんな話。
「だからさ、何か新しい球種、覚えてみない?」
「今の変化球を伸ばすんじゃダメなの?」
正直、これでも私の球種は多すぎというぐらいだと思うのだが。カーブにスライダー、シュート、そしてチェンジアップ。
どうやら私は肘の関節が柔らかいらしく、これだけ変化球を投げても故障の心配は少ないようだが、これ以上何かを投げるというのはキャパシティを考えれば難しいと思う。
それならば、新しい球種を覚えるのではなくて、例えばスライダーを極めてみるとか、そういう方向のほうがいいんじゃないだろうか。
「いや。それじゃだめ……というか、もったいないと思うよ」
それから少しの間、彼女の話は続いた。
「……なるほどね」
彼女の提案は、私にとっては確かに魅力的なものだった。新しい球種か。面白いかもしれない。
だが、課題はある。
「でも、どうやって練習するのよ? 一筋縄じゃいかないと思うんだけど」
「大丈夫。そこは任せといて」
――そしてこの日から、私の「新球種」の特訓が始まったのだった。




