第5話 馬の耳になんとやら
一階へ降りる階段の前で柚子は由貴の腕を離し、背中を強く押した。
勢いよく状態が前へと倒れ、由貴の眼前に階段が迫る。
「ちょっどわあっ!」
人間は追い詰められると普段使われていない身体の組織がフル稼働し、無意識に自分の身を守ったり高いところから落ちた人間を受け止めたり出来るそうだ。火事場の馬鹿力というやつである。
つまり、階段から落ちる直前に足を前へと出し身体の重心を後ろへとやることで、由貴は階段から転げ落ちるのを踏みとどまることが出来た。
「なっ! なにすんだよっ!!」
「いつまでも放心してるから、気付けにね」
「気付けの前に打ち所が悪いと死ぬから!」
「生きてるから大丈夫でしょ! というか放心したままの由貴が悪い」
真顔でそう返す柚子に、由貴はため息をついた。
何を言っても無駄だと悟ったと言うべきかもしれない。それでも言わずにはいられない由貴を人は往生際が悪いと言う。
「とにかく危険なことだから、もう二度とやらないでくれ」
「分かってるわよ。それから口調直してくれる?」
「ホントに分かったのか疑問だけど、口調がなんだって?」
悪びれた様子もない柚子に、由貴は肩を落とす。
「口調、言葉使いよ。女の子がそんな言葉使っちゃ駄目でしょう?」
「俺は男だ」
「い・ま・は・女装中。あなたは女の子なの。バレたら女装趣味の変態もしくはそっち系と勘違いされること間違いなしよ? それじゃあバンドメンバーにバレちゃうじゃない。それは困るわ」
「また嫌な感じに人を脅すなあ」
「これは脅しじゃなくて事実を言ってるのよ。とにかくこれから会う子達にはバレないようにしてね」
柚子の念を押すような言葉に、由貴は首を傾げた。
「ガールズバンドは分かるけど何でバレたら駄目なんだよ? ていうか始めから女の子スカウトしろよ」
「あなたは口止めのために巻き込んだだけで、ギターの子はちゃんといるわよ。ボーカルはいなかったけどね。あ、由貴がボーカルになるって決めちゃったけど歌えるわよね?」
「カラオケでは友達に褒められるけど、それって本当に上手いか分からないからなあ。ていうかそういうのは先に確認してくれよ」
「忘れてたんだからしょうがないでしょう! まあどれだけの実力か、ギターの腕見ながら確認すればいいわね」
一人納得して頷く柚子に、由貴はぽつりと、
「……柚子が歌えばいいじゃんか」
「私の歌声を聴いて同じことが言えたなら、たいしたものだと褒めてあげる」
「…………」
「…………」
二人の間に不自然な沈黙が生まれた。
しばしお互いに見つめあい、どちらからともなく視線を外したところで柚子がこほんと咳払いを一つ。
「それからバレたら駄目な理由は、男が大の苦手な子がいるのよ。あなたが男だってバレたら辞めるかもしれないじゃない。それは困るのよ」
「男が苦手でバンドって……ガールズバンドのファンって男が多いような気がするんだけどな」
「その辺は大丈夫よ。メンバーの中で一番由貴が可愛いから、必然的にほとんどの男は由貴へと向かうはずだわ!」
「どこが大丈夫だ! 俺が嫌だよ!」
「言葉使い!!」
笛を吹きカードを掲げる動作をした柚子は、ビシッと鋭く由貴を指差す。
その指を今度は自分の口元へと持って行き優しく微笑んだ。
「女の子ら・し・く、さんはい! 私は嫌だよ」
「お、わ、わたしは嫌だよ?」
「もっと可愛い声で! 地声は男らしくないけど女としては低いんだから、気持ち高い声出して!」
「うえぇ……わたしは嫌だよ」
「もう一声! 歌うときは低めの声でもいいけど、声はもう少し高く!! でも違和感なく!」
「難しい注文だな!」
「さんはい!」
「…………わたしは嫌だよ」
「うんまあいいかそれで。あ、それと由貴の意見は聞かないから。それじゃあ話がまとまったところで早く行きましょう」
「まったくまとまってない!」
しかし由貴の抗議の声など何処吹く風で、柚子は階段を下りていってしまう。
とことん柚子のペースに巻き込まれながらも、ある意味女装という究極の弱みを握られてしまった由貴は、とぼとぼと柚子の後を力なく追いかけたのだった。