2つの選択肢
アルセール大陸の片隅に位置する小国。
その王城の地下深く、湿り気を帯びた石壁が冷たい光を鈍く返していた。
外では夜の帳が降り、城下町の明かりが次々と消えていく。地上の人々が眠りに沈む頃、地下では別の鼓動が高鳴っていた。
――ゴゴゴゴゴ……
低い唸りと共に、床に描かれた巨大な魔法陣が紫の光を放ち始める。魔術師たちは輪の外に立ち、震える指先で魔力を注ぎ込んでいた。額には汗が滲み、ひとりは祈るように呟きを漏らす。
「陛下、これより……後戻りは叶いませぬ」
国王は黙して頷いた。薄闇の中で、その顔に宿るのは焦燥と野心の入り混じった光。彼の目の前で、魔法陣の中心に置かれた黒い石板が、まるで息を吹き返すように振動している。
これは、禁じられた術。
ゾーク帝国の奥深くに封印され、閲覧さえ許されぬ禁書を、密やかな取引によって手に入れたのだ。その書にはこう記されていた。
“災厄の魔術師”を呼び戻す儀式。
古の時代、大陸全土を恐怖に沈めた存在。魔族との戦争では地を裂き、山を崩し、千の魔を一息で灰に変えたという。その名は歴史から消されたが、恐怖の伝承だけが残り、人々の心に影を落としている。
国王は静かに目を閉じた。貧困は広がり、国庫は枯渇し、隣国は鉄と科学で繁栄を極めている。民の不満は募り、王家の権威は風前の灯。もはや手段を選ぶ余地などなかった。
「伝説の知恵を、我らの手に」
誰かが呟く。
古文書にはこうも記されていた。
――その魔術師、知略において万人を凌駕し、王をも動かす宰相として国を支配せり。
魔術師であり、政治家でもあった。
もしその頭脳をこの世に呼び戻すことができれば、もはや大陸の覇権は夢ではない。
そして今、光は頂点に達した。
魔法陣の紋様が灼けつくような輝きを放ち、空気が震え、天井の石片がぱらぱらと落ちる。
王は、光に焼かれたように目を細めた。
「……!?」
視界の中心、魔法陣の上空に、それはあった。
眩い白光が球状に収束し、ゆらゆらと浮かんでいる。
表面は水面のように波打ち、中心から放たれる脈動は、生き物の鼓動に似ていた。
空気が重い。息が詰まる。
光の球が発する「存在感」が、この地下のすべてを支配していた。
――のか。
「……?」
王の肩がわずかに跳ねた。
耳ではない。脳の奥、思考の中心に直接、何かが滑り込んできた。
――我、召喚せし者、汝か。
その声は奇妙だった。
男とも女とも判別できない。いや、それ以前に「声」という概念をなぞる何かでしかない。だが不思議なことに、耳で聞くよりも遥かに明瞭で、意味が刃のように脳髄を貫いてくる。
周囲の魔術師たちは、恐怖に固まっていた。
体が、まるで鉛のように動かない。
ただ一人、王だけが声を絞り出す。
「わ、私め……にございます……」
喉が焼けるように痛い。
それでも、言葉を止めることはできなかった。
この機を逃せば、国も、王家も終わる。
王は息を整え、必死に訴えた。
「この召喚……決して、我らの私利私欲によるものではございませぬ。これ正に、この国に生きる民のために!」
その声はかすれていたが、確かな熱を帯びていた。
民の貧困、飢餓、隣国の圧力。あらゆる現実を必死に並べ立てる。
「どうか……知恵を、力をお貸しくだされ……!」
その瞬間、光の球がゆっくりと脈打った。
まるで、笑っているかのように。
光の球が、わずかに明滅した。
地下室の空気がさらに冷え、魔術師たちの吐息が白く染まる。
――選べ。
頭の中に、二つの像が浮かんだ。
一人は、正装に身を包み、冷たいが誠実な瞳を持つ「真面目で正直な宰相」。
もう一人は、寝癖をつけたまま椅子にふんぞり返り、笑ってごまかすような「怠け者で平気で嘘をつく宰相」。
どちらも幻のようにぼやけながらも、確かに存在感を放っていた。
――汝、この中から選ぶのですの……じゃなくて……選び給え。
微妙に語尾を間違えたような、しかし訂正するあたりが妙に人間臭い。
王と魔術師たちは、一瞬ぽかんとした。
「……」
――ゴクリ。
沈黙が続く。
王の喉が鳴る音だけが、重苦しい空気に響いた。
(な、何だこの選択肢は……)
王は内心で叫んだ。
正直な宰相と嘘つきの宰相。
普通に考えれば、答えは一つだ。
(泉の女神の例を思い出せ……正直な者に金の斧が授けられる……)
(舌切り雀もそうだ……欲をかかぬ者こそ報われる……)
つまりこの光の球は「誠実さ」を見ている。
そうに違いない。
(もしここで“怠け者で嘘をつく宰相”などと答えれば……試練に落ちる……!)
王は額に汗を浮かべながら、ちらりと周囲を見渡す。
誰もが同じ考えを抱いているようで、固唾を飲み、光の球を見上げていた。
(よし……ならば、答えはひとつだ……!)
王は唇を結び、覚悟を決めた。
それから数日後。
朝靄の晴れた王城のバルコニー。
眼下には、赤茶けた屋根が並ぶ城下町が広がっている。人々の生活の音が微かに届くが、それは遠く霞んだ、まるで他国の出来事のような穏やかさだった。
王は欄干に手をかけ、ゆっくりと息を吐いた。
その隣に立つのは召喚の果てに現れた「正直宰相」。
眼鏡の奥に光る瞳は冷たく、髪は一糸乱れず整っている。
きちんと仕立てられたスーツの襟元を正し、彼は礼儀正しく王に一礼した。
「宰相よ」
王は重く、静かに問いかけた。
「お主は、どのような政治を敷く?」
「はい。お話しましょう」
宰相の声は澄んでいた。どこまでも真っ直ぐで、迷いの欠片もない。
「調査の結果、この国の幸福度は低い水準にあります」
「ふむ」
王は頷いた。彼の言葉には、理があるように思えた。
「根本的な原因は“格差”でございます。各地の領主や豪商だけが富を独占し、民には潤いが行き渡っておりません」
「であろうな」
王は唸る。的を射ている。
宰相は一歩前に出て、窓の外を指さした。
「ですので、この格差を排除せねばなりません」
「どのように行うのだ?」
「そもそも、自身の幸福度を低く評価するのは知識層の傾向です」
「……?」
「ゆえに、知識層は全て排除せねばなりません」
「……」
「この国を動かしているのは国王陛下、そして我々です。それで十分です」
「……」
「まず、各地の集落に住む民を追い出し、すべてをこの城下町で管理します」
「……」
「地主と豪商は粛清。その財産は国が管理し、民に再分配します」
「……」
「子供に教育は不要です。ペンと紙を扱うのは、我々だけで十分です」
「……」
「異議を唱える知識層は、全て不要です」
宰相の声は冷たいが、熱を帯びていた。
彼は信じている。心の底から。
この政策こそが「民の幸福」だと。
王は横目でその横顔を見た。
沈みゆく夕陽の光が宰相の頬を照らし、黄金色の輪郭を描く。
その顔には、一片の偽りもなかった。
――正直者の顔だった。
「まず……図書館を焼き討ちにして……」
「いや、もうよい……さがっておれ」
王の声は乾いていた。
「はっ。私めは今後の政策を練ってまいります」
「……」
――バタン。
扉が閉まる音が、やけに長く響いた。
王は一人、沈む陽を見つめた。
風が吹き、焦げたような空気の匂いがほんのりと混じっていた。
その後。
夜は深く、月すら雲の向こうに隠れていた。
王城の地下室。
再び魔法陣が描かれ、周囲には疲弊しきった宮廷魔術師たちが立ち尽くしていた。
彼らの顔には隈が浮かび、指先は震えている。それでも、王の命に背くことはできない。
――ゴゴゴゴゴ……
光が走る。
床の紋様が眩しく輝き、先日と同じ震動が室内を包む。
――汝、我を呼んだか。
重い声が、再び頭の中に響く。
声ではない、圧だ。思考を直に叩きつけられるような、圧倒的存在感。
「はっ、私めにございます」
王は両膝をつき、深々と頭を垂れた。
――なにゆえ、2度も召喚しましたの?
わずかに間延びしたような、あきれ気味の調子。
光の球がぷかぷかと揺れている。
「やっぱ……返品……」
――えぇ!? 返品!?
球体の輝きが一瞬、明滅した。まるで「理解不能」と言わんばかりに。
「嘘つきの……方でお願いします」
沈黙。
魔術師たちが顔を見合わせる。
その後、光の球がゆっくりと回転しながらため息のような波動を放った。
――くっそだる。まあ良いですわ。
どこか投げやりな響き。
魔法陣の光が再び強まり、空間が歪む。
王は思わず頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
数日後。
夕陽が西の山々へ沈みかけ、城下町が赤金色に染まっていた。
子供の笑い声、商人の呼び声、遠くの工事現場から響く金槌の音。
そのすべてが、王の部屋の窓辺で、まるで別世界のように静まり返っていた。
王は欄干にもたれ、煙る街を見下ろす。
隣には召喚された「嘘つき宰相」
彼は玉座の間にふさわしくない格好で立っていた。
ガルフィーのジャージ。胸元には謎の虎の刺繍。
手にはECHOの煙草を持ち、口ではガムをクッチャクッチャ噛み続けている。
「宰相よ」
「なんでしょうか」
――クッチャクッチャクッチャクッチャ。
「お主は、どのような政治を敷く?」
宰相は、煙を吐きながら、実に気だるそうに口を開いた。
「この国を調べましたよ」
「ふむ」
「建設業従事者が増えてますね」
「そうか」
「たぶんね、頭悪くてもキャリアなくても、とにかく人手が欲しい状況なんですよ」
「……」
「だからマニフェストを掲げましょうよ」
「どんな?」
「就職率アップ。これっすね」
「……」
宰相はポケットから手を出し、タバコを灰皿にトントンと叩いた。
「マニフェストなんかねぇ、“そのうち絶対できること”だけ挙げときゃいいんすよ」
「……」
「で、数年後に“偶然できたら”――民衆は『うわ!マジで達成した!王様すげえ!』ってなりますから」
「……」
「あと、それに合わせて国が運営する“雇用保険の導入義務化”も進めましょう」
「ほう」
「金がどんどん溜まりますよ〜」
「ふむ」
「で、その金をちょっとだけ返すんです」
「なぜ?」
「え?そりゃ〜“国王が恵みをくださった!”ってなるんで」
「……」
宰相はガムを一度吐き捨て、真面目な顔つきで王に向き直った。
それまでのだるさが嘘のように消え、声だけが妙に誠実だった。
「陛下」
「……?」
「国庫の管理、俺にやらせてください」
「なぜじゃ?」
「俺、十八の頃から銀行員やってて〜、お金の流れには詳しいんです」
「……」
「そうだ、銀行も改革しましょう」
「……?」
「一定以上の貯金がある人には“投資”を勧めるんです。で、預かった金を――俺らで“違う国外の会社”に投資しまくるっていう……」
「……」
王はゆっくりと天を仰いだ。
深紅の空に、まるで嘲るような夕陽が沈んでいく。
遠くから、街の工事音が再び響いた。
――カン。カン。カン。




