第20話 違和感
安達が昼食の場に選んだのは、私がいつも使う屋上だった。
春の肌寒さから、普段は人気がなく静かな場所なのだが、今は少し騒がしい空間へと変わっている。柵で囲まれたこの広いスペースに、昨日のメンバーが集結していた。
安達が持ってきたらしいレジャーシートを広げ、そこに私含め五人が座り込み、弁当を広げている。
その光景は周りから見ればかなり奇抜なものだっただろう。何が楽しくて、学校の屋上にシートを広げて遠足気分を味わわなければいけないのか。
まあ、一度了承したからには断るわけにはいかないのだが。
「おー、きれいな弁当ね」
荒木が私の弁当箱を覗き込んできた。
「あんた、これ自分で作ってたりするの?」
「まあね」
自分で食べるものだ。やはり、見た目から美味しそうに作る方がいい。
野菜と肉類のバランスをちゃんと調整すれば、見た目も綺麗になるし栄養的にも均整が取れて一石二鳥だ。
「あんたって、ほんとに何でもできんのね」
デジャヴだった。
しかし、昨日のそれが私を説き伏せるためのおだてだったのに比べ、今度のは純粋な感想に聞こえた。
何でも……ということはない。私にだってできないことはある。
何にでも器用にこなすように見えて、どこかがやはり不器用なのが人間というものだろう。
例えば、私の生き方のように。
「安達ぃー」
次に荒木が興味を示したのは安達だった。私も少し興味があったので、安達の方に視線をやる。
というのも、昨日あんな豪邸と彼女の料理の腕を見た後だから、その弁当のクオリティも相当なものだと推定できるのだ。
「おおー、これはこれは……」
荒木が感嘆の声を上げる。
果たして、その弁当の出来は想像に違わず……いや、想像を超えるものだった。
ぱっと見た感じは私の弁当と大差ない。配色にはやはり気を配っているらしく、見た目は美麗だ。しかし、よくよく見ると、そこには私の弁当とは大きな隔たりがあることが分かる。
まず、素材がどれも一級品だ。見れば分かる。食べればより分かるだろう。
あまり芳しくない経済状況の中、なんとかやりくりしている私の弁当と違い、高級食材を惜しみなく使ったセレブリティなものになっていた。
そして、その料理の仕方もプロ級だ。切り方ひとつとって見ても、均整が取れていてしかも食べやすいサイズにカットされている。
味付けも見るからに美味しそうだし、このまま商品として売り出してもいいくらいの弁当だった。
しかしながら。
「これ、お母さんが作ったんだよ。私はこんなの作れないよ」
と、いうことらしい。
安達の母親か。昨日は家を空けていたようだったので、日曜でも仕事熱心な人らしいが、そのくせ料理も上手いということか。
うらやましい限りだ。本当に。
その後も話は続く。野球部が五人も集まれば、やはり自然と野球の話題になるもので、まずは荒木がこう口火を切った。
「そういえばさ、今日新聞で見たんだけど、上野が100セーブやったんだって」
上野。100セーブ。
プロ野球の上野智美投手の話だろう。上野投手は今年、フリーエージェントで福岡のソフトバンクホークスからここ広島のカープに移籍している。
元々、トレードなども含めて色々な球団を回り歩いている人で、今回が五回目の移籍になる。
そして今回広島で大台の100セーブを達成した、ということだ。
上野投手が抑えに転向してから四年。概算しても、毎年大体25セーブくらいのペースでなければ達成できない。
シーズン25セーブ以上の抑え投手がいる球団の方が少ないくらいなのに、一人であれだけセーブを稼げるのは、ひとえに彼女の実力と信望の厚さゆえだろう。
「いち野球ファンとして、そして同じ女性選手としても誇れる記録だな」
静江さんがうんうんと頷く。それには私も同意せざるを得ない。
特に、私は同じピッチャー、しかも同じ左投手だ。私が物心ついた時にはもう彼女はプロ野球界で活躍していて、私が野球を始めたのには彼女に憧れたという理由もあった。
前言ったように歴代の投手達の存在も大きいが、やはりリアルタイムで活躍している選手の影響は多大なものだった。
「私も、上野投手のことは本当に尊敬してます。サイドスローのお手本として。永遠に越えられない壁ですけど」
こう言ったのは現実にサイドスローの長岡だ。
上野投手は元々オーバースローの速球派だったが、年の影響なのかコントロール主体のピッチングに変化し、それに伴ってサイドスローに転向した。
このようにピッチングスタイルを柔軟に変化させたことも、彼女が長く活躍できる理由なのかもしれない。
「そうだね。ほんとに凄いよ、あの人は。なんでもできる」
安達は、まるで我が事のように言った。感慨深げに、しかし少し暗い表情で。
「あっちゃんは、どう思う? ……って前にも聞いたか」
「いい加減あっちゃん言うな」
先週の図書室でのことだろうか。それならば、答えはその時と変わらない。彼女のことは尊敬している。
だが、私には安達の言葉に何か含みがある気がして、心にそれが引っかかって気持ち悪かった。
何なんだろう。この感じ。前には感じなかったはずの違和感が、今ははっきりと分かる。
「あんた……」
「ん? どしたの?」
違和感の正体を探そうとして、安達の顔を見た。
その大きな可愛らしい瞳に吸い込まれそうになりながらも、その奥の奥を見つめる。
漆黒のレンズに私の顔が映り、その瞳にさらに安達の顔が映っていた。瞬きをすれば消えてしまう、そんな儚い合わせ鏡。
「…………なんでもないわ」
ダメだ。
違和感の正体は、掴めそうで掴めない。何か重要な鍵が抜けている気がした。その鍵さえ見つければ、後は芋づる式に解けるはずだ。
待つしかないだろう。その鍵がやってくるまで。探そうとしても、どこを探せばいいのかさえ分からないのだから。
「佐山……」
と。荒木が私の方を見ていることに気づいた。何を言い出すのかと思えば、
「やっぱりあんた、安達のこと……」
やっぱりって、何だ?
ハッと安達の方を見る。そこには、顔を赤らめて可愛らしく俯く彼女の姿があった。
「あっちゃん……。そんなに見つめられたら私……、困っちゃうよ」
「なっ! ばっ……な、何言ってんの!」
そりゃ確かに、ずっと見つめていた私の方も悪いだろう。いや。しかし。だが。
とりあえず、その乙女チックな照れ顔をやめろ。
「やっぱりね。あたしは止めないから、素直になりなよ」
黙れ。黙れ黙れ黙れ。そして待て。私に何かとんでもない印象を植え付けようとしてないか?
なんか、私まで照れてきた。荒木の態度からして冗談だと見てとれるが、一応否定しておこう。断じてそういう趣向じゃない。
意識して安達の方を見ていられなくなって、私も顔を背けてしまう。そうすると、慣れないお見合いみたいな構図になって、余計に変な感じになってしまった。
「あ、あんたももっと否定しなって……」
羞恥が私の全身を駆け巡って、顔もいくらか上気したようになった。
静江さんと長岡は苦笑い気味に観察しているが、それがからかわれていると分かっているので余計心が痛くなる。
穴があったら入りたい、とはこういう気持ちのことを言うのだろう。本当は、ここから逃げ出したいくらいに恥ずかしい。
さっきまで引っかかっていた違和感が、急に気にならなくなった。不思議だ。
今までは、一度悩み始めれば、自分で答えが出るまで悩み続けていた。答えが出ないときは悶々としたまま悩みが頭から離れるのを待つしかなかった。
他人に気を遣わなくてもいい。その点で、孤独は楽かもしれない。だが――。
「敦子」
隣にいた静江さんが、私にしか聞こえないように小さくこう呟いた。
「こういうのもいいだろ?」
そう……かもしれない。
その放課後のことだった。私はいつものように部活に出た。試合後初めての練習ということで、若干軽めのメニューをこなして試合の疲れを取った。
静江さんが練習後のミーティングを仕切り、安達が昨日やった反省会の簡易版を行った。終わったのが大体六時半で、そこで今日の野球部は解散となった。
その直後、
「あっちゃん。今日、私の家に寄ってってよ」
「は?」
素で聞き返した。
「昨日の反省会の続き、ね? あと、あっちゃんに会ってもらいたい人がいて」
まだ何か、気になる点が残っているのだろうか?




