第22話 礼はなんとやら
「いいなら、そろそろ行こうか?」
「ちょっと待って」
踏み出しかけた足を戻し、由貴は不思議そうな顔をして柚子を見た。
(さっきの話じゃないよな? まだ何か言うことあるのか?)
「由貴、私はあなたに感謝してるの」
「何だよ急に」
突然の柚子からの言葉に驚く。
「急にじゃない。私はずっと、あなたに感謝していたわ。そしてきちんとお礼を言いたいと思っていた」
「お礼って……そんなことされる覚えねーよ」
「あるわよ、それはもうたっぷりとね! さすがに私だって高校生の男に女装を強要させるのは、悪いなって思ってたのよ?」
「悪気があったのか」
心底驚いた様子で呆気に取られる由貴の頭を、柚子は軽く叩いた。
「私を何だと思ってるわけ?」
(そう思われたくないなら、少しは強引な性格を改善してくれ)
思ったことは口には出さず、
「冗談だ」
爽やかにそう言えば、柚子は納得のいかない顔をしつつもそれ以上の詮索はしてこない。
「とにかく、私はあなたに感謝してるの! 強引に引き込んだし、女装もさせたし、ちょっと脅迫に近いことも言っちゃったし」
「あれは絶対に脅迫だ」
「…………可愛い乙女の必死なお願いでしょ」
「絶対に違う」
「そこは嘘でも『そうだね』とか言うところよ!」
「知らねーよ! つーか自分で言うな!!」
「由貴が言わないから仕方なく、自分で言ったのよ」
「俺の所為かよっ」
「とーにーかーくっ、私はあなたに感謝してるの!! そこんとこ受け取りなさいよっ!」
「横暴だ……」
「何か言ったかしら?」
肩を落として思わずため息と共に吐き出した言葉を、耳ざとく拾った柚子に睨まれ、由貴はあわてて首を左右に大きく振った。
「何でもありませんっ!」
「……まあいいけど」
「ええと、とにかく柚子の感謝を受け取っておけばいいんだな?」
「受け取ると言っても物じゃなくて気持ちだけどね。でも、由貴のお陰だから、受け取ってほしいのよ」
「皆にじゃなくていいのか?」
「そっちはライブ後に打ち上げとか、そっちで返すわ」
「なら俺にわざわざ言わなくても」
「由貴、私たちのバンド、とっても良いと思わない?」
「柚子?」
突然の言葉に、由貴は戸惑いつつも頷いた。
「そりゃそうだろ。元の素質が良いのばっか集めたみたいだしな」
「雛鳥は学校内で組んでたバンドだけど、人一倍熱心だったから勧誘したの」
「そんなような話してたな」
「柏木は子供の頃からピアノをやってたらしくて、プロを目指さなくなった理由は聞いてないけど、彼女のピアノ演奏を聴いて勧誘したの」
「どこで聴いたんだ?」
「喫茶店よ。柏木の実家、店内でピアノの生演奏聴ける喫茶店なの」
「へえ」
「春奈は路上ライブ中に勧誘して、引き抜いちゃった」
「良く引き抜けたな」
「それは私も不思議なんだけど、二つ返事でOKしてくれたのよね」
(……何となくその時の光景が予想できるな)
「由貴の演奏は聞く前だったけど、期待以上のものだったし」
「口止めに女装か……いやむしろ口封じの方か?」
「封じてないでしょ!」
「というか何が言いたいんだよ?」
「私が勧誘と時の運と少しの強引さでもって、作ったバンドなのよ」
「少しじゃない。かなり強引だ」
「そこは流してちょうだい。つまりね、最高のバンドが出来たと思ってるのよ」
「ん?」
「由貴のことは強引に引っ張りこんだ上に女装までさせて悪かったけど、でもお陰で最高のバンドになったと思うの」
微笑む柚子の顔が、由貴にはとても眩しく感じられた。
「由貴のお陰よ、ありがとう」
「…………あー………………おお」
満面の笑みでお礼を言われ、由貴はそっぽを向いて照れ隠しに頭を乱暴に掻いた。
そして触れた手触りから自分が今はカツラをつけていることを思い出し、あわてて手櫛を入れて直す。
「うふふ。ねえ、由貴」
「なんだよ」
ついぶっきらぼうに返す由貴の様子に、柚子の笑みがますます深まる。
「結果はどうなろうと、精一杯頑張りましょうね」
「……当然だろ」
「でも、絶対に成功させましょ?」
「どっちだよ」
「精一杯頑張って成功させるのよ」
「まあ、やれるだけのことはするよ」
「後悔したくないもの」
「そうだな。後悔するような演奏はしたくないな」
「第一回目のライブだもの。完璧にやり遂げたいわ」
「…………そうだな」
(でも、俺はこのライブが最後になるんだよな。あくまで、この日まで付き合う約束だから)
手のひらを握り、由貴は柚子へと視線を合わせる。
「絶対に成功させよーぜ」
シニカルな笑みを浮かべる由貴をしばし見つめ、柚子は笑うように手を差し出した。
「行きましょう!」
「おう!」
重なるように手を合わせ、繋いで歩き出す。
楽器を奏でるためか、少女特有の柔らかさのない手のひら。だが不思議な固い弾力と細い指が、柚子らしいと由貴は密かに笑った。
そして自分の手を意識してみると、やや固い手のひらに骨ばった細い指が自分らしいと苦笑する。
(柚子の手は、生み出す手なんだよな。俺と同い年で、人を感動させるものを作る……職人って言い方は変だな。でも作り手だ。『なずしらゆさ』の時は間違えたかもしれないけど、今は大丈夫だと分かる。柚子は生み出す人で、作り出す人で、自分の作ったものにプライドを持てる人だと俺は知ってるから)
細い指に力を込める。
柚子が不思議そうな顔をして隣を歩く由貴を見たが、由貴は視線を前に固定して柚子の視線に気づかない振りをした。
慌しく準備スタッフが走り回る。その間を器用に通り抜けながら、由貴はもう一度、柚子が痛まない程度に力を入れて、細い指を握り締めた。
「由貴?」
「緊張からってことにして」
そう言えば、柚子は不思議そうな顔をして由貴の顔を覗き込む。
「緊張からなんて言い方をするってことは、他に意味があるの?」
「だから緊張してるってことだよ」
「嘘。他に意味あるでしょ?」
「言いたくないから、緊張だって誤魔化したんだよ」
「誤魔化せてないじゃない。誤魔化せなかった場合は可及的速やかに、真実を告げるべきじゃない?」
「真実は人の数だけあるものだよ。この場合、俺にとっての真実は緊張からだ」
「それは私にとっての真実じゃないでしょ。もうっ、言いたくないなら上手く誤魔化してちょうだい」
「口が滑った」
「今後は気をつけることね。でないと、次は知られたくないことを根掘り葉掘り聞きだすわよ」
にっこり笑ってそう言った柚子に、由貴は身体に走った悪寒にぶるりと震える。
無意識に腕まで擦った。
「…………やっぱり女は怖いな」
「失礼ね!」
「全然失礼じゃない。女は怖い。世界の真理だろ」
「そんな真理知らないわよ。というか、こんな可愛い女の子が隣にいて怖いなんておかしいわ」
「見た目は文句なしに可愛いよな」
「私より可愛い見た目をしてる、由貴には言われたくないけどね」
「誰の所為だと……」
「ほらっ、そんな怖い顔しないの! 可愛く笑いなさい。可愛いは正義よ、世界共通の常識でしょう?」
「いやそんな常識はない」
「なら怖いとか言うのも訂正しなさい」
「…………嘘は良くないと思わないか?」
「叩くわよ」
そう言って握りこぶしを見せる柚子。
固く握られた拳は血管が浮き出るほどに強く力が込められ、殴られれば確実に必ず殺すと書いて必殺並みの威力があることが伺えた。
「それ脅迫……いえ、何でもありません。」
「分かればいいのよ」
由貴は力に屈した。
たいていの物事において、男が女に屈するのは世界の摂理でもある。そのため、由貴は必要以上に肩を落とすことなく、苦笑いをするに留めた。
(藪をつついて蛇を出す真似はしたくないし)