怪物
アルセール大陸某所。
名もなき小さな集落。
発展する主要都市から取り残されるように、ぽつりと存在していた。
住民は少なく、高齢化が進み、若者は次々と街へ出て行く。
残されたのは、朽ちた家屋と、かつての活気を失った通り。
やがて、集落には廃墟が立ち並び始めた。
そんな中、ある時から妙な噂が広まる。
怪物か、あるいは亡霊のようなものが現れるらしい、と。
とある廃屋にて。
そこには女性の姉妹、リマとカレンが暮らしていた。
彼女たちは、まるで逃げ込むようにしてこの集落に身を寄せている。
——ぽとぽと……
「あら、雨漏りだわ」
カレンが天井を見上げる。
板の隙間から、冷たい雨粒がぽたりと落ち、床を濡らした。
——ぴちゃ。
「床が濡れてるね」
リマは視線を床に落としたまま、ぽつりとつぶやく。
「床が濡れるとカビが生えるわ」
「そうね」
カレンは窓から外を見やりながら、淡々と相槌を打った。
外は灰色の雲に覆われ、冷たい雨がしとしとと降り続いている。
「カビって胞子を撒き散らすの。それを吸ったら、カビが肺に入って、それが全身に回っちゃうわ」
「雨、止むといいんだけど」
二人は窓の外をぼんやり眺めながら、ただ時間をやり過ごしていた。
やがて、夕方。
カレンがふと何かを思い出したように口を開く。
「いけない、夜が来るわ」
「ええ」
リマも壁にかかった時計へ視線をやる。
もっとも、その時計はとっくに電池が切れていて、針は止まったままだ。
ただの癖のような動作だった。
——がさ。
どこからともなく、野良猫が部屋に入り込む。
「にゃん」
猫は、誰もいない空間に向かって短く鳴くと、割れた窓ガラスの隙間から音もなく出て行った。
リマはその背を見送りながら、不安げに呟く。
「夜になると怪物が来るのよ」
「困ったわね」
「怪物に見つかったら、全身を舐めまわされて弄ばれるの」
「怖いわ」
「それで飽きたら、人買いに売り飛ばされるんだって」
「来なきゃいいんだけど」
そうこうしているうちに、あたりはすっかり夜の闇に包まれていた。
遠くの民家からは、窓越しに暖かい光がこぼれている。
——ワオオオオォン……
どこかの番犬が、寂しげに吠えた。
二人の家は、ずっと前に電気を止められている。
だから夜になると、互いに身を寄せ合い、朝が来るのを待つしかない。
「雨は収まったけど、蒸し暑いわね」
カレンは、隣に座るリマを見つめながら呟いた。
「汗かいちゃうわ。汚い。体がベトベトするの」
リマは自分の腕をゆっくりとさすった。
——ガサ。
不意に、妙な音が響いた。
玄関の方だ。
「さっきの猫じゃないわ」
リマが顔を上げる。
「誰か来た」
カレンは立ち上がった。
続いてリマも立ち上がる。
——ガッ、ゴッ、ガラらら!
まるで、引き戸を力ずくでこじ開けるような音。
「怪物が来たかも」
カレンはリマの手をつかみ、浴室へ逃げようとした。
「お風呂場じゃ、袋小路だわ」
リマの言葉に、二人は進路を変え、台所へ向かった。
——コツ……コツ……
玄関の方から、ゆっくりと近づいてくる足音。
「あぁ、靴脱がないで入ってきたわ」
リマが嫌そうに呟く。
「怪物なんだから靴なんか脱がないわよ。静かに」
二人は台所のテーブルの下へ潜り込んだ。
テーブルの下には、湿気で腐りかけた段ボール箱がいくつも積まれている。
棚の下には、いつの時代に詰められたのかわからない漬物の瓶が埃をかぶって並んでいた。
——はあぁ……はあああぁ……
生温い息遣いが、リビングの方から確かに聞こえてくる。
カレンはテーブルの下に身を縮めながら、壁にあいた小さな穴からリビングをそっと覗いた。
「……いるわ」
「どんなの?」
リマが小声で尋ねる。
「気持ち悪いわ。小太りで」
カレンは視線を穴に固定したまま答えた。
「しかも何も着てないわ」
「でも靴は履いてるでしょ」
リマの問いに、カレンは小さく頷く。
「靴はね。あぁ、あと靴下も」
「じゃあそれ以外は着てないのね」
「そうね」
——はあ……はあぁ……
リビングからは、湿り気を帯びた生温い吐息が不規則に聞こえてくる。
「そのうち、こっちにくるわ」
「まずいわね」
——ガサガサ。
怪物はリビングの棚を乱暴に開け、何かを探しているようだった。
「何か探してる?」
「気味が悪いわね」
二人は身を縮めながらも、警戒心を露わにする。
リビングの向こうからは、引き出しを開ける音と、何かを引きずる音が混ざって響いてきた。
——ずるずる……ズルズル。
——スウウウゥ……
——ハァ……あぁ……。
「何してるのかしら」
「匂いを嗅いでるんだわ」
リマは嫌悪を隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
「寝室に隠れなきゃ」
カレンはリマの手を引き、台所の隣にある寝室へ移動しようとする。
寝室へ行くには、この台所を通る必要があった。
「ねえ、ベッドの下に隠れたら?」
リマが不安そうに提案する。
カレンはドアに耳を押し当てながら、短く答えた。
「ダメよ。怪物が真っ先に調べたら逃げられないわ」
「でもこの部屋も袋小路だわ」
カレンはガラスが割れた窓を指差す。
その下には、濡れて腐りかけたマットレスの残骸が無造作に放置されていた。
「もしこっちに来そうなら、窓から逃げるのよ」
「そうね。でも、私、靴を履いてないから足が汚れるわ」
リマは眉を寄せる。
「怪物に捕まったら全部汚されるわよ」
「じゃあ仕方ないわね」
——コツ……コツ……
——ふぅ……ふぅ!
ゆっくりとした足音と、荒くなる息遣い。
確実にこちらへ近づいてくる。
痺れを切らしたように、カレンはリマの手をぐっと引いた。
「逃げるの。こっちにくるわ」
「ええ」
二人は割れた窓の隙間から身をかがめ、這うようにして外へ抜け出した。
一方その頃、台所では――
全裸のフル#ン男が、重い呼吸を繰り返しながら徘徊していた。
「ふぅ……ふぅ……」
その手には、カビの生えたストッキング。
ゴムは伸びきり、もはやただの燃えるゴミのような代物だった。
彼は息を荒くしつつ、右手で下品な「作業」を続けながら、家の中を値踏みするように歩く。
どうやら割れたガラスや錆びた釘を踏むのが嫌で、靴だけはしっかり履いているらしい。
そして、何もないとわかると、男は台所の勝手口から外へ出ていった。
「ハァ……はぁ……」
リマとカレンは、その姿を隠れ場所から静かに見上げていた。
「近いわ……」
「大丈夫、ここなら絶対に見つからないから」
カレンはリマの頬に手を添え、そっと撫でる。
やがて、男は目の前に並んだ二つの十字架の前に立った。
「はぁ……はぁはぁ!」
止まらない右手の「作業」
そして――
「うっ」
片方の十字架の角が、ぬらりと光った。
「……」
——ザッザッザ……
先ほどまでの熱を帯びた吐息とは裏腹に、男は何事もなかったかのように背を向け、あっさりと去っていった。
二つの十字架には、それぞれこう刻まれていた。
【R.I.P 〜LIMA〜】
【R.I.P 〜KAREN〜】
——スゥ。
十字架から、二人の姿がゆっくりと浮かび上がる。
「生きてる人間って、ほんと怖いわね」
「もう来なきゃいいのに」
「怪物」が去った後、二人はまた、静かな家で夜を過ごした。




