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魔界ドリーム

 魔界地方都市、ゴブリンの集落。

 そこは痩せた土地に点在する貧しい寒村だった。




 ひとりのゴブリンが、中央区へ出稼ぎに行くための準備をしている。




 戻って来られるのは、早くても一年……いや、二年はかかるだろう。




 ——がさ……ごそ……




 使い古したバックパックに、色褪せたアウターや下着を押し込んでいく。

 どれもホームレスが着ていそうな安物ばかり。

 それでも持っていける衣類は限られている。


 狭い居間の隅には古びたテレビがあり、画面いっぱいにノイズ混じりの映像が流れていた。

 砂嵐の中にかろうじて人物が映り、声も断片的に聞き取れるだけ。




 ——ガチャ……




 土間のようなキッチンでは、妻が桶に溜めた水で皿を洗っている。

 冷たい水に手を浸し、ため息ひとつも漏らさない。

 その横で、子供はじっとテレビを眺めていた。




「……」




 出発前日。




 もっと劇的な会話があるはずだと誰もが思う。

「向こうでも風邪を引かないで」とか、「お母さんの言うことをよく聞くんだぞ」とか。


 しかし現実は、ドラマが描くような情緒を見せない。

 ただ、空気は淡々と流れる。


 静かな緊張感をまといながら、当たり前のように、出発の日が近づいていた。




 ゴブリンの集落から中央区へ向かうには鉄道を使う。




 だが、駅にたどり着くまではバスに揺られねばならない。


 もっとも「シャトルバス」などという洒落たものは存在しない。

 村に一台だけある古びたマイクロバスを使うのだ。


 同じ日に出稼ぎに行く仲間たちが少しずつ謝礼を出し合い、運転を請け負う同族に頼む。

 謝礼といっても大した額ではない。ほんの気持ちばかりである。




 中央区に行くだけで、いくつもの小さな関門を越えねばならない。




 マイクロバスの手配はなんとか済んだ。




 次に彼の頭に浮かんだのは「駅で列車のチケットを取れるかどうか」という不安だった。




 彼は生まれてから、この寒村を出た経験がほとんどない。

 外の世界を知るのは、居間の小さなテレビで流れる、ノイズまみれの映像だけ。

 当然、駅でチケットを買う方法など、村の誰も知らなかった。




「チケットのお金……」




 妻が洗い物の手を止めて、ぽつりとつぶやく。




「ああ、大丈夫だ。足りるはずだ。運転手から聞いたよ」


「そう」




 なけなしのチケット代。

 それでも家計には重くのしかかる。




 当日。




 一家は夜明けとともに起き出し、まだ冷たい空気の中を歩いて、マイクロバスの集合場所へ向かった。




 ——ゾロゾロ……




 すでに出稼ぎ組の仲間たちは集まっていた。

 皆、大きなバックパックを肩から下げ、押し合うようにして順番にバスへ乗り込んでいく。




 ——ガラ……




 ゴブリンもようやく車内の席に腰を下ろした。

 窓の外に立つ家族の姿を目にとめる。


 妻はハンカチで目元を押さえながら、声を張り上げた。




「怪我だけ!怪我だけないように!」


「ああ!わかってる!」




 その横で、子供は頑なに父親と視線を合わせず、横を向いたままだった。




「お母さんの言うこと、よく聞けよ!」




 聞こえているのかどうか、確信はない。

 ただ、子供は小さな手でずっと目を擦っていた。




「着いたら手紙ちょうだい!」




 中央区ではメールやLINEが当たり前になっている。

 それでも、彼らにとって「手紙」という言葉は、自然な通信手段の響きを持っていた。




「わかった!」




 叫んだ瞬間、クラクションが響く。




 ——パン!




 ——プシュウウウゥ……


 ——ブウウウゥン……




 古びたバスがゆっくりと動き出す。

 ゴブリンはそれでも視線を外さず、妻と子供の姿が見えなくなるまで、窓に額を寄せ続けていた。




 駅に着くと、そこはすでに人で埋め尽くされていた。




 地方で唯一の駅だけに、あらゆる種族が一斉に集まり、ごった返す。

 ホームには怒号と荷物の山、汗と排気の匂いが入り混じり、混沌そのものだった。


 看板を頼りにたどり着いたチケット売り場。

 そこには蛇のように長い列が伸びていた。




「割り込まないでください!」


「最後尾はこちらです!」




 ——ザワザワ


 ——ドヨドヨ




 雑踏と混乱の中、ゴブリンも列に加わる。

 前から後ろから押され、息苦しさに耐えながら、ようやく受付窓口に辿り着いた。




「指定席は……?」


「そんなのあるわけないよ〜!とっくに売り切れ!」




 駅員はぶっきらぼうに告げ、迷いもなくチケットを切った。

 結果は自動的に「自由席」。




 自由席、それは「自由」という名を冠した「カオス」だった。




 前から押され、後ろから圧され、左右から潰され、時に上下からも圧力がかかる。

 座席どころか、立つ位置さえもままならない。


 車両の定員など誰も数えていない。

 通路は埋まり、荷物棚にまで人がへばりつき、トイレへ行くのすら命懸け。




 その極限の状況下で、ペットボトルに用を足す……という発想に行き着くのも、もはや珍しいことではなかった。




 ——ガタン……ゴトン……




 列車はゆっくりと、しかし容赦なく揺れ続けていた。




 乗客たちは皆、見窄らしい身なりで、衣服も擦り切れたものばかり。

 汗や泥、獣の匂いに混じって、食べかすや油の臭気までがブレンドされ、もはや鼻は機能を失っていた。


 車両内の熱気は限界を超え、湿った空気が天井に滞留し、まるで雲ができているように見える。

 少し動くだけで全身が蒸され、サウナの中に押し込められているようだった。




「押すなよ!」


「押してねえよ!」


「うっせええなああ!」


「座ってろよ!」


「座れねえの!」




 怒号が四方から飛び交い、車内の騒音に拍車をかける。


 ゴブリンは唯一の荷物であるバックパックを必死に胸に抱きしめ、押し潰されながら耐え続けた。

 駅から中央区までは丸一日。それを、この混沌の中で過ごさねばならない。




 途中の停車駅に着くたびに、窓やドアの隙間から押し売りが雪崩れ込む。

 手にしているのは水のボトルや果物。だが価格は法外。

 それでも、熱気と飢えに晒された乗客たちは買わざるを得なかった。


 同族や同郷の者同士で金を出し合い、代表がまとめて買う。

 水のボトルは回し飲み、果物は齧ったものをそのまま隣へ渡す。

 潔癖も体裁も捨て、ただ「生きて中央区に着く」ために。




 もはや奴隷船。




 そんな形容が相応しいほどのカオスを抱え込みながら、列車は軋む音を立てて進んでいく。




 窓の外の景色は次第に変わっていった。

 草地と荒野が途切れ、建物の数が徐々に増えていく。

 そして、乗客の数もまた、比例するように膨れあがっていく。




 ——ぷしゅううう……




 ある駅に停車すると、制服姿の保安警察がぞろぞろとホームに姿を現した。




 中央区に近づくにつれ、列車は過積載による脱線事故や暴動の危険が高まる。

 そのため、警察による定員チェックが入るのだ。




 だが、見れば一目でわかる。

 明らかに限界を超えた過積載。




 もちろん、彼らも杓子定規に全員を降ろすわけではない。

 出稼ぎ労働という事情を踏まえ、大目に見る部分もある。


 しかし、それでも。

 客室の外にはみ出し、ドアの前や車両間の通路に押し込まれている者たちは、容赦なく排除された。




 抵抗する魔族もいた。


 だが、警棒でためらいなく殴りつけられ、荷物ごと地面に引き摺り下ろされる。

 呻き声や怒号が響く中、列車はただ時間を守るように停車を続ける。


 ちなみに、強制的に降ろされた魔族が、その後、別の列車に乗れるのかどうかは誰も知らない。


 ただ一つ、はっきりしているのは「安全最優先」という名目のもとで、現場は常に切り捨てられるという事実だけだった。




 最終的には、前後左右どころか、乗客の上にさらに乗客が覆いかぶさるという、もはやアクロバットとしか言いようのない乗車法で、ただひたすらに耐え続けることとなった。




 ゴブリンの体力も、酸素濃度も、限界に近づいたその時——




 ——次は終点、中央区、中央区です。




 アナウンスが響いた瞬間、乗客たちは一斉に胸を撫で下ろした。

「助かった……」「やっと着いた……」と歓喜の声があちこちから漏れる。

 皆がモゾモゾと身動きを取り、荷物を手にして下車の準備を始める。




 ——ぷしゅうううぅ……




 列車が減速し、ついに中央区のホームへと滑り込む。




 扉が開いた瞬間、車内から溢れ出す異臭と熱気に、通行人たちは思わず眉をひそめ、袖で鼻や口を覆った。




 それでも、地獄のような車内から解放された出稼ぎ魔族たちは、そんな反応を一切気に留めない。

 歓声をあげながら、足元の大地を力強く踏みしめる。


 ゴブリンもまた、背中のバックパックをぐっと背負い直し、人波に押されるままに駅の出口へと歩み出した。




 行き先は最初から決まっていた。




 そこに迷いはない。むしろそれが唯一“楽”な部分だった。




 ブローカーがいる。就職斡旋だ。


 彼らは地方魔族を中央区の企業へと繋げ、その見返りとしてキックバックや紹介料を得ている。




 企業側にも需要はあった。




 ——能力がなくても、読み書きができて、単純作業をしてくれるならそれでいい。




 そういう職は一定数存在する。




 ゴブリンが赴いたのは、魔界でも名の知れた大手「MKグループ」の関連会社だった。




 その一つ、MKフーズ。


 広い会場に、同じように出稼ぎに来た魔族たちが押し込まれていた。

 やがて——




 ——ガチャ




 扉が開き、スーツや作業着に身を包んだ社員たちがぞろぞろと現れる。

 彼らが今日の面接官だ。

 もっとも、この面接はほとんど形式的なものにすぎない。


 そんな面接官の列の中に、一人だけ異質な姿が混じっていた。




 明らかに人間の女性。




(人間……がいる?)




 ——ヒソヒソ……




 ざわめきが走る。


 地方で育った彼らにとって「魔界に人間がいる」という発想は、まったく常識外れだった。

 なぜなら魔族と人間は戦争中であり、人間は敵、滅ぼすべき存在……そう教え込まれてきたからだ。




 だが、それはもう古い価値観だった。


 中央区では少数ながら人間も暮らしており、カジノでギャンブルを楽しみ、商売をし、普通にビジネスの一員として存在している。


 ただ、その現実が田舎にまで伝わっていないだけのことだった。




 魔王城特務室の室長、エリシア。




 彼女は特務室の職務に収まらず、魔界における様々なビジネスの場でも顔を出し、暗躍していた。


 この日もまた、MKフーズの顧問役という肩書きで、出稼ぎ魔族たちの面接会場に姿を見せていた。




「それでは面接を始めます」




 面接官の一人が、儀礼的に声を張り上げる。

 だが実際に行われるのは、ごく簡単な確認にすぎなかった。




 体に異常はないか。

 最低限の読み書きができるか。

 一定のモラルを守れるか。

 やる気はあるか。




 まるで面接というより、入場ゲートを通過するような儀式。


 一通りが終わったところで、エリシアがゆったりと口を開いた。




「まあ、そう緊張しなくてもいいですわ」




「……」


「……」




 出稼ぎ魔族たちは思わず姿勢を正す。

 彼女は続けた。




「皆さんがこれからやるのは、簡単な作業ですの。商品を……こう……キラキラ〜って感じで綺麗にして、工場から出荷するんですわ」




 エリシアはにこやかな笑みを浮かべ、手をひらひらさせながら身振り手振りで説明した。




「皆さんは手先が器用ですから、すぐに慣れますわね。それに寮も完備、水も綺麗なものが使えますわ。作業だって、清潔な工場で椅子に座りながらできますのよ」




 その言葉を聞き、ゴブリンたちは心の中でそっと胸を撫で下ろした。




 出稼ぎといえば、まず建設業に回されるのが常だった。

 そこは法令など存在しないに等しい過酷な現場。

 残業も徹夜も当たり前、安全装置は壊れたまま、監督や正社員からの暴力制裁も日常茶飯事。




 だが、自分たちが配属されるのは建設ではなく「製造」や「ライン工」と呼ばれる部類。




 つまり、当たり。

 彼らの目には、一筋の光が差し込んだように映った。




 それから数日後。


 MKフーズの下請け工場。




 ——ジイイイイイイ……




 耳障りな蛍光灯の唸り声が、薄暗い工場内を埋め尽くす。




 ——ばち……




 大きな蛾が蛍光灯に頭突きを繰り返し、その度に影が揺れる。




 ——ポつ……ぽつ……




 段ボールにはエナジードリンクがぎっしりと詰め込まれていた。




 レッドブル、モンスターエナジー……お馴染みの銘柄が並び、さらに各種フレーバーも揃っている。




 工場に集められたゴブリンたちは、ビールケースを椅子代わりに腰掛けていた。

 目の前に並ぶのは、無数のエナジードリンクの缶。




 ——ピッ……


 ——ぽつ……




 作業台のトレイには、色とりどりのストーンやビーズがぶちまけられている。

 ゴブリンたちはそれをピンセットでひとつひとつ摘み、接着剤を使って丁寧に缶へ貼り付けていった。






 そう、それはエナジードリンクのデコレーション。






 やがて、煌びやかなストーンで彩られた缶が完成する。


 それらは中央区の高級スナックやラウンジに並び、イベント会場の出し物となり、あるいはインフルエンサーの手に渡る。




 命を削って作られたデコ缶。




 その裏側には、出稼ぎゴブリンたちの黙々とした作業があった。




 ——ガチャ……




 工場の扉が乱暴に開き、姿を現したのは職員のレッドリザードだった。

 彼は何も言わず、ズカズカとゴブリンたちに近づくと、完成品の数を数え始める。




「あれあれ〜?ちょっと手が遅いんじゃないの〜?」




 ——がこん




 一匹のゴブリンが腰かけていたビールケースを、レッドリザードは靴で蹴り飛ばした。




「す、すいません……」


「え?お前、今日何個やった?」




「10缶です……」


「遅いね〜。遅いよ〜」




 ——ガチャ……




 再び扉が開く音。

 遅れて誰かが入ってきた。




 ——ちらっ




 振り返るゴブリンたち。




「……!?」




 その姿に驚愕する。






 ドスドスと歩いてくるのは、全身ラバースーツにガスマスクをかぶった巨漢の男。

 手には長い鞭を握っている。






「フーシュコー……フウシュコオォ……」




 会話をするでもなく、ただマスク越しに息を吐き続ける異様な存在。




 ——ドスどす……




 レッドリザードは手が遅いゴブリンを指さし、巨漢にちらりと合図を送る。




「フシュコオオォ!フーシュコオオ!」




 生暖かい吐息がマスク越しにも伝わる距離に迫り、ゴブリンは背筋が凍った。


 そして——






 ——パシイイィン!






「ヒイイ!」




 鞭がゴブリンのすぐ横を掠め、床に火花を散らした。




「おいおい〜君〜そんな乱暴しちゃダメだよ〜」




 レッドリザードはわざとらしい声で注意する。

 だが、その言葉が巨漢に届いているかどうかは怪しい。




「今時、すぐパワハラパワハラってねぇ〜。優しくしてあげてねぇ〜」




 軽く笑いながら、彼は一人だけ事務所へ戻っていった。




「フーシュコー……フウシュコオォ……」




 鞭を持ち、工場内をゆっくりと練り歩く巨漢。

 ゴブリンたちの緊張感は最高潮に達する。




 ——プルプル……




 ——ピッ……


 ——ポチ……




 それでも必死にピンセットでストーンをつまみ、震える手でレッドブル缶を飾り続ける。


 ここにあるのは、商品と蛍光灯に集まる蛾、そして鞭だけ。


 これが地方出稼ぎ魔族の実態だった。




 そして完成したデコ缶は、後日エリシアのデスクにずらりと並べられる。




 ——パチャ




【まるでジュエリー!デコ缶でテンション爆上げ!】




 SNSには、豪華なエフェクトで加工された缶の写真と映像が投稿されていた。




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