離席中
魔界中央区。
かつては火山灰と血の匂いに満ち、筋肉と暴力が支配していたこの地も、今ではすっかり変貌していた。
高層ビルが立ち並び、地上にはタクシーと自動二輪の渋滞。
排気ガスの臭気と、光ファイバー網が放つ青白い光が交錯する、そんな“現代の魔界”だ。
魔王城特務室。
――カタカタ。
――カチカチ。
時刻は10時45分。
部屋の空調は微かに唸り、安っぽい蛍光灯がジリジリと鳴っていた。
デスクの向かい合う二人。
上席には、魔界行政の特務執行官にして、部屋の主――エリシア。
その正面では、巨体を無理やりオフィスチェアに押し込み、受話器を肩に挟むミノタウロス。
「もしもし〜、私、担当のミノタウロスでございますが〜」
低く柔らかい声が部屋に響く。
その体格に似合わぬ丁寧な口調。
まるで電話線の向こうに届くたび、相手が一瞬想像を間違えるほどのギャップがあった。
「中央区浄水施設更新工事の件で……ええ、各種族の……雇用目標値の説明会をですね――」
デスクの上では、彼の分厚い指が不器用に資料をめくる。
反対側のエリシアは、モニターを見つめながら片手でマウスを動かしていた。
「〜♪」
ご機嫌な鼻歌。
小さく、しかしリズムだけは完璧だ。
資料作成、照会、確認、承認。
この時間帯の特務室は、驚くほど穏やかだった。
――カタ、カチ。
――ピッ。
ミノタウロスの電話が終わるとエリシアが立ち上がった。
「ちょっと出かけてきますわね〜」
「はーい」
返事をしながらも、ミノタウロスの目は画面から離れない。
分厚い指でキーボードを叩きながら、顔だけ軽く上げて答える。
「お気をつけて〜」
「〜♪」
軽やかな足取りでデスクを離れるエリシア。
ミニトートバッグを片手に、オフィスを出て行く。
――ガチャ。
静けさが戻った。
ミノタウロスはため息をひとつつき、手元のメールに目を戻した。
日常業務。どこまでも変わらない、特務室の午前だった。
「……」
静まり返った特務室に、エアコンの低い唸りだけが響いていた。
エリシアが出ていったあと、部屋にはミノタウロスひとり。
「ふう……」
背を伸ばして立ち上がる。
分厚い腕をぐるりと回し、肩の関節がミシ、と鳴った。
――ジョボジョボ……
ウォーターサーバーの紙コップに水を注ぐ。
飲み干したあと、何気なく彼女のデスクに目がいった。
――チラッ。
「あれ……?」
いつもなら、外出時にはきっちりログオフされているモニター。
だが今日は、液晶が青白く光っていた。
(珍しいな……)
数秒ほど迷う。
やめておけばいい。そう思うのに、手が勝手に動いた。
――ピッ。
画面にはブラウザが開かれていた。
タイトルバーにはこう表示されている。
*
チーター(学名:Acinonyx jubatus)について
1. 生態 チーターはネコ科の動物で、陸上最速の哺乳類として知られています。
最高時速はおよそ100〜120km/hに達しますが、そのスピードを維持できるのは10〜20秒ほど。これは筋肉内の酸素消費量と体温上昇の限界によるものです。
狩りは主に昼間に行い、ガゼルやインパラなどの中型の草食動物をターゲットにします。
群れをつくらず、母子以外は単独行動が基本。メスは数頭の子を育て、オスは兄弟同士で連合を形成することがあります。
2. 性格・行動特性
チーターはネコ科の中でも温和で、他の大型ネコのように縄張り争いに執着しません。 性格的には非常に慎重で、臆病な面があります。
狩りでも真正面から襲うのではなく、草陰に隠れて距離を詰め、一気にダッシュして仕留めます。
また、他の捕食者との競合に弱く、せっかく捕らえた獲物をハイエナやライオンに奪われることもしばしばです。そのため、常に周囲の警戒を怠らず、食事時間も短い傾向があります。
3. 人間との関わり
古代ではチーターは「王の狩猟の友」として飼われ、訓練されて一緒に狩りを行った記録が残っています。
しかし近代以降、開発や密猟によって生息地が急速に減少。現在では絶滅危惧種に指定されています。保護区や繁殖プログラムによって数はわずかに回復傾向にありますが、遺伝的多様性の低さが深刻な問題です。
4. ペットにした場合
チーターは外見こそ優雅で人懐っこく見えますが、ペットとして飼うのは極めて困難です。
理由は以下の通りです。
法的制限:
多くの国でチーターの飼育は法律で禁止、または特別許可が必要。
環境の問題:
1日の活動範囲は数十kmに及ぶため、広大な敷地が必要。
食費と健康管理:
肉食であり、1日に数kgの生肉を必要とする。心臓疾患や遺伝病のリスクも高い。
実際、富裕層の間ではチーターを「ステータスシンボル」として飼う例があります。
総じて、チーターは「最速の美しき孤高の捕食者」でありながら、環境の変化と人間の影響に最も脆い存在でもあります。 ペットとしてではなく、野生の環境でその本来の姿を守るべき動物といえます。
*
「……チーター……?」
彼は静かにページを読み終えた。
そして、息を止めたまま、そっと後ろを振り返る。
――チラッ。
ドアが半開きのままだ。
廊下から、遠くの足音と、誰かの鼻歌が微かに聞こえる気がする。
(まさか……)
脳裏に浮かぶ一つの推測。
それを打ち消すように、彼は両手で頭を振った。
――ぶんぶん!
(んなこたぁない)
「……」
ウォーターサーバーの紙コップをそっとゴミ箱に投げ入れる。
カラン、と軽い音が響いた。




