ない
都心の裏通りに佇むその店は、一見すると普通のストリート系の服屋だった。
外観は無機質なコンクリート壁にグラフィティが描かれ、入り口の扉はいつも少しだけ開いている。
店内は広くないが、ディスプレイに並ぶアイテムはどれも尖ったデザインで、独自の存在感を放っていた。けれど、この店にはひとつ奇妙な特徴があった。それは、いつも品切れ状態だということ。
「すみません、このシャツ、まだ在庫ありますか?」
若い客が、無造作に並べられたシャツの前で質問する。
だが、その瞬間、店員の口元に不気味な微笑が浮かぶ。
「ないっすね。」
返答はまるで準備されていたかのように、滑らかで自信に満ちていた。
客は一瞬、がっかりしたような表情を見せたが、店員の冷ややかで、それでいて楽しそうな態度に少し困惑した様子で頭を下げ、店を後にする。
彼が店から出ると同時に、店員の一人、リョウがカウンター越しに他の店員たちに向かってニヤリと笑った。
「また言ったぜ、『ないっすね』ってな。あの反応、最高じゃねぇか?」
リョウの言葉に、他の店員たちはクスクスと笑いをこぼす。
彼らにとって、客に「ない」と告げることは、まるで日常の儀式のようなものだった。
この店には、人気のアイテムが全て揃っているというのが都市伝説のように語られているが、実際に手に入れた者はほとんどいない。
「お前、あの瞬間の顔、見ただろ? あの『え、ホントにないの?』って表情…たまんねぇな。」
別の店員、マサも同じようにニヤつきながら言った。
店員たちにとって、「ない」という返答は単なる在庫切れの知らせではなかった。
それは、彼らの価値観が反映された、一種の芸術だった。
彼らは、あえて人気アイテムを提供しないことで、店の希少性を高め、さらに客を惹きつけるという逆説的な方法を楽しんでいたのだ。
「客はな、手に入らねぇからこそ欲しがるんだよ。」
リョウはタバコに火をつけ、軽く煙を吹き出す。
「あの瞬間、俺らが作ってるんだよ、欲望ってやつをさ。」
客に商品を売るのが普通の商売だ。しかし、この店では、商品を売らないことがむしろ客の期待を煽り、店の価値を高める手段だった。
店の前には、長蛇の列ができていた。
あらゆる客がその店でしか手に入らないレアアイテムを求めて並んでいる。
エリシアは、その中で堂々と立っていた。
「まぁ、何がそんなに特別なのかしら?」
彼女は優雅に微笑みながら、時間を潰すようにタバコを一服。
それは奇跡的なタイミングだった。
並んでいる客たちが急にざわめきだし、ドアが開かれると同時にエリシアは最前列を確保した。
ほかの客が驚いた顔で彼女を見ているが、エリシアは気にも留めない。自分が特別扱いされるのは当然のことだという態度だ。
店内に入ると、いつものように無機質な空気が漂っていた。エリシアはカウンターに向かい、無表情の店員を見つめた。
「さて、お願いしたいのは…」
彼女は一瞬の間をおいて、カウンターに陳列されている不人気アイテム――誰も見向きもしない地味なTシャツを指差した。
「これ、頂けますか?」
店員のリョウは、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「…あれでいいんですか?」
エリシアは優雅に頷いた。
「ええ、それが欲しいんですの。」
リョウは戸惑いながらも、再度確認する。
「本当にそれでいいんですか? もっと人気のアイテムが欲しいんじゃないんですか?」
エリシアは微笑みを絶やさず、頷き続ける。
「もちろん、これで構いませんわ。」
リョウの笑みは少し引きつった。彼はいつもと違う感覚に苛まれていた。いつもの「ない」という返答が、ここでは使えないという状況に、奇妙な居心地の悪さを感じていた。
「…あの、それでいいんですか?」
「ええ、間違いなく。それを頂きますわ。」
リョウは不安そうにTシャツを手に取り、エリシアに渡そうとしたが、まだ最後の確認をした。
「いや、本当にそれでいいんですか? 他にもっと――」
エリシアは彼の言葉を遮り、にっこりと笑った。
「ないんでしょう? なら、これがあるという奇跡を楽しみましょう。さあ、渡しなさい。」
リョウは動揺しながらも、Tシャツをエリシアに手渡す。手が震えているのが自分でもわかる。
エリシアはTシャツを優雅に受け取ると、ふっと笑いながらつぶやいた。
「さあ、今の気分はどうかしら? ないと言えない貴方の顔、なかなか面白かったですわ。」
リョウは何も言えなかった。彼女が去った後、店の中にはただ静寂だけが残っていた。
エリシアは、手にした不人気アイテムを軽く撫でながら、店内を優雅に歩き回った。
その動きはまるで舞台上の女優のようで、どこか気品を感じさせる。それでも彼女の目には、他の客たちが欲望にまみれて店内を見回す姿が滑稽に映っていた。
やがて、彼女はカウンターの近くに立ち止まり、店内を冷ややかに見渡すと、不意に笑いがこみ上げてきた。
「ふふっ…。」
その笑いは次第に大きくなり、周囲の視線が彼女に集中する。
エリシアは、構わずそのままタバコを一服し、深く息を吸い込む。
そして次の瞬間、まるで舞台の主役がセリフを放つかのように、エリシアは突然、行列に向かって叫び声を上げた。
「ボックスロゴTはありませんわよおおぉおおぉ!!」
店内の客たちが一斉に振り返り、呆然と彼女を見つめる。行列の外にまでその声は響き渡り、ざわついていた外の群衆も耳を疑うかのように凍りついた。
エリシアはその反応を楽しむかのように、満足げに微笑みながら、さらに声を張り上げた。
「あと、限定コラボのフーディも置いてませんわよおおぉおぉ!!」
その瞬間、店の中が静まり返った。
皆が待ち望んでいた「限定品」が「ない」と宣告された瞬間、まるで全員が呆気に取られたかのようだった。顔を青ざめた客、苛立ちを隠せない者たち、そして困惑する店員たち。
店員のリョウは、ついにエリシアの意図を理解し、苛立ちと驚きが混じった声を上げた。
「おい、何やってんだよ!?」
エリシアは振り返り、リョウに冷ややかな視線を投げかけた。まるで子供の悪戯が成功した後の満足感を漂わせながら、ゆっくりと微笑んだ。
「私が言ってあげたのよ、ないとね。あなたたちの代わりに。」
その言葉に、店員も客も何も言い返せなかった。




