第8話 初恋を選べ
帰宅後、
私に指示を仰ぐ者は誰もいなかった。
屋敷が眠りについたあと、
私は書斎の灯りを点けた。
昼間の湖の出来事は誰も口にしなかった。
それが却って、はっきりとした結論のように思えた。
机の上には白い紙とペン。
見慣れてる文具だった。
その傍らに使用人の配置表と今月分の支払い予定、
社交への返礼の下書きを重ねて置いた。
この屋敷の書類はほとんど私が整えてきた。
離縁状を書くのに迷いはなかった。
言葉も、感情も、必要な分だけで足りた。
『どうぞ初恋をお選びください』
それだけを書き添え、
署名をして、封をした。
目に浮かぶのは微笑みではなく、
私を苛む夫の冷たい声と歪んだ顔。
そして、小さな顔を真っ赤にして、
私を罵る慈しんでた息子。
怒りはなかった。
悲しみもすでに形を失っていた。
必要なのは終わらせることだけだった。
荷物は最小限にした。
旅行鞄が一つ。
衣服数枚と令嬢時代から持っていた宝石や
両親の遺品を詰め込んだ。
長く暮らした屋敷なのに、
持ち出す物は驚くほど少ない。
夜の廊下は静かだった。
足音が響かないよう、
自然と歩幅が小さくなる。
外気が思ったより冷たかった。
裏門の戸口を出ると、
停車場へ向かって歩き出した。
私は振り返らなかった。
伯爵夫人だった。
確かにそうだった。
けれど、その役目はもう終わった。
乗り合い馬車が屋敷の近くを夜も走ってるのは知っていた。
お金を払い、乗り込む。
客は私と、後は反対側に座る若い男が一人だけ。
やがて、闇を突いて走る夜行の駅馬車が動き出す。
町の灯りが遠ざかっていく。
それで終わりだった。
*
伯爵夫人が去ってから三ヶ月後。
屋敷は静かに崩れ始めた。
社交界からの招待状は返事が遅れ、
いつの間にか届く数も減っていった。
支払いの書類は机に積まれ、
誰も優先順位を決められない。
使用人同士の小さな諍い(いさか)が増えた。
執事は判断を仰ぐ相手を失い、
家令は伯爵夫人が去った後の帳簿の整合に頭を抱えた。
レディ・エレンの滞在費は夫人の維持費から捻出されていた。
夫人が居ない今、名目が変わる。
伯爵は事業に専念していたので、
家政の事は不干渉だった。
屋敷はこれまでと同じように立っている。
庭も、調度も、何一つ変わっていない。
それでも、どこかが噛み合わない。
伯爵家は、
“自然に”回っていたわけではなかった。
誰かが毎日、黙って回していたのだと。
伯爵はその事実にようやく辿り着いた。
「クリスチーナ……」
その名を口にするのは一年ぶりだった。
返事はない。
もう、どこにもいない。
ただ静かな空白だけが、
屋敷の中心に残っていた。
夜逃げ・:*三( ε:)




