第3話 南の部屋
エレンが屋敷に滞在するようになって、
一週間が過ぎた頃だった。
客であるなら、
そろそろ「今後」の話が出てもおかしくない。
だが、誰もその話題を口にしなかった。
それは忘れていたわけではない。
必要がないと思われていたのだ。
朝、私は執務室で帳簿を見ていた。
扉の外から楽しげな声が聞こえる。
「それでね、この花は――」
エレンの声だった。
続いて、息子の笑い声。
私は顔を上げ、窓の外を見た。
庭の小道で二人が並んで歩いている。
エレンは歩調を息子に合わせていた。
早すぎず、遅すぎず。
子どもが「急がなくていい」と思える速さ。
その手には、小さな花束があった。
「お母様にあげる?」
そう言われて、息子は一瞬、言葉に詰まった。
そして首を横に振った。
「……あげない」
エレンは否定しなかった。
「そう。じゃあ、私がお部屋に飾ろうか」
そのまま話題は変わり、
二人は何事もなかったように歩いていく。
私は帳簿に視線を戻した。
胸の奥にかすかな引っかかりが残る。
昼前、夫が執務室に入ってきた。
「レディ・エレンのことなんだが」
私は顔を上げた。
「ええ」
「もうしばらく、このままでいいと思う」
その言い方は相談ではなく、確認でもなかった。
「そうですか」
私はそれだけ答えた。
夫は安心したように微笑み、
それ以上何も言わなかった。
期限はやはり示されなかった。
昼食の席で、
エレンは自然に夫の向かいに座った。
それまで席は固定されていなかった。
だが誰も「違う」と言わなかった。
彼女は料理に手をつける前に言った。
「夫人、ありがとうございます。
毎日とても落ち着いて過ごせています」
その言葉は丁寧で感謝を示していた。
私は微笑み頷いた。
それ以上、何も言う必要はなかった。
午後、侍女が私のもとへ来た。
「奥様、お客様のお部屋ですが……」
「何か?」
「南の部屋の方が日当たりが良く、
静養には適していると旦那様が」
私は少し考えた。
確かにその部屋は空いている。
本来は来客用ではないが、
使ってはいけない理由もない。
だが家族のエリアで、そして夫の隣の部屋だ。
夫婦の寝室にも近い。
「移してさしあげて」
否やとは言えなかった。
その日のうちにエレンは部屋を移った。
夕方、息子が私のもとへ来た。
「エレン様がね、僕に本をくれたの」
「そう」
「面白かった。前から読みたかった本だったんだ」
それだけ言って、
彼は部屋を出ていった。
その背中はどこか軽やかだった。
夜、廊下を歩いていると、
エレンの部屋から灯りが漏れていた。
中から、夫とエレンの声が聞こえる。
深刻な調子ではない。
懐かしい話をしているようだった。
私は立ち止まらなかった。
その夜、エレンは「客」ではなくなった。
誰かが宣言したわけではない。
紙に書かれたわけでもない。
ただ、
彼女がそこにいることが、
自然になっただけだ。
翌朝、使用人は彼女を
「エレン様」と呼んだ。
それを誰も訂正しなかった。




