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緊急招集

 アルセール大陸、ルクレシア領西方。


 小さな町、グレイヘイブン。




 そのギルド支部では、緊迫した空気が漂っていた。

 集まった冒険者たちが、長机を囲んで口を閉ざしている。




「——では、戦闘は避けられないということか」




 低くつぶやいたのは、白髪まじりのベテラン冒険者だった。

 視線は支部長へと向けられる。


 支部長は重くうなずいた。




「ああ。しかも偵察の情報によれば、オーガ、トロル、サラマンダ……強力な個体も確認されている」




 場の空気がさらに冷える。


 アルセール大陸各地に散らばっていた魔族たちが密かに連携し、この街のすぐ近くに拠点を築いた。

 狙いは明らか、このグレイヘイブンへの侵攻と占領だ。




「では幾らかの犠牲は……避けられんか……」


「王国軍の戦力を借り受けられんのか?」




 支部長は苦い顔をした。唇の端がわずかに引きつり、深く刻まれた眉間の皺がさらに濃くなる。




「すでに嘆願はした。だが、到着に時間がかかる」


「ヤツらは今、どこに?」




 ——バサッ




 地図が卓上に広げられ、蝋燭の炎が紙の上を揺らめかせる。古びた羊皮紙の端には、泥と血のような染みが点々と残っている。全員の視線がそこに釘付けになった。




「二日前の情報だと、ここだ」




 街から南西の森から少し離れた地点。つまり、ゆっくりとではあるが確実に、街へと迫っている。




「となると——」




 一人の冒険者が、無骨な指で街と森の中間地点を突いた。




「もうこの辺は超えているか」


「だろうな」




 部屋の空気がひやりと冷たくなる。額を伝う汗は、単なる緊張ではなく、差し迫った現実の重さを示していた。




「どうやら、ここで会議をしている時間すら惜しいようだな」




 椅子を蹴る音、装備の金具が鳴る音。彼らは一斉に準備に取り掛かろうとした。


 だが、支部長の低い声がそれを制した。




「焦るな。実は……スペシャリストに緊急で連絡をした」




「……というと?」


「もしかして、ジークか?」




 ジーク。


 その名が出た瞬間、場の空気がわずかに変わった。




 古代の遺跡、深淵の洞窟、龍の巣。常人ならば帰還を諦めるような場所を、彼は単独で踏破してきた。

 幾多の強敵を屠ったその武勇は、酒場の噂話や古びた戦記の一節にまで刻まれている。


 彼は群れることを好まず、常に一人で行動する。ゆえに、たまたまでもパーティーを組めた者は、それだけで一生の自慢話になるのだった。




 支部長は静かに首を横に振った。




「いや、さらにその上だ」




「その上……?」


「一体……」




 ——ザワザワ




 ざわめきが部屋を満たす。誰もが耳をそばだて、次の言葉を待った。支部長はわざと間を置き、低く重い声でその名を告げる。






「エリシア殿、だ」






「エリシア……」


「なんだって……」


「あの災厄の魔術師の……」




 エリシア。千もの異名を持つと言われる、規格外の魔術師。




 普段は怪しげなビジネスや、詐欺まがいのコンサルタントで荒稼ぎしているという噂が絶えないが、その本職は魔術師である。ひとたび本領を発揮すれば、大地の形すら書き換え、巨龍をも蚊のごとく叩き落とすという。




 曰く、城壁を液状化する灼熱の炎を無詠唱で放つ。


 曰く、砂漠を一夜で永久凍土に変える冷気を操る。


 曰く、彼女は一度も本気を出したことがない。


 曰く、「本気を出すと世界が壊れるから」という理由で攻撃魔法を封じている。




 その名が示すのは、単なる戦力ではなく、災厄そのものだった。


 冒険者たちは口々にその女の噂を並べ立てた。




「俺も……本人を見るのは初めてだ……」


「サンセット支部で……チラッと見たような……気がする……」


「バスよりでかいドラゴンの尻尾を納入してるのを見た! 本当に市場の荷車からはみ出してたんだぞ!」




 興奮と恐怖が入り混じった声が交錯し、部屋は一気にざわつく。支部長はそれを制するように、わざとらしく咳払いを一つ。




 ——ゴホン




「……」




 その音が合図のように、ざわめきは吸い込まれるように消えた。空気が張り詰める。




「もうそろそろ本人が到着するだろう」




 ——ザワ




 規格外の強者の到来に、背筋を正す者。

 その一挙手一投足を逃すまいと、目の奥をぎらつかせる者。

 誰もが呼吸を浅くし、外の足音に耳を澄ませる。




 ——コンコン




「来た……」


「来たぞ……」


「ゴクリ……」




 ——ガチャぁ……




 扉が、古い蝶番の軋む音を立てながらゆっくりと開いた。




 ——ひょい




「あら、支部長……お久しぶりですわねぇ〜」


「これはこれはエリシア殿!」




 ——バクンバクン……


 ——ドキドキ……




 支部長と、肩の力の抜けた挨拶を交わすエリシアを前に、冒険者たちの鼓動は否応なく速まっていく。




(あれが……エリシア……)


(最強……とは思えん……)


(人は見た目によらず、か……)




 戦闘のための召集だというのに、彼女の手に下がっているのは、どう見ても透明のビニール製プールバッグ。




「いやぁ、呼んでくださるなんて、気が利きますわねぇ」




 ——トン




 エリシアは支部長の脇腹を軽く肘で突く。




「エリシア殿がいれば、もう……なんでもござれですなぁ!」




 プールバッグの中身はタオル、スマホ、財布、そして着替えのようなもの。戦場の匂いとは程遠い品々だ。




 しかし、その一挙一動から目を離せる者はいない。




(やはり凄腕の魔術師は荷物が少ない……)


(普通なら、マナポーションも魔石も杖も、ありったけ抱えてくるはずなのに……)


(これは……洗練されている……)


(いや待て……まるでピクニック感覚……だと……)




 エリシアは、ためらいもなく本題へと切り込んだ。




「しかし、かなり集めましたね」




 ——チラッ




 その視線が、冒険者たちをひと撫でした瞬間、肌の奥が冷たくなる。喉が硬直し、足は床に縫いつけられたように動かない。


 ましてや、真正面から目を合わせるなど……それは死神と視線を交わすのと同義だった。




 ——ゾク




「しっかし、野郎ばっかりですわねぇ」


「これでも精鋭でございます」




 支部長は少し肩をすくめ、申し訳なさそうに答える。




「いや、まあ私は別にいいんですけどね。ほら……あの〜、あれですから……おっほっほっほ〜」




 唐突に上がる妙なテンション。理由も脈絡もなく、勝手に自己完結している。




「ま、私は気にしませんから」


「エリシア殿、足手纏いにならないようにします」




 横合いから、年季の入った冒険者が慎重に言葉を添えた。




「足手纏いぃ〜? よくわかりませんが……私もたまには汗をかこうかな〜って」




 ——ザワザワ




 その一言で、場の空気がさらにざわつく。


 結局のところ、彼女にとって自分たちの存在など「戦力」ではなく、ただの人数カウントに過ぎないのだろう。


 百人いようが二百人いようが、彼女の中では「1」にも満たない。そんな確信だけが胸に残った。




 エリシアは、テーブルに広げられた地図へと視線を落とした。




「で、どこで?」




 短く、鋭い問い。だが、それだけでベテラン冒険者は全てを悟った。


 街と魔族たちとの距離。到達までの予測時間。

 敵の編成と戦力配分。物理寄りか、魔法寄りか。


 脳裏に情報が一瞬で並び、整理される。だが——




「ここです」




 彼はあえて、それ以上は語らなかった。


 神に説法。彼女のような相手に、聞かれてもいない説明をだらだら続けるのは危険だ。

 エリシアほどのレベルなら、ここに来るまでに必要な情報収集はすでに終えているはず。


 結局のところ、このやり取りは、彼女と自分たちとの「認識のすり合わせ」に過ぎないのだ。




 エリシアは口元に白い指先を添え、わずかに首を傾げた。




「えぇ!? こんなところで?」


「……どうかしましたか?」




「いや、随分と辺鄙なところですわねぇ」


「……?」




 唐突な反応に、ベテラン冒険者は眉をひそめる。

 だが、常識の埒外にいる者は、いつだって凡人には理解できない箇所に注目するものだ。




(今の反応……もしや魔法のレンジの問題か?)




 魔術師と一口に言っても、その適性は千差万別だ。

 近距離で高火力を叩き込む者もいれば、遠距離から低火力を持続させる者もいる。

 集中型、拡散型、範囲殲滅、精密狙撃など、得意分野はそれぞれだ。


 この反応……おそらく、彼女が放つ魔法が街にどの程度の影響を与えるか、その線引きを測っているのだろう。




「ゴクリ……」




 やはり超一流は格が違う。


 我々の思考は「どう倒すか」で止まってしまうが、彼女は「倒した後」の未来図まで見据えている。

 それが、規格外と呼ばれる所以だった。




 エリシアは、地図上の一点を白い指先でなぞりながら、ゆっくりと撫で回した。




 ——すりすり




「街からちょっと……離れてますわねぇ……」


「ええ。まだ時間的に余裕はあるかと……少しですが……」




「まあそうですわねぇ。今から行っても……昼過ぎか……」


「ええ」




 側で聞いている冒険者たちは、一言も口を挟めない。


 この場で、彼女と真正面から言葉を交わし、かろうじて呼吸を合わせられるのはベテランただ一人。


 下手に素人じみた意見を差し込もうものなら、その場で自分の浅はかさを暴かれ、全員の前で吊し上げられる。そんな確信があった。


 空気は重く張り詰め、まるで近くをドラゴンが徘徊しているかのような緊張感が漂う。冒険者たちは息を潜め、成り行きを見守るしかない。




 そしてエリシアは不意に、全く予想外のことを口にした。




「えっと、じゃあ食べ物とかはどうするんですの?」




「えぇ?」




 あまりの方向転換に、ベテランは素っ頓狂な声を上げてしまった。




(た、食べ物……なぜ今それを?)




 瞬時に、脳内で経験と知識が総動員される。

 エリシアに話を振った以上、この場の調整役は自分だ。逃げ場はない。




(もしや……兵糧の話か? 士気維持のための補給計画……? いや、それだけじゃないはずだ)




 どうにも核心が掴めない。




「え、エリシア殿……。食べ物というのは……?」




 仕方なく問い返す。


 これほどの赤っ恥はない。相手が見据えているものが、自分には見えていないのだ。

 もしこれが本格的な魔族との戦争であれば、この認識の差は、致命的な一手の遅れになりかねなかった。




 エリシアは口元に笑みを浮かべ、軽く肩を揺らした。




「え? ほら……思ってたより集まってるでしょ? これはちょっと準備が必要でしょ」


「あっ……」




 その一言で、全てを察した。




 彼女が指差す地図上のポイント。


 そこは、魔物たちが数を増やしつつある地点。おそらく現地で潜伏していた魔族が合流し、勢力を膨らませているのだ。




 つまり食糧の話を持ち出した意味は「長期戦を覚悟せよ」ということ。


 今日一日で終わる戦いではない。彼女はそう告げていた。




 ——ギリ




 ベテランは奥歯を噛み締める。

 脅威の規模を見誤っていた。自分よりもはるかに高いリスク評価を、彼女は当然のようにしていたのだ。




「も……申し訳ありません……実はそのことを……」




 言いかけた瞬間、エリシアはわずかに眉を顰めた。




「えぇ……じゃあもう、食べ物は各自でってことでいいですわね」


「それしか手はないかと。ですが他の支部に連絡を回して——」


「いやいや、それはちょっと考えすぎですわよ〜。なにもそこまでしなくても〜」




 エリシアは手首を軽く返し、ヒラヒラと振ってみせる。




(……俺の考えすぎか? いや……)




 もしかすると、これは支部としての面子を守るためかもしれない。


 今回の魔物の侵攻は、あくまでグレイヘイブン支部が食い止める。そうすることで、他の支部や王国軍に自らの力を誇示する。




(俺たちに花を持たせるつもり……だと……)




 胸の奥で、驚きと畏敬が入り混じった。




(どこまで超一流なんだ、この人は)




「まあいいですわ。それより……あ、そうだ!」


「……?」




 エリシアは両手をぱちんと打ち合わせた。




「着替える場所! ほら! ねえ! やっぱ着替える場所がいりますわよ〜」




「着替え……?」




 一瞬、ベテランの思考は深海に潜ろうとしたが、すぐに理由を導き出す。




(ああ、返り血の防止か……あるいは戦闘用の保護衣に着替えるんだな)




 振り返り、適当に目についた者に声を飛ばす。




「おい! 木材とパイプで着替える場所を作れるようにしろ!」




「はい!」


「わかった!」




 何人かの冒険者が現地で組み立てられるよう、手際よく資材の準備を始める。




「あと布! カーテンでもなんでもいいから!」




「はいよ!」


「早くしろ!」


「急げ!」




 その様子を横目に、エリシアはビニールバッグをごそごそと漁り始めた。




「あ、シャンプーとかは自分のがありますから、大丈夫ですわ」


「はい……え、シャンプー?」




 ベテランは思わず口を開けたまま固まる。




「私は綺麗好きなんですの。ちゃんと洗わないと」


「いや、しかし水——」




 と言いかけて、口をつぐむ。魔術師なら水の確保など造作もない。

 おそらく戦闘の合間でも、体を洗える環境を作るつもりなのだろう。




「あと……椅子! ほら! 寝っ転がれるやつ!」


「い、椅子?」




 戦場の準備とは到底結びつかない単語が飛び出す。




(戦闘中の休憩用か……いや、負傷者の搬送と手当のためか?)




「あのねぇ、整う準備も必要ですのよ〜。わかってないですわね」




(……環境を整える、か)




 ベテランの脳裏に、若かりし日の記憶が蘇る。


 軍隊の教官が言っていた。身の回りの環境を整えねば士気は上がらない。士気が上がらなければ、戦況にも悪影響が出る。


 魔物の群れと戦う拠点を築く以上、最低限の快適さは必要だ。




「椅子だ、椅子を用意しろ!」




 ベテランは声を張り上げる。




「椅子だな!」


「そうだ。なるべく大きいやつだ! 負傷者が寝られるように!」


「はい!」




 指示が矢継ぎ早に飛び、動きが加速する。




「負傷者?」




 エリシアがぽかんと目を瞬かせる。




「エリシア殿……我々は認識が甘かったようです。ご教授いただきありがとうございます!」




「え? あ、あぁ〜。え? ってかロケーションは?」


「ロケーション……とは?」




「いや、だってこれ地図で言うと……平原でしょ?」


「ええ、確かに平原です。それが?」




「あなた、こんなところで負傷者って……ちょっと大袈裟ですわねぇ〜」


「申し訳ありません。我々の練度は、あなたが思っているよりレベルが低い」




 ベテランは、その実力と見識の広さにただただ圧倒されるばかりだった。




(こんな基本中の基本にまでアンテナを張るとは……)




 そしてエリシアがバッグを手に持ち上げる。




「まあ話しててもあれですから、早く行きましょうよ」


「エリシア殿、もう少しお待ちください……」




 彼女は口角を上げ、軽やかに言う。






「準備は適当でいいですわよ〜。私も忙しいから、一風呂浴びてさっと帰りますもの」






「準備は適当って……風呂……?」




「え?」


「え?」




 沈黙とともに、互いの視線が宙を彷徨う。


 エリシアが先に口を開いた。






「銭湯があるんでしょ。でも、こんな平原に温泉が湧き出るなんて珍しいですわね!」






「え?」






 戦闘(せんとう)と「銭湯(せんとう)」。






 両者の脳内に広がる景色は、完全に別物だった。




「え、エリシア……殿?」


「へ?」




 ベテランは小さく咳払いをし、改まった口調で告げる。




「我々は現在、魔物の侵攻を控えていますが」


「は? 魔物……? なんの話?」




 ——シーン




 視線が自然とエリシアのバッグへ向かう。




 そこに収まっているのは、着替え、タオル、高級ブランドのシャンプー、香水、化粧道具、ビーチサンダル。


 どう見ても、露天風呂を満喫しに行く者の装備でしかなかった。




 そして、エリシアはようやく思い出す。




「あっ……」




 グレイヘイブン支部長からサンセット支部長への応援要請。

 それを受けたサンセット支部長が、電話口でエリシアに「戦闘があるらしい」とだけ告げたのだ。




 その瞬間、彼女の脳内では「え!? あんなところに銭湯が!? すげえ! 行きますわ〜!」と、完全に日帰り温泉旅行モードのスイッチが入ったらしい。




「……」


「……」




 ——コホン




 エリシアはわざとらしく咳払いをし、視線を逸らしながら呟いた。




「やっぱ、一汗流しますかねぇ」




 そして30分後、魔物の群れは影も形もなく消滅していた。





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