気高い生物
アルセール大陸。
ルクレシア王国とフィレット教国の国境付近、険しい山々が連なる静かな一帯にて——
——パカラ!パカラ!パカラ!
岩場と草地を軽やかに駆け抜ける蹄音が、山肌に反響している。
やがてその音は一際高く、力強く――
——ヒッヒイイイイん!!
空へと突き抜けるような嘶き。
野山を駆けるのは、一頭の大きな馬だった。
その名は、スレイプニル。
体高は人の背丈よりも遥かに高く、全身に光沢を持つ灰色の毛並み。風を裂くように伸びたたてがみと尾が、日光を受けて銀のように輝いていた。
鼻腔をふくらませ、息を吐くたびに白い霧が広がる。
だがその姿には、猛りや重々しさではなく、どこかしら優雅で気高いものがあった。
その身に鞍も手綱もなく、背には誰も乗せていない。
山を、空を、ただ己の本能と四肢の力だけで駆け抜けている。
束縛の気配は微塵もない。
まるで風そのものになったかのように、スレイプニルは谷を渡り、尾根を蹴り、空気の裂け目を走っていく。
その姿を、遠くの山陰から一羽の鷹が静かに見下ろしていた。
スレイプニルは、川のせせらぎへと歩み寄った。
太陽の光を浴びて煌めく水面に、その大きな蹄をそっと踏み入れる。
——ひひいいいぃん!
一声、気持ちよさそうに嘶くと、そのまま前脚を沈め、全身を川へと浸した。水飛沫が空へ舞い上がり、太陽の光を受けて七色の粒となって降り注ぐ。
——ぶるるるぅ!
頭を左右に揺らし、尾をふるわせて身体を揺すった。
水滴が四方へ飛び散り、川岸の草を濡らす。
濡れた毛並みはより一層滑らかに光り、しなやかに張った筋肉がその下から浮かび上がる。それはまるで、鋼のようでありながら、しなやかな絹を纏った獣のようでもあった。
その場にいた小動物たちは、気配を察してすぐに茂みへと隠れた。鹿も、狼も、鳥たちでさえ、スレイプニルの気配を感じた瞬間に距離を取る。
誰もが本能で悟っていた。
この川の主は、もはや“ただの馬”ではない。
神話と自然が混ざり合ったような、強さと孤高の象徴。
水面を蹴り上げ、川の中央で静かに佇むスレイプニルの姿は、あまりにも堂々としていた。
——ヒヒイイイィイン!
空に向かって響く一声。
風が一瞬止まり、周囲の木々がざわりと揺れる。
スレイプニルは、川辺を離れたあと、ひとけのない草地へ移動していた。
太陽が緩やかに傾きかけ、空に金の縁取りがかかりはじめる中、彼は静かに頭を垂れ、草を食む。
——もしゃ……もしゃ……
重々しい嘶きも、荒々しい走りもそこにはない。
ただ、土の香りと草の甘みを静かに味わう、草食動物としての営みがあるだけだった。
そう、スレイプニルとて馬。
いかに伝説の存在であろうと、本質は草を食む四足の命に過ぎない。
王国の命令も、宗教国家の陰謀も、帝国の戦略も、彼には関係がない。貨幣も階級も取引書類も、彼にとっては音の無い風と同じ。
ただ、生きて、走って、空気を裂いて、草を食み、水を飲む。
それだけの存在。
それだけで完結している。
その背に誰かを乗せることもなく、鞍も手綱もつけず、ただひとりで大地を生きるその姿は、人間にとっては、自由そのもののように見えた。
——という光景を、丘の上から見下ろしている者がいた。
エリシア。
三角座りで地面にちょこんと座り、顎を膝に乗せて、じーっと谷間のスレイプニルを見つめている。
「あぁ、なんと気高い生き物ですこと……」
溜め息まじりに呟くと、すっと立ち上がって振り返った。
「あなたもそう思うでしょ?」
「うるさい!黙れ!」
急に罵声が返ってくる。
見れば、エリシアの正面には勇者パーティ一行が陣を構えていた。
が、なぜか彼女から妙に遠い。ちょっと声を張らないと会話にならないくらいの距離。
しかもその場でウロウロしたり、指を突き上げたりして騒いでいる。
「さあスレイプニル!この悪徳魔術師を打ち倒せ!!」
彼らの背後には、一頭の巨大な馬――スレイプニル。
彼らが誇る最強の召喚獣。勇者パーティの切り札。……のはずだった。
だが。
——ヒッヒいいいいん!!
スレイプニルは遠く離れた川辺で、草をむしゃむしゃと食べていた。
たまに水を蹴って遊んだり、くるくる回ったりしている。
日が高くなってからずっと、野山を駆け回り、水浴びして、草を食べて、ヒヒーンしてるだけである。
「おい!スレイプニル!!」
「何やってんだ早くこの悪しき魔術師を!」
「スレイプニル、命令だ!突撃だ!今すぐだ!」
叫ぶ勇者たち。
しかし、スレイプニルはというと――
——ぶるるるぅ!
ちょっと鼻を鳴らして、また水辺で前脚をちゃぷちゃぷさせていた。
フル無視。全力無視。召喚術師の指示も空気扱い。
エリシアは少しだけ首を傾げて、それから肩をすくめた。
そして何も言わず、トコトコとその場を離れ、どこかへ歩いていった。
勇者パーティは遠くでわあわあ言い続けていた。
スレイプニルは草を食べていた。
エリシアは、興味を失った顔で帰り道を探していた。




