第21話 上野智美
「ただいまー」
「…………」
月曜夜七時。また、来てしまった。
闇夜に浮かぶのは、街灯と家の明かりに照らされた大邸宅。その前に、私と安達は立っていた。
周りには他に誰もいない。二人っきりだ。
結局断れなかった。いやだと切り捨てる訳にもいかなかったし、そもそも最初から断る理由なんて無いのだ。
前の私なら、そうであっても断ったかもしれないが、今は違う。
知りたい。今の私に足りないものは何か。そして安達に対して感じた違和感の正体を。
もう一度彼女の家に行けば、そのための鍵を見つけられるかもしれない。
そう思ったのだ。
「おかえりー」
女性の声がした。月並みな表現をすれば、凛とした声だ。
まあ、家の電気が点いていたことからしても、声の主は安達の母親で間違いないだろう。心なしか、緊張している私がいた。
思えば、誰かの家に行ってその誰かの母親に会うなんて、記憶にある限り生まれて初めてのことではないか。
どんな人なんだろう。
そんなことばかり考えながら、昨日と同じようにリビングに通じる廊下を歩いていき、安達が開いたドアをくぐる。
まず聞こえたのは、野球の実況と思われるアナウンサーの声と、作られたような歓声だった。
すぐテレビに視線を向けると、液晶には昨日私たちがプレイしたゲームの試合画面が映っていた。
作られたような、ではなく作られた歓声がリビングをこだまする。
試合は既に九回の裏ツーアウト、プレイヤー側の先攻チームは一点をリードする展開で、あと一つアウトを取れば勝利という状況だ。
マウンドには球界の守護神、上野智美その人の姿があった。
一球目。外角一杯にストレートが決まった。球速は130キロ程度だが、とにかく彼女は制球力が尋常ではない。
ボール半個を掠めるコースに平然と投げ込んでくる。
二球目は一転して変化球だ。外から思いっきり内に抉り込んでくるスクリューに、バッターは手が出ずツーストライクになった。
スクリューはサイドスロー転向後の彼女のウィニングショットだ。
彼女はこれに加えてスライダー、シュート、フォークを武器にするが、スクリュー以外の球種はどれもストレートに球速の近い高速な変化球で、スクリューが緩急を付ける役割も持っている。
遅いながらもかなり落差があり、しかもそれをコースに決めてくるものだから恐ろしい。
このスクリューが痛打されたことは、私の記憶の中では一度もない。
そして三球目。外、内と来て、今度は外側だった。外角低めからボールゾーンに落ちるフォーク。
一転して小さいながらも鋭い変化に対応できず、バッターはボール球をスイングしてしまう。
三球三振でラストバッターを打ち取り、先攻チームの勝利となった。
「ただいま」
「おかえり」
二度目のやり取りが交わされる。
さっきまでコントローラーを握っていた安達の母親と思われる女性は、言いつつゲームの電源を切り、ついでにテレビの主電源を切った。
「お客さんだよ」
「お客さん?」
その女性は、ぱっとこちらを振り返った。
背は高く、私と安達は見下ろされる形になり、逆に私はその人を見上げることになる。
そして、
「…………えっ?」
「あら、かわいいお客さんね」
その顔を見て、私は声にならない驚きを上げた。
どうして、
さっきまでマウンドに立っていた守護神が、「上野智美」が、このリビングに立っているのだろうか。
「お母さん、紹介するよ。クラスメイトで同じ野球部の佐山敦子ちゃん」
敦子ちゃんなどと慣れない呼ばれ方をしたが、今の私には敦子だろうとあっちゃんだろうと耳に入ってこない。
「ふうん。敦子ちゃん、奈々の母親の智美です。よろしくね」
「あ……はい」
そうか、そうだったのか。
これが事実。彼女の母親は、私が尊敬するプロ野球選手、上野智美だった。
尊敬する有名人が目の前にいると言う状況に、いまいち脳が順応しきれていない。それでも、私の頭の中では色々な思考が巡っていた。
思えば、伏線はあった。
一番大きいのは、上野智美という選手について話をする時、安達が感慨深げな風だったこと。
我が事のように、ではない。我が事だったのだ。
また、安達が以前に住んでいたのが九州で、親の仕事の都合で転校してきたということもそうだ。
上野投手がつい一年前に所属していたのは福岡の球団だし、フリーエージェント権での移籍が仕事の都合と言えばそうだろう。
そして、昨日いなかった彼女が、今日はここにいるということもだ。
プロ野球では、日曜日には殆どの場合試合が実施される。
当然、それは多くの観客を動員するためであり、金土日と三連戦が行われるのが常だ。逆に、三連戦後の月曜日は大体がオフになる。
広島東洋カープは昨日までの三連戦がビジターゲームで、例によって月曜日の今日は試合なし。それだけのことだ。
他にも、この大邸宅をはじめ数々の富豪っぷりは、上野投手の年俸を考えれば納得がいく。
安達の野球の実力も、幼少の頃からプロ選手に育てられたものだと予想できる。
何もかも辻褄が合う。
「敦子ちゃん、お母さんのファンなんだって」
「あらそうなの? それはありがとうね」
智美さんは右の手を差し出しながら、マウンド上で見せる挑戦的な笑顔とは対照的な、人を安心させるような優しい笑みを浮かべた。
同姓でも思わずドキッとしてしまうぐらい、彼女の笑顔は綺麗だった。
私は少し緊張しつつ彼女と握手した。
やっと状況に頭が追いついてきた感じだ。憧れのプロ野球選手が目の前にいる。それは、夢と言っていいほど嬉しい状況のはずだった。
しかし、今はそんなことよりも気になることがあって、その状況を楽しむ余裕がなかった。
「あっちゃん、とりあえず私の部屋行こ」
「え……あ、うん」
「奈々。晩ご飯どうする?」
智美さんは、キッチンに歩を向けながら言った。
「三人分、作ってて」
「ふふ。了解」
ただ、一つ。どうしようもない矛盾があることに私は気付いていた。




