がんばれ!ミノタウロス君!
魔界、中央区。
——ざわざわ
——カツコツ……
——パッパアアアァン
人と魔族が入り混じり、雑踏と車の喧噪が途切れることなく押し寄せるメインロード。
青と赤の信号が交互に瞬き、停車と発進を繰り返す車列の間を、Uberの車両が器用に縫うように走り抜けていく。
ここは確かに、魔界の中心。
かつて荒廃し、「力こそ正義」と叫ばれていた時代は影を潜め、十数年のうちに高層ビルと光ファイバーが林立する都市へと変貌を遂げていた。
その発展は歪でありながらも、確かに「魔界の顔」としての存在感を示している。
——カツ……コツ……
石畳を踏み鳴らすような重厚な足音が、雑踏に混じって響いた。
群衆の中でもひときわ目立つ体格の持ち主、ミノタウロス。
無骨な肩と分厚い胸板を揺らしながら、彼は人波を押し分けることなく、しかし自然と周囲の流れを変えながら歩いていく。
その勤務先は魔王城、特務室。
エリシアが室長を務めるその部署において、彼は唯一にして最大の部下であった。
——ピッ
——カチャ
無骨な掌でIDカードをゲートに翳すと、機械音と同時に開閉ロックが外れる。
待ち構えていた警備員が背筋を伸ばし、片手を額に当てて敬礼をした。
「おはようございます」
——カツこつ
——ざわざわ
城内へと足を踏み入れると、そこは種族入り乱れる光景でごった返していた。
大きな書類束を抱え、ヒールをカツカツ鳴らしながら歩くサキュバス。
脚立にのぼり、蛍光灯を器用に交換している小柄なゴブリン。
口に魚をくわえたまま通路を横切る大きな猫。
その辺の壁へ火炎を吹きつけているサラマンダーの姿。
誰も気に留めない。これもまた、魔王城の日常風景である。
——カツ……コツ……
その中を、巨躯のミノタウロスは人混みを割るでもなく、ただ黙々と仕事場へ向かって歩を進める。
自然と周囲のざわめきが遠のき、靴音だけが重く響く。
——チン♪
エレベーターの扉が開いた。
群衆の流れに押し込まれるように彼も中へ乗り込む。
——ゴオオオォ……
「……」
「……」
閉じられた空間。朝の時間帯ゆえ、箱の中は『ぎゅうぎゅう詰め』で身動きも取れない。
牛のように大きな体を持つ彼の存在がひときわ場所を占めているのは言うまでもない。
——牛だけに。
そう思った魔族が何人かいたのかもしれない。
しかし誰一人口には出さず、ただ沈黙と圧迫感だけが支配していた。
——チン♪
重い音を立てて扉が開き、ミノタウロスは無言のまま降り立った。
背後では、押し固められていた乗客たちが解放感に浸り、ほっとしたようなため息を漏らす。
しかし彼にとっては取るに足らない雑音にすぎない。
——カツコツ
石畳の廊下を進む。
目的の部屋までは、もう数歩の距離。
——コツ……
特務室。
魔界の噂好きが「魔王より魔王している」とささやく、エリシアの根城。
だが、その入り口に豪奢な意匠は何ひとつなかった。
質素な鉄製の扉。
そこに掛けられたのは、安っぽいプラスチック製のプレート。
淡々と「特務室」とだけ刻まれている。
しかし、ここが魔界を裏から動かす闇の拠点であることを知る者は多い。
権謀術数も、裏取引も、時には戦乱さえも、すべてはこの一室から仕掛けられていた。
——ガチャ
取っ手をひねり、扉を押し開ける。
今日もまた一日が始まる。
あのエリシアと共に行動し、なお正気を保ち続けられる魔族が、果たしてどれほど存在するだろうか。
少なくとも、ミノタウロスはその数少ない一人であることは間違いなかった。
「おはようご――」
言いかけた声は、すぐに途切れた。
——ガサッ
——ゴソゴソ〜
部屋の奥で、エリシアが身をかがめ、一心不乱に何かを探していた。
背後の棚を開けたり閉めたり、音を立てながら机の下にまで潜り込んでいる。
——キイィ!
——バタン!
戸棚を勢いよく閉める音が響いた。
「……?」
「あれ〜? おっかしいですわねえぇ……」
出勤時間にはまだ余裕がある。
それなのに、彼女はすでに机の周りをイソイソと歩き回っている。
普段なら優雅に紅茶を飲み、エリクサーの市場価格を眺めながら一喜一憂するのが朝の恒例だったはずなのに。
「なにか……お探しで……」
「おっかしいですわねぇ……」
返事をするでもなく、彼女は自分のデスクへ直行し、勢いよく引き出しを開けた。
——ガラッ
——ちゃぽん……
「……」
(ちゃぽん……?)
耳に届いたのは聞き慣れぬ水音。
訝しげに覗き込んだミノタウロスの目に映ったのは、引き出しの中段いっぱいに張られた水。
(み、水……?)
——ゴシゴシ
思わず目を擦る。
たしか、そこはチョコレートやポテチで常にパンパンだったはずだ。
どう見てもお菓子置き場が小さな水槽に化けている。
現実感が追いつかないまま、ミノタウロスは引き出しとエリシアを交互に見比べた。
——クワッ
ばちりと目が合った瞬間、空気が緊張に染まる。
そして彼女は、いきなり声を張り上げた。
「ちょっと!?」
「えぇ!?」
「私のアロワナしらない!?」
「えぇ!?」
アロワナ。
ミノタウロスの脳裏に、ぼんやりと「大きな淡水魚」のイメージが浮かぶ。
しかし、それ以上の知識はない。
(たしか……淡水魚……だっけ?)
こういう場面で中途半端な知識を披露するのは最悪だ。
分からないものは分からない、と即答する。
それこそ、彼女と働くうちに身についた最重要スキル。
「いえ、わかりません」
ほとんど反射のように答えていた。
「あぁ……そう……」
——ガシャ
——チャポ……
彼女は水入りの引き出しを音も立てずに閉めると、何事もなかったかのように踵を返し、部屋を出ていった。
「おっかしいですわねぇ……どこいったのか……」
——カツカツ……コツコツ……
ーーカツ……コツ……
――コツ……
足音が遠ざかる。
やがて廊下に溶けて消えた。
取り残されたミノタウロス。
「……」
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「な、なんで?」
朝一番から不吉な予感しかしない。
彼は静かに無言でタイムカードを押した。




