第5話 消えていく声
その日、息子は朝食の席に現れなかった。
珍しいことではない。
体調が優れない日もあるし、
読書に夢中になって遅れることもある。
私は給仕に目配せをした。
「息子の分は部屋へ運んで」
「いえ」
答えたのは執事だった。
「エレン様のお部屋で、すでにお済みです」
一瞬、言葉を失った。
だが、すぐに頷いた。
「そう」
それだけで済む話だった。
朝の支度を終え、
私は執務室へ向かった。
帳簿を開く。
数字は正確で乱れはない。
屋敷は今日も問題なく回っている。
昼前、息子が廊下を走っていく音がした。
軽く弾むような足音。
私は思わず顔を上げた。
扉の外でエレンの声がする。
「そんなに急ぐと転ぶわよ」
「だって、続きが気になるんだ」
「じゃあ、ちゃんと座って読みましょう」
二人は私の前を通り過ぎていった。
午後、家庭教師が来た。
息子は珍しく素直に机に向かっていた。
エレンは少し離れた椅子に腰掛け、
邪魔にならない距離で授業の様子を眺めている。
「賢いのね。よくできてるわね」
その一言で息子の背筋が伸びた。
私は部屋の外からそれを見ていた。
褒める言葉は私も何度もかけてきた。
けれど今は、
私の言葉よりも、
彼女の声の方が届いている。
それがはっきりと分かった。
夕方、私は息子を呼んだ。
「少しお話があります」
息子は一瞬、ためらった。
それから私の前に立った。
「何でしょうか」
丁寧な言葉遣い。
正しい姿勢。
私は胸の奥で小さく息を吐いた。
「最近、お勉強はどう?」
「問題ありません」
「困っていることは?」
「……特にありません」
答えはどれも間違っていない。
だからこそ、
それ以上、踏み込めなかった。
「そう」
それで話は終わった。
息子は一礼し、
エレンの部屋の方へ戻っていった。
夜、私は一人で食事を取った。
夫はエレンと話し込んでおり、
息子はその近くで眠そうに椅子に座っている。
その光景は家族のようにも見えた。
――違う。
私は心の中でそう訂正した。
これは私が想像していた家族ではない。
それでも誰も間違ったことはしていない。
エレンは優しく、
夫は善意で、
息子は安心できる場所を選んだ。
それだけだ。
部屋に戻り、
私は窓を開けた。
夜風がカーテンを揺らす。
屋敷は静かで、
よく手入れされた庭が月明かりに浮かんでいる。
この屋敷はまだ私の管理下にある。
帳簿も、人の采配も、
形式上は何も変わっていない。
それでも私を必要とする声だけが、
聞こえなくなった。
私は椅子に腰を下ろし、
手を重ねた。
まだ何も終わっていない。
そう言い聞かせることはできた。
ただ――
始まってしまったことだけは、もう否定できなかった。




