祖母の遺言で屋敷を継ぐのは、毎朝パンを焼いた者だそうです
祖母の葬儀の翌日、アイゼンハルト家の広間に親族が集められた。
遺言状の読み上げだ。
長机の上座に座った叔父のゲルトが、咳払いをして、公証人に目配せをした。
「さっさと始めてくれ。結論は分かっている。この屋敷は長男である私の父の家系、つまり私が継ぐ」
私は広間の隅の椅子で、膝の上のエプロンをぎゅっと握りしめた。
エルナ・アイゼンハルト、二十歳。祖母と二人で暮らしてきた孫娘だ。
父と母は幼い頃に亡くなり、以来、祖母と一緒にこの屋敷の台所で暮らしてきた。祖母が足を悪くしてからの五年間は、私が屋敷のすべてを回してきた。
「では、読み上げます」
公証人が、封蝋を切った。
「遺言者、アンナ・アイゼンハルト。私の財産の分与について、以下のとおり定める」
叔父は椅子にふんぞり返っている。叔母は扇で口元を隠し、いとこのベルナデッテはあくびをしていた。
「一、屋敷および敷地は、『毎朝パンを焼いた者』に譲る」
広間が、静まり返った。
「……は?」
叔父が、間の抜けた声を出した。
「何だ、それは。パンを焼いた者?」
「遺言状には、そう記載されております」
公証人は淡々と続ける。
「二、『毎朝』とは、遺言者の死去の日から遡って一年間、一日も欠かさず、という意味とする。判定は、屋敷の使用人および近隣の者の証言による。三、判定に異議がある場合は、公証人の面前で、パン生地をこね、焼くことで証明すること」
「ふざけるな!」
叔父が机を叩いた。
「そんな馬鹿げた条件があるか。母さんは、ボケていたんだ。無効だ!」
「アンナ様は、遺言作成時、医師の診断書にて、判断能力に問題なしと確認されております」
公証人は、紙を一枚、机の上に置いた。
叔父の顔が赤黒く染まる。
私は、静かに立ち上がった。
「あの、公証人様」
「はい?」
「私は、この一年、毎朝、パンを焼いておりました」
広間の視線が、一斉に私に集まる。
叔父が鼻で笑った。
「パンなんて、使用人が焼くものだ。エルナが焼いたからといって」
「いいえ」
私は穏やかに首を振った。
「祖母は、五年前に足を悪くしてから、毎朝、私に言いました。『今日のパンは、あなたが焼きなさい。この家の朝は、パンの匂いで始まるものよ』と」
◇
それから、証人が呼ばれた。
近所のパン屋の主人、牛乳売りのおじさん、郵便配達の青年。皆が口を揃えて言った。
「毎朝五時には、アイゼンハルト家の煙突から、パンの焼ける匂いがしていた」
「エルナさんが、窓を開けて、焼きたてを近所に配ることもあった」
「雪の日も、雨の日も、一日も欠かしたことはない」
叔父の顔から、血の気が引いていく。
「そ、それは、使用人がやっていたことで」
「使用人は、アイゼンハルト家には、もういません」
私は静かに言った。
「三年前、叔父様が『財政が厳しいから、使用人は全員解雇しろ』と祖母に迫られましたよね。その後、屋敷のことは、すべて私がやっておりました」
「それは……」
「叔父様。この一年間、叔父様は何回、この屋敷にいらっしゃいましたか」
叔父は、答えられなかった。
実際は、年に二回。祖母の誕生日と、遺産の話が出たときだけだ。
公証人が、羽根ペンを走らせる。
「判定に異議があるとのことですので、規定に従い、実際にパンを焼いていただきます。台所へ移動しましょう」
◇
台所は、いつもの朝の匂いがした。
小麦粉と、酵母の甘い香り。祖母が教えてくれた、あの匂い。
「では、それぞれ、パンを焼いてください。時間は二時間です」
叔父は、ぎこちない手つきで小麦粉の袋を開けた。
叔母も、いとこも、困り果てた顔をしている。
私は、いつも通りに、手を動かした。
小麦粉に塩と酵母を混ぜ、ぬるま湯を少しずつ加える。生地をこねる。手の中で、生地が呼吸するように柔らかくなっていく。
祖母の手と、私の手が、重なるような気がした。
一時間後、叔父の生地は、べたべたの塊になっていた。
「くそっ、なんだこれは!」
焼き上がりは、石のように硬く、焦げたパンだった。
叔母の生地は膨らまず、ベルナデッテは途中で放棄した。
私のパンは、二時間後に、竈から取り出された。
きつね色に焼けた、丸いパン。表面に細かな割れ目が入り、ほんのり甘い香りが台所いっぱいに広がる。
公証人が、一口ちぎって口に運んだ。
「……これは、素晴らしい」
ふと、彼の目が少し潤んだ。
「アンナ様の焼いていたパンと、同じ味がします。私が若い頃、この屋敷に何度も伺った際に、いただいたものです」
叔父が、青ざめた顔で呟いた。
「そんな、馬鹿な」
公証人が、遺言状の最後の一行を読み上げた。
「ここに、追記があります。『エルナ、このパンの焼き方を、あなたに残します。それが私の本当の遺産です。屋敷は、パンを焼く人のものですから』」
台所に、静寂が降りた。
私の頬を、涙が伝っていった。
祖母は、最初から分かっていたのだ。
叔父が、この家を財産としてしか見ていないことも。
私が、この家の朝を守り続けることも。
「判定を発表します」
公証人は、厳かに言った。
「アイゼンハルト家の屋敷および敷地は、エルナ・アイゼンハルトが相続する」
叔父は、立っていられずに椅子に崩れ落ちた。
◇
その後、叔父は何度も屋敷に押しかけてきた。
最初は「話し合おう」と言い、次は「親族じゃないか」と言い、最後には「せめて半分」と言い出した。
その都度、私は同じ答えを返した。
「遺言書に、書いてありますので」
そうして季節が過ぎ、春が来た。
私は屋敷の一階を改装して、小さなパン屋を開いた。
店の名前は、『アンナの朝』。
開店初日、朝五時から行列ができた。近所の人たち、旅の人たち、そして、あの日証言台に立ってくれたパン屋の主人まで。
「エルナちゃん、悔しいが、うちより旨いかもしれん」
「いえ、そんな」
「だから、一つ、提案がある」
主人は笑って、後ろの青年を前に押し出した。
「うちの跡取りのマルクだ。パン屋は継がせるが、あいつはどうしても、お前さんのパンの修業がしたいと言って聞かなくてな」
栗色の髪をした青年が、顔を真っ赤にして、頭を下げた。
「マルクです。毎朝、アイゼンハルト家の煙突の煙を見て、あの匂いに憧れていました。弟子にしてください」
「弟子……ですか」
戸惑う私に、マルクさんは焼きたてのパンの匂いを嗅ぐように、深呼吸して言った。
「いえ、本当は、弟子ではなく」
「はい?」
「あ、いや、まずは弟子から」
周囲の客が、くすくす笑い出した。
私は、ちょっと迷って、笑顔を返した。
「それでは、明日の朝五時、台所に来てください。遅刻は厳禁です」
「はい!」
焼きたてのパンの香りが、春の風に乗って、通りへ流れていく。
祖母が遺してくれたのは、屋敷ではなかった。
朝を迎えるという、小さな習慣と、それを大切にしてくれる人たちとの縁だった。
私は今日も、パン生地に手を伸ばす。
毎朝。一日も欠かさず。
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