夜の音楽室
「やっぱやめようよ明美」
「ここまで来て何言ってるのよ」
私と明美は深夜に木造の小学校の校舎へとやってきていた。
裏庭のフェンスを乗り越えようとまたがっている明美が私を見下ろす。
「小学生最後の夏に肝試ししたいって言ったのは真弓でしょ?」
「そうだけど……もしばれたら怒られちゃうよ」
「大丈夫だよ。こんな夜遅くに小学校に来る人なんていないよ」
フェンスにまたがっていた明美はひょいっと敷地側へと飛び降りた。
「ほらっ、真弓も早く」
「もう、分かったよ。もしばれたら明美のせいなんだからね」
私はフェンスの網目に足をかけて登りゆっくりとまたがった。
「あっ、イチゴパンツだ。可愛いね」
「もうっ、見ないでよ」
急いで向こう側へと飛び降りた。
フェンスを越えただけなのに、ひんやりと温度が下がった気がした。
「ごめんごめん。でも、私のも見たでしょ?」
「うん。黒色だったね。フェンス超えるときはスカートだと見えちゃうよ」
「やだ、真弓のエッチ」
「ふふふ」
「あはは」
二人して向かい合って笑った。
「それじゃ行こうか」
明美が先導するように校舎の裏庭を歩き出した。
二人して体を前に倒して少しでも外から見えないような姿勢になる。
忍者になったみたいでなんだか楽しくなってきた。
「ついた。ここだ」
「本当に開いてるの?」
「保険の先生はちょっと抜けてるから」
明美は保健室の窓に手をかけてゆっくりと開く。
鍵はかかっていないみたいだ。
「じゃあ、靴はビニール袋に入れてね」
「うん」
二人は持ってきていたビニール袋に外履きを入れる。
「真弓の靴下もイチゴ柄だ。合わせてるの?おしゃれだ」
「明美もじゃん。真っ黒」
「黒色好きなんだよね」
明美は黒のシャツに黒いフリル付きスカートを見せつけるように一回転する。
「すっごく可愛い!黒似合ってる」
「真弓も白のワンピース可愛いね。清楚って感じ」
「うふふ」
「あはは」
お互いの服装を褒めて笑いあう。
そして順番に窓枠に足をかけて校舎に侵入することに成功した。
床に着地した瞬間アルコールの匂いで鼻がツンとする。
「うわっ、保健室の匂いだ」
「当たり前だよ。ここ保健室だし」
「靴はここに置いていこ。持って歩くの面倒だし」
「うん」
窓の下に外履きを入れたビニール袋を置いた。
中は月明りが照らすだけで真っ暗。窓を閉めると虫の音すら聞こえないぐらいの静寂になる。
「明美、私のそばから離れないでね。暗いの苦手だから」
「えー、どうしよっかな~」
「もうっ!お願いだから」
「分かったよ。じゃあ手つなご」
私は差し出された明美の手を取った。
「目的地は幽霊が出ると噂の三階の音楽室!」
「本当にいたらどうする?警察に通報する?」
「そんなことしたら私たちが怒られちゃうよ」
「あっ、それもそうかぁ」
ゆっくりと二人並んで歩き、廊下に繋がる横開きの白いドアを開けた。
月明りが差し込む暗い廊下に非常ベルの赤いランプが不気味に光っている。
「なんか雰囲気あるね」
「うん……」
私は明美の腕にしがみつく。
「もう真弓は怖がりなんだから」
「でも、わくわくもしてる」
「あはは、私もそれは同じ」
保健室の前を通り過ぎて、階段を上る。
「こんな話知ってる?真夜中の学校で階段を上っていると、いつまでたっても上の階にたどり着かないの」
明美は踊り場で立ち止まり怪談を始めた。
「ちょっと、やめてよ。ここでそんな怪談話はしゃれになってないよ」
「あはは、そんな怖い顔しないでよ」
二階に近づくにつれて、ぽちょん、ぽちょんと蛇口から水がこぼれる音が洗面台から聞こえてきた。
「ねぇ、明美。誰かが蛇口閉め忘れたのかな?」
「幽霊が密かに住み着いてるのかも」
暗い階段を一歩ずつ慎重に歩き、階段そばにある洗面台に向かうとやはり蛇口から水がこぼれていた。
私は急いでハンドルを回すと水が完全に止まった。
「もう、びっくりした。ちゃんと先生達には学校出るとき閉まってるか確認してほしいよね」
「あはは、でも、言っちゃだめだよ?なんで知ってるのか聞かれちゃうから」
私はあわてて口を押えた。
明日学校ついたら注意してやろうと考えていたからだ。
「ほんと真弓は分かりやすいんだから」
「ごめん」
「真面目なのはいいことだよ」
「ありがとう」
「あはは」
「うふふ」
緊張が緩んだら尿意を催してきた。
「ねぇ、明美。トイレ行きたくなっちゃった」
「え?じゃあ、私は外で待ってるね」
「一緒に来てよ」
「個室までなんて言わないでよ?」
「そこまではいいよ。個室の外で待っててくれたらいいから」
「しょうがないな」
近くにある女子トイレに私と明美は一緒に入った。
「じゃあ、待っててね」
「はい、はい」
鍵はかけずに個室に入り便器に座った。
「あれ?なんか暖かいような」
学校のトイレは家にあるのと違って便座ヒーターが付いていないタイプのやつなので冬はつらい。
同じ不満を抱えた女子達で校長先生にトイレの改善を頼み込んだことがあったが結局叶わなかった。
「ん?夏だからじゃない?」
外から明美に指摘される。
「そうなのかな?」
「ねえ、私ちょっと外見てくるね」
「え?なんで?」
「うーん……、何か足音が聞こえた気がして」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ」
「あはは。すぐに戻るよ」
個室の隙間から覗いていた明美の足が見えなくなって急に心細くなった。
次第に足音も遠ざかっていく。
こういうときに限って、おしっこが止まってくれない。
「明美いる?……ねぇ、明美?返事してよ」
静寂が怖くて大声で名前を呼んだのに返事は返ってこなかった。
「ちょっと、聞こえてるんでしょ?本気で怒るよ?明美っ!」
怖くなって叫んでも返事はなかった。
「もうっ」
私はトイレットペーパーをカラカラと慌ただしく取り、拭いてから水を流した。
そして扉を開けると、つるっと滑って転んでしまった。
「痛ったぁ……」
今は内履きじゃなくて靴下だから滑りやすいんだ。
気を付けないと。
「え?」
女子トイレから廊下に出ても明美の姿はなかった。
「ねぇ!本当にいい加減にして!このまま隠れる続けるなら絶交するからっ!」
私は思わず絶交カードを切った。
明美はたまに悪ふざけすることもあるけど、絶交するっていうと最後には謝ってくれる。
なのに、いつまでたっても明美の声は返ってこなかった。
タンッタンッ。
三階に向かう階段から足音が聞こえてきた。
「ねぇ!出てこないなら私もう帰るよ!」
二階の階段から叫んでも自分の声が反響して聞こえてくるだけで、だんだんといらいらしてきた。
こうなったら逆に明美を脅かしてやる。
怒りが恐怖を上回り私は大胆にも真っ暗な階段を一人で歩き始めた。
三階にたどり着くと音楽室のある方向からピアノの音が聞こえだす。
……ダー……ダー……。
「ピアノ?明美が引いてるの?」
……タタタ……テンテテン……。
音楽の授業でよく聞く曲。
確かベートーベンの月光って言ったっけ。
いつのまに明美はピアノ弾けるようになってたんだろう。
「分かった。私に聞かせたかったんでしょ!」
返事は返ってこないけど明美がそこにいると分かると怖くない。
こっそり練習していて、肝試しで驚かせようとしていたんだ。
……テテテン……テテテン……
月明りと非常ベルの赤い光だけが照らす廊下を曲がり、オープンスペースに出た。
「あれ?」
音楽室へと続く廊下の前で黒いフリルスカートが落ちている。
急いで近づくと明美が着ていたものと同じだった。
「ちょっと明美?なんでスカート脱いでるの?」
スカートを拾い、音楽室に続く廊下に視線を向けると落ちているのはスカートだけではなかった。
音楽室から遠い順に黒いシャツ、黒いパンツ。そして、少し開いた横開きのドアの向こうには黒い靴下も落ちている。
「え?えっ!明美!もしかして今裸になってるの!」
いくら誰もいないからって大胆すぎるよ。
いつの間にかピアノの音も止まっている。
「ねぇ、そろそろ返事してよ」
黒いシャツを拾って一歩近づく、黒いパンツも拾ってシャツの上に置く。
「明美?」
音楽室のドアまで来たところで、人の影が見えた。
「はぁ、もう私本当に怖かったんだか……ら……」
開いた横開きのドアの向こうには黒いピアノカバーの布を被った何かが動いてこちらに向かってきた。
私が見上げるほどの背の高さ。
間違いなく明美じゃない。
わずかにのぞく裸足は私の何倍も大きかった。
「きゃあああああああああ」
叫ぶとピアノカバーの布を被った何かも勢いよく近づいてきた。
手に持った明美の服を投げると、シャツに足を滑らせて何かが転んだ。
私も必死に廊下を走る、走る、走る。
「わっ」
靴下で滑って転んでしまった。
ピアノカバーの布を被った何かがその隙に距離を縮めてきた。
「来るなっ!来るなっ!」
私はイチゴ柄の靴下を脱いでそれを投げた。
これで滑らないはず!
もう頭の中は逃げることでいっぱいだ。
走る、走る、走る、走る。
階段を一段飛ばし、二段飛ばし、三段飛ばし。
保健室の窓を開けて、置いてある外履きを履いて外に転がるように飛び出た。
「はぁ、はぁ」
恐る恐る保健室の中を見ると、ピアノカバーの化け物はいなかった。
「あっ、明美大丈夫かな」
恐怖ですっかり明美のことが頭から抜け落ちていた。
でも、自業自得だよね。
途中でいなくなるほうが悪いんだから。
「明日学校で怒ってやるんだから。絶対許してあげない」
そうして私はフェンスを乗り越えて帰路についた。
次の日の朝のホームルームの時間。
私は席に座って明美が来るのを待っていたけどいつまでたっても登校してこなかった。
「はい、みんな席について。点呼を始めるぞ」
担任の杉吉先生が教室に入ってきた。
「ねえ真弓、杉吉先生ってかっこいいよね」
隣の席の美緒が顔を赤くして話かけてくる。
「うん、今年から入ってきた新しい先生だよね?」
「そう、大学卒業したばっかなんだって」
「へぇ~」
「なんでも音楽の大学に通っていたらしくてピアノが得意みたいよ。私も教えてもらいたいな」
「ふ~ん、そうなんだ」
私はあまり年上には興味ないので美緒の話を適当に聞き相槌を打った。
今になって昨日明美を置いていったことに罪悪感で胸が締め付けられる。
「え~、次は宮下。宮下明美。いないのか?」
ちゃんと無事に帰れたんだろうか。
てか、冷静に考えて学校で裸になるのはどうかと思う。
「三浦。三浦真弓」
「は、はいっ」
「この後、話があるからついてこい」
「分かりました」
ホームルームが終わり、私は杉吉先生と一緒に三階の音楽室に来た。
「あの、話ってなんですか?」
「ここまで来れば大丈夫か」
人の気配のない音楽室で杉吉先生は振り返りポケットから白いイチゴ柄の靴下を出した。
「これ、三浦のだろ?だめじゃないか、靴下を学校に忘れちゃ」
「あっ、それ昨日の……」
「ん?」
その靴下は昨日幽霊に向かって投げたやつと言いかけて私は口を両手で押えた。
危なかった。昨日の夜、学校に忍び込んだことがばれたら大変だ。
「いえっ!何でもないです。靴下ありがとうございます」
「まったく、来年から中学生だろ?もう子供じゃないんだ。そもそも学校で靴下を脱ぐものじゃない」
「は、はい……。気を付けます」
「ああ、それ汚かったから洗濯しておいたぞ」
「え?」
渡された靴下を見ると確かに、アイロンまでかけられ綺麗に整えられていた。
汚いと言われたのはちょっとショックだったけど……。
それにしても、学校を靴下で歩いただけでそんな汚くなるものだろうか。
「わざわざありがとうございます」
「では戻っていいぞ」
「はい。失礼します」
音楽室のドアを閉めて教室に戻る途中ふと疑問が湧いてきた。
どうして白いイチゴ柄の靴下が私のだって分かったんだろう。
普段から履いている靴下ではあるけど、これ、イチゴ柄が入っているのは足の甲の部分だけで外から見たらただの白い靴下なのに。