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祖母の遺言で屋敷を継ぐのは、毎朝パンを焼いた者だそうです

掲載日:2026/10/25

 祖母の葬儀の翌日、アイゼンハルト家の広間に親族が集められた。


 遺言状の読み上げだ。


 長机の上座に座った叔父のゲルトが、咳払いをして、公証人に目配せをした。


「さっさと始めてくれ。結論は分かっている。この屋敷は長男である私の父の家系、つまり私が継ぐ」


 私は広間の隅の椅子で、膝の上のエプロンをぎゅっと握りしめた。


 エルナ・アイゼンハルト、二十歳。祖母と二人で暮らしてきた孫娘だ。


 父と母は幼い頃に亡くなり、以来、祖母と一緒にこの屋敷の台所で暮らしてきた。祖母が足を悪くしてからの五年間は、私が屋敷のすべてを回してきた。


「では、読み上げます」


 公証人が、封蝋を切った。


「遺言者、アンナ・アイゼンハルト。私の財産の分与について、以下のとおり定める」


 叔父は椅子にふんぞり返っている。叔母は扇で口元を隠し、いとこのベルナデッテはあくびをしていた。


「一、屋敷および敷地は、『毎朝パンを焼いた者』に譲る」


 広間が、静まり返った。


「……は?」


 叔父が、間の抜けた声を出した。


「何だ、それは。パンを焼いた者?」


「遺言状には、そう記載されております」


 公証人は淡々と続ける。


「二、『毎朝』とは、遺言者の死去の日から遡って一年間、一日も欠かさず、という意味とする。判定は、屋敷の使用人および近隣の者の証言による。三、判定に異議がある場合は、公証人の面前で、パン生地をこね、焼くことで証明すること」


「ふざけるな!」


 叔父が机を叩いた。


「そんな馬鹿げた条件があるか。母さんは、ボケていたんだ。無効だ!」


「アンナ様は、遺言作成時、医師の診断書にて、判断能力に問題なしと確認されております」


 公証人は、紙を一枚、机の上に置いた。


 叔父の顔が赤黒く染まる。


 私は、静かに立ち上がった。


「あの、公証人様」


「はい?」


「私は、この一年、毎朝、パンを焼いておりました」


 広間の視線が、一斉に私に集まる。


 叔父が鼻で笑った。


「パンなんて、使用人が焼くものだ。エルナが焼いたからといって」


「いいえ」


 私は穏やかに首を振った。


「祖母は、五年前に足を悪くしてから、毎朝、私に言いました。『今日のパンは、あなたが焼きなさい。この家の朝は、パンの匂いで始まるものよ』と」


 ◇


 それから、証人が呼ばれた。


 近所のパン屋の主人、牛乳売りのおじさん、郵便配達の青年。皆が口を揃えて言った。


「毎朝五時には、アイゼンハルト家の煙突から、パンの焼ける匂いがしていた」


「エルナさんが、窓を開けて、焼きたてを近所に配ることもあった」


「雪の日も、雨の日も、一日も欠かしたことはない」


 叔父の顔から、血の気が引いていく。


「そ、それは、使用人がやっていたことで」


「使用人は、アイゼンハルト家には、もういません」


 私は静かに言った。


「三年前、叔父様が『財政が厳しいから、使用人は全員解雇しろ』と祖母に迫られましたよね。その後、屋敷のことは、すべて私がやっておりました」


「それは……」


「叔父様。この一年間、叔父様は何回、この屋敷にいらっしゃいましたか」


 叔父は、答えられなかった。


 実際は、年に二回。祖母の誕生日と、遺産の話が出たときだけだ。


 公証人が、羽根ペンを走らせる。


「判定に異議があるとのことですので、規定に従い、実際にパンを焼いていただきます。台所へ移動しましょう」


 ◇


 台所は、いつもの朝の匂いがした。


 小麦粉と、酵母の甘い香り。祖母が教えてくれた、あの匂い。


「では、それぞれ、パンを焼いてください。時間は二時間です」


 叔父は、ぎこちない手つきで小麦粉の袋を開けた。


 叔母も、いとこも、困り果てた顔をしている。


 私は、いつも通りに、手を動かした。


 小麦粉に塩と酵母を混ぜ、ぬるま湯を少しずつ加える。生地をこねる。手の中で、生地が呼吸するように柔らかくなっていく。


 祖母の手と、私の手が、重なるような気がした。


 一時間後、叔父の生地は、べたべたの塊になっていた。


「くそっ、なんだこれは!」


 焼き上がりは、石のように硬く、焦げたパンだった。


 叔母の生地は膨らまず、ベルナデッテは途中で放棄した。


 私のパンは、二時間後に、竈から取り出された。


 きつね色に焼けた、丸いパン。表面に細かな割れ目が入り、ほんのり甘い香りが台所いっぱいに広がる。


 公証人が、一口ちぎって口に運んだ。


「……これは、素晴らしい」


 ふと、彼の目が少し潤んだ。


「アンナ様の焼いていたパンと、同じ味がします。私が若い頃、この屋敷に何度も伺った際に、いただいたものです」


 叔父が、青ざめた顔で呟いた。


「そんな、馬鹿な」


 公証人が、遺言状の最後の一行を読み上げた。


「ここに、追記があります。『エルナ、このパンの焼き方を、あなたに残します。それが私の本当の遺産です。屋敷は、パンを焼く人のものですから』」


 台所に、静寂が降りた。


 私の頬を、涙が伝っていった。


 祖母は、最初から分かっていたのだ。


 叔父が、この家を財産としてしか見ていないことも。


 私が、この家の朝を守り続けることも。


「判定を発表します」


 公証人は、厳かに言った。


「アイゼンハルト家の屋敷および敷地は、エルナ・アイゼンハルトが相続する」


 叔父は、立っていられずに椅子に崩れ落ちた。


 ◇


 その後、叔父は何度も屋敷に押しかけてきた。


 最初は「話し合おう」と言い、次は「親族じゃないか」と言い、最後には「せめて半分」と言い出した。


 その都度、私は同じ答えを返した。


「遺言書に、書いてありますので」


 そうして季節が過ぎ、春が来た。


 私は屋敷の一階を改装して、小さなパン屋を開いた。


 店の名前は、『アンナの朝』。


 開店初日、朝五時から行列ができた。近所の人たち、旅の人たち、そして、あの日証言台に立ってくれたパン屋の主人まで。


「エルナちゃん、悔しいが、うちより旨いかもしれん」


「いえ、そんな」


「だから、一つ、提案がある」


 主人は笑って、後ろの青年を前に押し出した。


「うちの跡取りのマルクだ。パン屋は継がせるが、あいつはどうしても、お前さんのパンの修業がしたいと言って聞かなくてな」


 栗色の髪をした青年が、顔を真っ赤にして、頭を下げた。


「マルクです。毎朝、アイゼンハルト家の煙突の煙を見て、あの匂いに憧れていました。弟子にしてください」


「弟子……ですか」


 戸惑う私に、マルクさんは焼きたてのパンの匂いを嗅ぐように、深呼吸して言った。


「いえ、本当は、弟子ではなく」


「はい?」


「あ、いや、まずは弟子から」


 周囲の客が、くすくす笑い出した。


 私は、ちょっと迷って、笑顔を返した。


「それでは、明日の朝五時、台所に来てください。遅刻は厳禁です」


「はい!」


 焼きたてのパンの香りが、春の風に乗って、通りへ流れていく。


 祖母が遺してくれたのは、屋敷ではなかった。


 朝を迎えるという、小さな習慣と、それを大切にしてくれる人たちとの縁だった。


 私は今日も、パン生地に手を伸ばす。


 毎朝。一日も欠かさず。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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マルクが下心見え見えで草wwwww
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