なんてことない日常会話。4 今、地獄がアツい編
「今、地獄がアツい」
緑茶の入った湯呑片手に、空いた掌をぐっと握り込んだ縁が言う。
いきなりの地獄発言である。
これまであの世も宗教も死生観も何ひとつとして話題に出ていなかったにも関わらずのこの唐突発言だが、言われた相手であるところのエルネストはしかし、ぱちりと一度目を瞬いただけだった。
「冷たい地獄もありませんでしたっけ?」
いきなり何をと戸惑う事もなく、さらりと話題に乗って来たエルネストに対し、唐突発言をした縁の方が呆れたような顔をした。
「やっぱり分かるんだ、伯爵」
そ知らぬ顔でほこほこと湯気を立てる湯呑を両手に持った相手へと掛ける声にも、どこか呆れが滲んでいる。
なんかしっくり来たから、という適当すぎる理由で縁が伯爵と呼んでいるこの青年は、今彼らが居る洋館の主人であり、翻訳家という職業故の蔵書の豊富さに目を付けた縁がしょっちゅう訪ねるご近所さんである。
「つまり、二大地獄を知ってるって事で良いんだよね?」
自分の発言に脈絡がない事を、縁は一応自覚している。高校の友人に「お前の話は飛び過ぎる」とダメ出しされた事は、一度や二度ではない。
だがそんな突発的思い付き発言に対し、エルネストからダメ出しを受けた事は一度もなかった。彼はいつも、さらりと縁の話題に着いて来る。
「熱も氷も関係ない地獄も世界にはあるんでしょうけどね。ユカリ君が言っているのは、日本仏教の地獄で合ってますか?」
やはり両手で湯呑を持ったまま、こてりと首を傾けて質問文を口にしてはいるものの、エルネストはほぼ確信しているようだった。
「うん、そう。死後に裁かれて、ちょっと一般人は知らない単位の年数ひたすら拷問を受けるやつ」
「ああ、無量百千年とか、普通に出てきますよね」
「百千年とか意味分かんないよね。幼稚園時代に三十六百円です、とか言ってたの思い出す」
数の単位を覚えても、単位の順番までは覚えていなかった幼少期の記憶である。こういうどうでも良い事ほど、いつまでもずるずると覚えているから不思議なものだ。
「今度は地獄に辿り着いたんですか?」
そのまま受け取れば非常に不穏な言葉だが、当然比喩でしかない。
縁は自他共に認める本の虫であり、読んでいて気になった事柄を調べるように次の本を選ぶので、ジャンルがあまり固定化されない。刑事モノの推理小説を読んでいた十冊後には、江戸時代の町民文化について調べていたりする。だからその流れで地獄に行き着いたと考えるのは、極めて自然な事だろう。
「いや、今回は読み漁ってて流れ着いたんじゃなくて、フツーに地獄が舞台の話見て興味持った」
お茶請けと称して用意された大判焼きをひとつ手に取る。現役男子高校生とはいえ運動部でもない縁にはお腹に溜まりすぎるお茶請けなので、食べ過ぎないようにしないとな、と頭の片隅で考えながら答えた。
その向かいで急須にお湯を注ぎながら縁の言葉を聞いていたエルネストが、ふと気付いた様子で顔を上げた。
「ひょっとして、冬にテレビ放送してたアレですか」
丁度大判焼きにかぶり付いたところだった為、声には出さず頷く事で返事を返す。
もぐもぐと黙って咀嚼していると、いつの間にか回収されていたらしい湯呑に新しく淹れられた日本茶を差し出されたので、目礼して受け取る。
口の中の大判焼きを飲み込んでから淹れたての緑茶を一口飲むと、口内に残っていた白餡の甘さが流されてさっぱりして美味しかった。
ちなみに飲食物はとても和風だが、それを飲み食いしている空間は洋間に設置されたソファとローテーブルという、とてもミスマッチな状態である。果てしなく蛇足だが。
「将にそれ。とりあえず原作の既刊は全部読み終えて、地獄について調べてるとこ。地獄とか妖怪とかについてがっつり調べるなら、やっぱりお経は避けて通れないっぽいね」
「さすがに、お経の原典を読むのは大変ですよ?」
少し戸惑った様子でそう言われた縁は、エルネストの言う原典がどこを指しているのか気付き、ぱたぱたと手を振った。
「いや、そこまではしないっていうか、まず原典を入手できる気がしないから」
おそらくエルネストの言う原典とは、漢訳される前の経典の事だ。サンスクリット語とかで書かれているに違いない。そんな現存しているかの確認が必要なレベルの希少品をいち高校生が読むのは、物理的にも知識的にも不可能に近い。
縁としてはせいぜい日本の古典程度までしか遡る気はないし、遡れもしないだろう。
「僕、お経って般若心経しか読んだ事なかったからさ。あれが他のお経に比べてむちゃくちゃ短いってのは聞いた事あったんだけど、まさかお経が基本物語形式になってるとは知らなかった」
現役高校生がどこでどうして般若心経を読む事になったんだと言われそうだが、実は『西遊記』の作中に全文出てくるのだ。ついでに言えば興味本位で丸暗記した為、縁は般若心経なら諳んじられる。
「そう言われれば、地獄巡りした僧侶の話とかあるって聞いた気がしますね。経典って、本来は仏教説話集なんでしょうかねぇ」
抹茶味の大判焼きを片手に、エルネストの視線が斜め上方へと動いた。記憶をさらう時の彼の癖だ。
「旧約聖書とか、がっつりストーリーあるもんね」
言ってから、手元の白餡入りの大判焼きへと再びかぶり付く。
「民衆に分かり易く話を伝える方法というのは、いつの時代どこの地域でもあまり変わらないって事ですかね」
そう言って、エルネストも手元の大判焼きを口へ運んだ。
咀嚼中はどっちも喋らないので、少しの間沈黙が落ちる。
ずず、と互いに緑茶を啜って一息吐いたところで、縁が話を再開する。
「話は地獄に戻るんだけどさ」
「はい、どうぞ」
「八熱地獄はむっちゃくちゃ事細かに詳細が分かってるのに、八寒地獄は罪も罰もさっぱり分からないって、ちょっと極端すぎるよね」
日本仏教における地獄は、八熱と八寒という二大地獄に分けられる。八熱地獄は落とされる罪状も与えられる罰もそれはもう事細かに明記されているのに、対する八寒地獄は全くと言って良いほど資料がない。ざっと調べただけの縁にも分かる程の、明らかな情報格差があった。
「八熱と同じ罪状だとすれば、一応半分は解決しますけど」
「でもその場合、八熱逝きと八寒逝きの違いは何なんだって話にならない?」
「なりますね。逆に全く別の罪状で堕ちる場合は、八熱に記されていない罪状がそんなにあるのかという話になります」
「あー、なっちゃうね」
「罪状はともかく、罰の内容が不明瞭な点は、説明不可能ってわけでもありませんけど」
話の展開が詰んで来たかな、と縁が思った頃、エルネストが話を進めた。
「え、どんなの?」
「あくまでも私個人の推測ですけど」
「伯爵の推測で良いから教えてよ」
「あんまり真に受けないでくださいね?」
縁の食い付きがエルネストの予想より良かったらしく、どこか不安そうに釘を刺された。
「はーい」
対して縁の反応は、良い子にしてたらお土産買ってくるからね、と言われた子供のような返事だった。
「なんかあまりにも軽い返事すぎて不安なんですけど」
胡乱げな眼差しで縁を見つめるエルネストに、ぱたぱたと気楽な調子で片手を振ってみせる。
「気にしない気にしない。要するに単なる世間話だと思って聞けって事でしょ?」
「そうです。与太話だと思って聞いてください」
「分かってるってば」
「なら良いんですけど」
尚もどこか不安の残る面持ちながら、そこまで騒ぐ事でもないと思い直したらしい。
「そもそもここまで前置きするほど長い話でもないんですよ。単に寒さや氷の地獄における呵責のバリエーションが、そこまで思い付けなかっただけなんじゃないかな、と」
原因は書き手の想像力の限界という、かなり身も蓋もない説だった。
「おー、まさかのメタ発言……あ、でもさ。仏教って言ったらインドとか中国でしょ? 高地に行ったら万年雪とか積もってそうだけど」
「こう言っちゃなんですけど、雪山程度では八寒地獄の寒さには足りないんじゃないかと思うんですよね。八寒地獄の最下層って、寒さで全身が裂けるらしいですし。原型留めない感じで」
「あー、そういえば。下層は紅蓮地獄とか大紅蓮地獄とか書いてあったわ。紅の蓮みたいに人体が裂けるとか、結構スプラッタだよね」
そもそも寒さで生物が裂けるというのも、縁としては謎現象だ。
「熱や炎の地獄なら、まだ想像し易かったんでしょうね。氷を作るのと炎を燃やすのでは、後者の方が簡単でしょうし」
「あ、そっか。よく考えたら一般家庭に氷がある状況って、歴史的にはもの凄く浅いのか」
「ええ。反対に、一般家庭に炎はかなり古くからあったでしょうね」
「むしろ火を焚ける事から人類の進歩は始まったと言える気がする」
「そうですね」
次は人類と炎の接点でも探してみようか。
縁の中で、次に読む本の傾向が決まった瞬間だった。