冬をさがして
それは、『トウコ』が十才になったばかりの頃のことでした。
トウコは神様のイタズラによって、不幸な事故にあってしまったのです。
そうして現在、トウコがいるのは、とある病院の病室でした。
病名はわかりません。
むずかしい病名だったので、トウコは覚えていなかったのです。
病院での生活は退屈なものでした。
読書もできず、テレビも見られない毎日です。
唯一の楽しみといえば、音楽やラジオを聴くことだけです。
そんな日々の中で、トウコと彼は出会いました。
…………♪
好きだったアイドルグループの歌がヘッドホンから流れてきます。
トウコは瞳を閉じて、音楽に心を委ねていました。
少し前にトウコのお母さんが見舞いに来ていたのですが、看護師が定期検診にやって来ると、入れ替わるように帰ってしまったのです。
トウコはそれが寂しかったのですが、わがままは言いませんでした。
お母さんはベッドから出ることもできないトウコのために会いに来てくれたのですから、それ以上に幸福なことはないでしょう。
やがて看護師の人も出て行くと、トウコはまた、ヘッドホンを付けて音に意識を傾けました。
今は音だけが、トウコを満たす世界のすべてでした。
…………♪
「——は」
音楽を聴くことに集中していたトウコは、間近で響いた声に気が付きませんでした。
だけど、病室の床からベッドを伝ってトウコへと届いたその振動に、身体の方が気付いたのです。
ヘッドフォンを外すと、もう一度声が聴こえました。
「こんにちは」
それは、聴いたことのない音でした。
トウコに会いに来る人はお父さんか、お母さんか、あるいは主治医の先生や看護師の方たちだけです。
だけど、声はその誰にも当てはまりませんでした。
「こんにちは。あなたはだあれ?」
トウコは尋ねます。
すると、声は少し遅れて答えました。
「……ボクは、旅人だよ」
「旅人さん?」
トウコが確認すると、そうだよ、と旅人は答えました。
「冬を探して旅をする、旅人さ」
旅人は得意そうに言いました。
「冬を、さがすの?」
どうやって? とトウコは思いました。
冬にしても、春にしても、夏にしても、秋にしても、さがして見つかるものとは思えなかったのです。
だけど、旅人は頷きました。
たぶん、頷いたのだとトウコは思いました。
「そうだよ。冬はどこにだってあるから、すぐに見つかるよ」
旅人はそういうけれど、トウコは冬を見つけたことなんてありませんでした。
トウコが不思議そうな顔をしていたからでしょうか。
旅人が冬のさがし方を教えてくれました。
「たとえば窓の外を見てごらん。
枯れ葉が落ちているのが見えると思う。
コートを着ている男の人が外を歩いているよ。
白い息を吐いて手を温めてる子供がいる」
旅人は、外の景色を眺めながらそう言いました。
「ごめんなさい。わたしにはわからないわ」
トウコは謝りました。
「わたし、眼が見えないから……」
悪いことをしたわけじゃないけれど、トウコは謝らなきゃいけないと思いました。
トウコは事故で、ヒカリを永久に失ってしまっていたのです。
だからトウコは読書をすることもできないし、テレビを見ることもできないのです。
「……そう、だったのかい」
突然やってきた旅人は、当然、そんな事情を知りません。
声から力が抜けていき、だんだんと弱々しいものに変わっていくのがわかりました。
きっと旅人は、自分の言葉でトウコを傷つけてしまったと思っているのかもしれません。
でも、そんなことはありませんでした。
「窓が、あったんだ」
トウコは自分のいる部屋に、窓があるということも知らなかったのです。
トウコのそんな呟きは、旅人にも聞かれていました。
「うん、そうだよ。この部屋には窓がある」
「ほかには、何があるの?」
眼の見えないトウコは今まで気にしたことがなかったけれど、いつの間にかそう尋ねていました。
「花瓶がある。花が飾られているよ。生けたばかりなのかな。綺麗な花が咲いている」
「さっきまでお母さんが来ていたから」
「チェストがあるよ。あっ、チェストというのは小さなタンスのことだよ。引き出しが三段ある。何が入っているのかな? 勝手に覗いたりはしないけど、こういうのって中に何が入っているか気になるよね」
「たぶん、わたしの着替えとかだわ」
「折りたたみ式のイスが一脚ある。いまはボクが座っているけれど、ボクが来る前は壁に立てかけてあった」
「お母さんかお父さんが持ってきたのね」
「洗面台と鏡がある。水が少し飛び散っているね。きっと花瓶に水を入れるときに零したのかもしれない」
「お母さん、そそっかしいから」
「あぁそうだ、一番大切なものの存在を忘れていたよ」
「それはなぁに?」
「ベッドがあって、キミがいる」
旅人はそう言いました。
その声は少しだけ、柔らかい響きでトウコの耳に届きました。
「さてと、そろそろボクはいかないといけないんだ」
イスの脚が音を立てます。
きっと、旅人が立ち上がったからだとトウコは思いました。
聴き慣れない足音がベッドから遠ざかっていきます。
でも、その音は途中で止まりました。
立ち止まったのでしょう。
トウコが音の遠ざかった方へと顔を向けます。
「また来るよ。この街の冬は、もう少しだけ続くからね」
ガラガラガラと、ドアの開く音が聞こえました。
誰が開けても同じに聞こえるその音を最後に、旅人はいなくなってしまいました。
…………♪
次の日のことです。
いつものようにトウコが音楽を聴いていると、旅人がやってきました。
「この街にはね、冬を探してやってきたんだ」
声が同じ高さから聞こえてきました。
旅人がイスに座ってから話を始めたからです。
「それじゃあ、旅人さんは冬が別のところへ行ってしまったら、いなくなってしまうの?」
トウコは頭に思い浮かんだことを口に出しました。
「残念だけど、そういうことになってしまうね」
本当に残念そうな声で、旅人は言います。
「東へ西へ、北へ南へ。冬というのは移動しているから、ボクも冬を追いかけなくちゃいけない。この街にいるのも、あと数日くらいのことだと思う」
「冬が、終わっちゃうんだ」
「そうさ。だけど、そんなに哀しそうな顔をしないで。冬の後には、春が来るんだから」
哀しそうな顔をしていたのでしょうか。トウコにはわかりません。
だけど、旅人がそういうのだから、きっとそうなのでしょう。
冬が終わってしまうのは、何となく、哀しいものです。
「春はとても気持ちの良い季節だよ。それに、新しく何かが始まる季節でもある。そのために、冬はたくさんの動物や昆虫、植物たちが冬眠するんだ」
「とうみん?」
「冬を寝て過ごすということさ」
なんだかわたしみたいね。わたしは毎日だけど。
トウコはそう思いました。
「動物たちは春になったら元気に活動するために、冬の間は身体を休めているんだ。キミはどうなのかな?」
「わたしは、きっとそうじゃない」
お父さんから聞いた病名はむずかしくって覚えていないけれど。
トウコは、自分の病気がもう治ることのない病気なのだと思っていました。
この部屋から出られないのは、たぶん、そういうことなのだと思うのです。
「ねぇ旅人さん、教えて。どうやって冬を追いかけているの?」
トウコはこの話題から離れようと思い、話を逸らしました。
旅人からの答えはすぐには返ってきませんでした。
考え事をしているのかもしれません。
トウコは旅人の言葉を待ちました。
「昨日も少し話をしたけれど、冬はそこらじゅうにあるんだよ。
真っ白い雪。
飾り付けされたモミの木。
陽の沈む時間。
葉の落ちた木々。
枯山」
「……ぜんぶ、眼が見えなければわからないわ」
トウコは少しイジワルなことを言ってしまいました。
「それならこういうのはどうかな。
肌を刺すような寒さ。
冷たい水」
「この部屋はとても暖かいもの。それもわからないわ」
トウコはやっぱりそう答えます。
トウコが生活している病室はいつも同じ温かさなので、外が寒いのか暑いのかわからないのです。
「そっか。困ったな」
「困ることなの?」
すると、旅人は「う〜ん」とうなりました。
「困るよ。ボクは冬の旅人だよ。なのにキミに冬を伝えられないなんて、あってはならないことだ」
旅人の語気が強まります。
怒らせてしまったのでしょうか。
だけど、そんなことはありませんでした。
旅人は自分の力のなさに落ち込んでしまったようでした。
「キミに冬を伝えることはなかなか難しいね。……あぁそうだ、キミはラジオを聴く?」
旅人が何かに気付いた風に言います。
トウコが音楽プレイヤーを手に持っていることに、気付いたからです。
トウコは音楽プレイヤーとヘッドフォンを掛け布団の中に隠しました。
すると、旅人は笑いました。
「隠さなくっても良いのに」
「……ラジオは、聴く」
トウコは少し俯き加減で答えました。
音楽プレイヤーから聴こえてくる音だけが、トウコの唯一の楽しみでした。
「それは良かった!
音の中にだって冬は隠れているんだよ。
クリスマスの歌。
お正月の歌。
除夜の鐘。
初詣のニュース。
みんな、冬になると聞こえてくる音たちだよ」
旅人は嬉しそうに言いました。
そういえば最近、ラジオから流れる音楽には、クリスマスを歌った歌や新しい年に向けた歌が多いような気がしていました。
それに、ラジオの司会者も、番組の最初に「寒くなってきましたね」「もうすぐクリスマスですね」と言っていたのを思い出しました。
それは、冬がやってきたという意味だったのです。
「今度、キミのお父さんやお母さん、医者の先生に訊いてみるといいよ。みんな、自分が冬を感じる瞬間をもっているから」
それはとても不思議な響きのする言葉で、トウコの心の中にスッと溶け込んでいくようでした。
「……それじゃあボクはそろそろ行くよ。突然だけど、どうやら冬が移動を始めたみたいなんだ」
言葉の意味がわからず、トウコは何も答えられませんでした。
「そうすると、キミとはしばらくの間会えなくなってしまう。だけど、冬は秋の次に必ずやってくるから。そのときになったら、またキミに会いに来るよ」
旅人はそう言って、部屋を出て行ってしまいました。
…………♪
「冬を感じるときは、どんなとき?」
トウコがそう尋ねると、お父さんは答えました。
「前の日まで暖かかったのに、急に寒くなったときかな。あとはそうだな、鍋が食べたくなったときや、忘年会の出欠メールが来たときもそうだな」
…………♪
「冬を感じるときは、どんなとき?」
トウコがそう尋ねると、お母さんは答えました。
「お父さんのコートをクローゼットの奥から引っ張り出したときよ。水が冷たいと感じたときもそうだし、冬物のセールが始まったときもそう」
…………♪
「冬を感じるときは、どんなとき?」
トウコがそう尋ねると、主治医の先生は答えました。
「朝起きるのが辛くなってきたときや、買い物をしにいくとクリスマスソングが店内で流れていたときだよ」
…………♪
「冬を感じるときは、どんなとき?」
トウコがそう尋ねると、看護師のお姉さんは答えました。
「クリスマスツリーが待合室に飾り付けられていたときかしらね。ナースセンターにストーブが必要になったときや、乾燥して化粧のノリが悪いときもそうね」
…………♪
春が過ぎました。
夏が過ぎました。
秋が過ぎました。
トウコはヒカリと自由を失う前に大好きだったアイドルグループの歌う、クリスマスソングを聴いていました。
今は、そのアイドルグループもあまり好きではありません。
ヒカリを失う前のトウコが好きだったのは、アイドルグループの声ではなかったようです。
そう思うと、少しだけ寂しい気持ちになります。
曲名にその年の数字を付けた歌が歌い終わると、話題はリスナーからのお便りを読むコーナーに変わりました。
トウコはヘッドフォンを外して、足の上に置きました。
カツンカツン。
強く打ち付けたような音が聞こえてくると、トウコはお母さんが来たのだとわかります。
ペタンペタン。
地面にくっつくような音が聞こえてくると、トウコは主治医の先生が来たのだとわかります。
キュルキュル。
引き摺るような音が聞こえてきます。誰の音かはわかりません。
ガラガラガラと、ドアの開く音が聞こえました。
キュルキュルという足音と一緒に、誰かがやって来たようです。
「こんにちは」
「こんにちは、旅人さん」
トウコは、その音が旅人なのではないかと思っていました。
そうです。あれからもう一年が経ったのです。
「元気そうで何よりだよ」
そう言う旅人も元気そうでした。
「旅人さんがやって来たということは、この街にも冬が来ているのね」
ベッドの上でトウコがそう言います。
眼の見えないトウコでも、日本という国が自分の想像しているよりも広いということくらい、知っています。
だから、ラジオでクリスマスソングを聴いても、それはこの街ではない、もっと遠くの街でのことかもしれないと、そう思っていたのです。
「季節は巡るものだからね。冬は秋の後で、春の前だって決まっているものさ」
旅人は楽しそうに言いました。
「だけどね、この街が冬の時期になると、逆に夏になっている場所もあるんだよ」
「それはそうよ。この街にいた秋がどこか遠くへ行ってしまうように、夏だって別のところにいるわ」
旅人がずいぶんと得意げに言うので、トウコは少しムキになって言いました。
「そのとおりさ。春や夏や秋も、冬と同じように旅をしている。知っているかい? 鳥の中にはね、季節で移動する種類がいるんだよ」
「渡り鳥のことね」
「へぇ、キミはとても物知りなんだね」
旅人が意外そうに声を上げるので、トウコは頬をふくらませました。
「ごめんごめん、そんなに怒らないでおくれよ。
ところで、みんなが感じている冬の話は訊けたかな?」
旅人は、前の年に話していたことをちゃんと覚えていました。
トウコはつい嬉しくなってしまい、みんなから訊いたことを旅人に話しました。
旅人はトウコが一方的に話し続けている間も、たまに相づちを打ちながら、最後までずっと聴いていてくれました。
…………♪
トウコの眼がまだ見えていて、自由に外で遊べていた頃のことです。
近所に、年の離れた男の子が住んでいました。
親同士の仲が良かったのでしょう。同じ小学校の上級生でもあったその男の子とトウコは、よく互いの家で遊ぶことがありました。
だけど、その男の子は小学校を卒業すると、遠くの街へ引っ越してしまいました。
トウコはその事がとても哀しくて、ずっと泣いていました。
「キミは、その男の子のことが大好きだったんだね」
旅人が言いました。
「……うん。たぶん、そう」
「今はどうなの?」
「よくわからない」
「……そっか」
春は新しい出会いの季節なのかもしれません。
でも、それなら別れの季節はいつなのでしょう?
それはきっと、冬の季節なのです。
「……そうだね。そうかもしれない」
そんな話をすると、旅人はしみじみと答えました。
「葉の落ちた木々を見ると哀しいし、寒い日の空はどうしてだか寂しい。
朝の目覚めは辛くて、外はすぐに暗くなってしまう。
冬というのは、そういう季節なのさ」
でもね、と旅人は言います。
「でもね、別れがなければ出会いもないように、葉が落ちなければ新しい葉は生まれてこないんだよ。
空色が寂しくても鳥は空を飛ぶし、朝が辛いからこそ、温かいコーヒーが美味しい。
陽の落ちる時間が早ければ家族が家に集まりやすい。
悪いことばかりじゃないんだよ」
なぜなのでしょう。旅人の言葉は、トウコの心をとても温かくさせます。
「それに、こうして冬が来なければ、ボクがキミを見つけることもなかったんだからね」
それは、いったいどういう意味なのでしょうか。
それからトウコは何度も尋ねてみましたが、旅人は最後まで、その言葉の意味を教えてはくれませんでした。
…………♪
また春になって、夏になって、秋になって。
冬になると、旅人がやってきます。
旅人は数日の間だけこの街にとどまると、またいなくなってしまいます。
だけど、春が来て、夏が来て、秋が来ると、また旅人に会えます。
トウコはヘッドフォンから流れる音に意識を向けながら、その日を待っていました。
…………♪
「——ん」
ラジオから流れる音を聴いているうちに、トウコはいつの間にか眠ってしまっていたようです。
耳から外れてしまったヘッドフォンからは、普段聴くことのないニュースの音が漏れていました。
トウコは久しぶりに、ニュースを聴いてみることにしました。
それまでのトウコは、この部屋の外で起こっている出来事を気にしたことがありませんでした。
それを知ってしまうと、この部屋から出られないという気持ちが強くなってしまい、哀しくなってしまうと思っていたからです。
だけど、旅人から外の世界の話をたくさん聴いているうちに、興味を持つようになっていたのです。
ニュースを聴いていると、どうやら、この街の近くで大きな事故があったようです。
事故と言われて思い出すのは、トウコの身に起こった事故のことです。
トウコはいっそう注意深く、そのニュースに耳を傾けることにしました。
すると、その事故に巻き込まれた犠牲者の名前に、聞いたことのある名前があることに気が付きました。
その名前は、トウコの家の近所に住んでいた男の子の名前でした。
だけど、その男の子はずっと前に遠くの街へと引っ越しているので、トウコはその名前を、知らない別人だと思いました。
ほかにも犠牲者はたくさんいたようです。
そのことを思うと、たとえヒカリと自由を失っても、こうして生きているトウコはきっと、幸せなのでしょう。
…………♪
トウコはヘッドフォンを外して、旅人が初めてやってきた日に教えてくれた、窓のある方を見詰めました。
耳を澄ませてみると、強い風が窓を叩く音を聴くことができます。
トウコがそのことに気付いたのは、旅人と出会ってから何年も経ってからでした。
お父さんにもお母さんにも、主治医の先生にも看護師さんたちにも、それぞれに冬の形があって、季節を感じています。
冷たい風。ポケットの中に入れた手。白い息。立てた襟。手袋。雪。枯れ葉。おでん。イルミネーション。忘年会。クリスマス。コート。ストーブ。陽の短さ。年末と年始のお休み。初日の出。鍋。除夜の鐘。コタツ。アネモネの花。みかん。マフラー。お正月。おみくじ。書き初め。やきいも。乾燥した手。眠たい朝。雪だるま。温かいコーヒー。
冬の感じ方はいろいろあって、トウコにとっての冬は——。
「旅人さん、まだ来ないのかなぁ」
トウコにとっての冬は、旅人でした。
だから、トウコの冬は、まだ来ていないのです。
トウコという名前はどういう漢字で書くのでしょうか。
冬の旅人にとってトウコはどういう存在だったのでしょうか。
そして、あなたにとって冬を感じるときは、どんなときでしょうか。
たまには季節を振り返って感じてみるのも、良いかもしれませんね。