551
魔界、地方都市。
かつては岩と瘴気の街だったこの一帯も、今やLED看板が瞬き、屋根付きの交差点には監視ドローンが浮かぶまでになっていた。
中央区ほどの狂気とビル群はないが、それなりの近代化は果たされている。
——ブロロロロろぉ……
遠くでバイクの排気音が響く。
——パアアアァン!
信号の切り替わりに合わせて、無秩序にクラクションが鳴る。
「……」
その喧騒を横目にミノタウロスが一人、街路を歩いていた。
——カツコツ
魔王城特務室、唯一の部下。
彼の任務は、現在魔界全土で推進中の「人材供給政策」の現地視察と企業連携の交渉。
本来ならば、室長エリシアの役割でもあったが、あの人がじっとしているはずがなく、当然ながら「じゃあ別行動で進めましょう」となったのである。
ミノタウロスは、相手企業との打ち合わせをひと通り終え、中央区へ戻るための電車に乗る前、駅までの道を静かに歩いていた。
——カツコツ……
「……」
歩みを止める。
横にある古びた建物。
その軒先に掲げられた看板には、大きく「551」の数字。
赤く塗られた木枠のカウンターの向こうからは、白く立ち上る蒸気が曇ったガラス越しにふわりと溢れてくる。
——ボワああぁ……
それは視覚よりも遅れて、鼻腔へ届く。
豚まん。
この世でもっとも単純で、もっとも魅力的な脂と粉の誘惑。
「……」
ミノタウロスは足を止めたまま、しばし動かない。
——カツ……
一歩、微かに足が前に出る。
理性と本能が激突する、その境界線。
彼は考えていた。
「……」
豚まんと魔王城、どちらが重いか。
思考の針が天秤を揺らす、その一瞬だった。
ふと、脳裏をよぎる。
(……お土産で持って帰ったら、エリシア殿は喜ぶのでは?)
ちらりと横目で行列を見る。
店の前にはすでに十数名が並び、蒸籠から立ち上る湯気が食欲を煽っていた。
豚まん、そしてシューマイ。次々に紙袋に詰められ、飛ぶように売れていく。
——ブンブン!
ミノタウロスは力強く首を振った。
(なんだ、俺がこんなもんに金使ってまで……)
脳裏に浮かぶのは、理不尽の権化・室長エリシアの姿。
書類を蹴飛ばし、出張費を渋り、気に入らない報告をしただけで四時間無言になる存在。
そんな彼女のために土産を?
いや、ない。ないない。
(いや、しかし——)
思考が揺れる。
その時だった。
——ホワンホワンほわ〜ん
視界が急に霞み、脳内に妄想ワールドが展開される。
【551がある時】
——ドワアアアアアァ!
魔王城の門が豪快に開き、そこに立つミノタウロスの姿。
「帰ってきたぞおおおおおぉ!」
彼の背後には「551」と巨大に書かれた垂れ幕がはためく。
「551だアアアアアアァ!」
職員たちが作業を放り出し、魔導端末を床に投げ捨て、走る!跳ぶ!叫ぶ!
——キええエェえぇえぇえぇ!
「551を買ってきたぞおおおお!」
掲げられた紙袋。そこから放たれる湯気に、魔族たちは我を失う。
「うおおおおお!」
「でかしたああああ!」
——パァン!パァン!
なぜか祝砲。
魔王城全体が豚まんを称える祭りと化す。
エリシアも階段の上から現れ、瞳を輝かせながら叫ぶ。
「さすがは私の部下ですわ! これはもう執行部に昇進ですわね!」
——ヒューヒュー!
——ゴーゴーイチ!ゴーゴーイチ!ゴーゴーイチ!
謎のコールとともに胴上げされるミノタウロス。
紙袋は天高く掲げられ、もはや神輿。
豚まんの熱気と歓声が混ざり合い、全職員が涙を流しながらふかふかの豚まんにかぶりつく——。
【551が無い時】
——ずウウウウウウウゥン……
街灯の色すら沈むような気配とともに、ミノタウロスは手ぶらで魔王城へと戻ってきた。
その表情には、ほんのわずかな罪悪感と「まあ別にええやろ……」という希望的観測が混じっている。
しかし——
——べちゃああぁ……
空気の変化は、城の玄関を跨いだ瞬間から明白だった。
カオススライムがどす黒く染まり、天井から壁にかけて流動しながら張り付いている。
床の隅ではコケのような何かが鼓動し、階段下には謎の影が何体かじっと佇んでいた。
——グシャアあぁ……
どこからともなく聞こえてくる、アンデッドの呻き声。
特に呼んでもいない。
——ガチャ……
静かに特務室のドアを開ける。
その向こうに広がるのは、かつてのオフィスではなかった。
——どよおおおおぉおぉん……
空間全体に薄汚れた緑色の渦巻きのエフェクトが浮遊し、なぜか床は畳。しかも腐っており、そこから湿った胞子と共にキノコが生えていた。
(……あれ? ここ……こんなでしたっけ?)
「はああああぁあぁ……」
中央でしゃがみ込むエリシア。
彼女はブヨブヨになった畳を無言で人差し指で突き続けていた。
その顔には影が落ち、目のハイライトが消えている。
「551は無いんですのね……」
「エリシア殿……」
部屋を見渡せば、魔族たちが黒いベールで顔を覆い、手には逆さ十字。
まるで誰かの死を悼むように、重々しく列を作って歩いていた。
——ギイイイィいぃ……
——ピロンポロン……
調律の狂ったバヨリンとピアノが不安定な旋律を奏でる。
誰も演奏していないはずなのに、どこからか鳴っていた。
エリシアはぽつりと呟いた。
「もう特務室……解散ですわ……」
「えぇ!? そんな!」
——ガチャガチャぁ……
引き出しから取り出されたのは、長年開封されていない謎のガラクタ。
それらを適当に汚い風呂敷で包みながら、エリシアは荷造りを始めた。
「じゃ……またどこかで」
「えぇ!? ちょっと! 私の仕事は!?」
思わず詰め寄るミノタウロス。
しかし、エリシアは肩越しにぎこちなく振り向くと、心底どうでもよさそうな声で言い放った。
「履歴書なら……自分で書いてくださいましね……」
——ガチャ
ドアが閉まる音だけが、いつまでも耳に残っていた。
結局、ミノタウロスはあの湯気と香りの誘惑に勝てなかった。
財布の紐はゆるみ、紙袋は手に提げられ、551の豚まんはしっかり魔界の袋に収められていた。
——ブロロロ……
帰りの電車の中、誰にも気づかれないように袋を足元に置き、車窓の外を見つめるミノタウロス。
その顔には、ほんのり達成感と「別に欲しかったわけじゃないんだからな……」という妙な照れ隠しが滲んでいた。
そして魔王城、特務室。
——ガチャ
帰ってきたミノタウロスが、無言で紙袋を机に置く。
「……ただいま戻りました」
「ふふ……お帰りなさいませ」
エリシアはいつになく穏やかな口調で振り返る。
しかし、その視線が袋のロゴに触れた瞬間、目の色が変わった。
「……!? ちょ、ちょっと待ってくださいまし! なにその袋!」
ミノタウロスが口を開く前に、エリシアは身を乗り出して紙袋を凝視する。
「551……!? 551の豚まん!? 買ってきたんですの!? あの551を!? 牛のあなたが!?」
「いや、まあ……通りがかりで列ができてたので、つい……」
「ぎゃっはははははっ!! ちょっ……牛なのに……豚まん買ってくるとか……!なんですのその背徳感! ほんと……ズルい……ずるいですわ……!」
バンバンと机を叩きながら笑い転げるエリシア。
なぜそこまでツボに入ったのかは分からないが、
とにかく、笑いながら何度も何度も繰り返していた。
「牛が……豚まんを……ああ〜〜〜っ、お腹痛いっ……!」
「……」
ミノタウロスはただ静かに、湯気がまだほのかに残る紙袋を見つめていた。
自分でも、どこに地雷があったのかは、分からなかった。




