第25話 失った笑顔
上野家のインターホンを鳴らす。
それが正解なのかは、まだ分からない。返事は無かったが、すぐに廊下を走るような音が近づいてくる。
程なくして、ドアは開かれた。
「……やっぱり、あっちゃんだったんだ」
「お邪魔するわよ」
私は素っ気なく言って上野家――安達の家に上がった。
三度目だ。互いに会話もなく無言のまま、安達に案内されて彼女の部屋に入った。中の様子は、一週間前と全く変わっていなかった。
さて。ワンナウト一三塁からの盗塁。成功すれば、ワンナウト二三塁。
迷わずヒッティングできる。問題は、成功するかどうかだ。だが、私には自信がある。
私の足が勝つか、彼女の肩が勝つか。
勝算と呼べるほどの物ではないが、少なくとも、安達はいつもほど強肩ではない気がした。
「…………話が、あるんだけど」
そう切り出す。スチール開始だ。
――――――――――
それはずっと昔の話だ。
昔と言っても、ほんの十年くらい前のことだが、私はそれが何百年も過去のように感じてしまう。
佐山家は、とても仲の良い家族だった。私は一人っ子だったが、その分愛情を一杯に受けて育てられた。
私はお父さんのこともお母さんのことも大好きだった。お父さんは、私に色々と野球のことを教えてくれた。私が小学校に入学する少し前、お父さんと一緒に初めてキャッチボールをした。
――敦子は左利きだから、ピッチャーになったらどうだ?
そう言われた。その頃はよく野球のことを知らなかったが。
お母さんは、幼い私を支えてくれた。私が泣いているとき、優しく抱きしめてくれた。もちろん、お母さんも野球が大好きで、私がボールを投げると凄いねと頭を撫でてくれた。
私が本格的に野球を始めたのは小学校に入ってからで、上野智美投手を知ったのはその時だった。
テレビで、あるいは球場に直接赴いて、私は彼女が投げる姿を食い入るように見つめていた。
私は彼女のフォームを真似して投げた。お父さんもお母さんも、そんな私を褒めてくれた。
そしていつしか、野球友達ができた。家に呼んだらお母さんは嬉しそうにお菓子を出してくれたし、お父さんは一緒に遊んでくれた。
楽しかった。凄く。温かかった。凄く。
今の私には、それが現実だったのか夢だったのか、はっきりと分からない。
私が小学二年生の時、両親は交通事故で死んだ。
悲しかった。寂しかった。私は泣いた。どれほど泣いたのか、今となっては思い出せない。
とにかく、私はどうしようもない虚無感を抱えた。 私は親戚の家に引き取られた。親戚は私に優しくしてくれたが、その頃から私は塞ぎがちになっていく。
引き取られたことで転校しなくてはならなくて、友達とはみんな別れてしまった。
新しい学校では、友達を作る気にもなれなかった。それでも、野球は続けた。両親が残してくれたものだから。
私はそれからも一心に野球に打ち込んだ。
リトルリーグに入団して、ピッチャーを務めるようになる。その頃から私はあまり笑わなくなっていた。
だがそこで、私にはまた友達ができた。友達と言うよりは、ライバルと言うべき人だったかもしれない。
そのライバルは同じ女の子で、右利きのピッチャーだった。苗字は忘れてしまったが、「聖」と書いて「ひじり」という名前だったのは覚えている。
私と彼女はエースの座を奪い合う間柄で、喧嘩も多かったが、互いに刺激しあう良いチームメイトだった。
私と彼女が小六の時、リトルリーグ最後の大会前となって私たちの関心はどちらがエースナンバーを渡されるかということだけだった。実力は拮抗していたし、どちらが、なんて予想できなかった。
しかし、オーダー発表の前日、彼女は右腕を事故で故障した。
落下事故だった。高さはそれほどでもなかったため、死には至らなかったが右腕を打ちつけて骨折した。
私は結局エースを任されたが、もう気分は大会どころではない。
自分らしいピッチングとは程遠い、粗末な結果で私のリトルリーグは終わった。
同時に、彼女との交友も絶たれた。
彼女が事故に遭ってから、会話をすることもなくなり、中学に上がるのと同時に彼女は引っ越してしまった。
――私と親しくする人は、いなくなってしまうのではないか、と。私はそう考えるようになった。
中学に入ってから、私はますます孤独になっていく。もう完全に笑顔は失っていた。
いやむしろ、それは私が望んだ結果だったのだろう。私は露骨に他人を避けるようになっていた。また、失うのが嫌だったのだ。
一応、野球部には入部したものの、ほとんど私の実力一つで勝ち上がったようなもので、そこにチームプレーやワンフォアオールなどという言葉は存在しなかった。
私は私のためだけに野球をした。他に打ち込むものもなかった。
そんな私にとって、「天才野球少女」などというキャッチコピーは皮肉でしかなかった。私は天才だったかもしれないが、それは孤独な天才だった。
中学を卒業すると、勉強はできた方だったので、家から近い進学校ということで成峰高校を受験した。
見事、というほどのことでもないが、成峰に合格し、一応野球部に入部した。
高校でも私は友達というものを一切作らず、できる限り他人と関わらないで過ごしてきた。唯一信頼している静江さんも、友達ということではなく、尊敬できる先輩としての付き合いでしかない。
そのまま高校も卒業し、大学を経て就職し普通に暮らす。そんな平坦な日々が続いてもいい。そう考えていた。
そこへ現れたのが、安達奈々だ。
「あんたは、執拗に話しかけてきて、私を強引に孤独から引きずり出した。正直、それは嬉しかったわ。嬉しかった、けど…………」
また、失ってしまうんじゃないか。そう、思ってしまう。
私は彼女の表情を伺う。盗塁は、成功しただろうか。どちらにせよ、こちらの事情は全て話した。
あとは、ヒッティングをかけるだけだ。




