明るい選挙
国内某所。
老朽化した公民館のロビーには、仄かにワックスの匂いが漂っていた。
——ウィイイん
——パリ
機械から一枚の投票用紙が吐き出される。
「こちらの投票用紙を持って、あちらで記入してください」
白手袋の係員が抑揚のない声で案内する。
列は静かに進み、住民たちは各々の思いを胸に無言で並んでいた。
その列の中に、一人だけ異質な気配を放つ存在があった。
エリシアである。
「……」
鋭利なまなざしを前方へ送る。
目の前に立つ青年の手元に、彼女の視線が吸い寄せられた。
——チラッ
「……」
青年が持っていたのは、ボールペンだった。
「……」
エリシアは小さく目を伏せ、そっと息を吐いた。
その吐息には明確な苛立ちと、ほんの僅かな哀れみが混ざっていた。
投票用紙は、特殊な加工が施された紙である。
耐水性があり、折れ目がつきにくい。鉛筆での記入を前提に設計されており、
油性ボールペンではインクが乾き切る前に滲み、場合によっては他の票に転写される危険すらある。
だが、近ごろのSNSでは「不正を防ぐにはボールペンで書くべき!」という、根拠の薄い主張が拡散されていた。
確かに耳障りは良いが、現実の制度や物理的な特性を無視したそれは、誤解を助長するものに他ならなかった。
もちろん、宇宙一高貴で優雅な(自称)彼女が、その程度の話に惑わされるはずもない。
彼女は、真に正しき理を理解し、それを実行する知性と気品を兼ね備えている。
そして今、その知性が静かに地元青年に向かって、断罪の矛先を向けていた。
そして、ついにエリシアの順番が来た。
——ウィイイン
——パリ
機械が無感情に用紙を吐き出す。
その一枚を指先で丁寧に摘み取ると、エリシアは歩を進め、無言でカウンターへ向かった。
そこに腰を落ち着け、政党名を記入する手元の動きには、一切の迷いがない。
優雅に、そして正確に。彼女の筆跡は、まるで意志そのものの具現であった。
投票箱の前で一拍置き、用紙を静かに投入する。
「お疲れ様でした〜」
係員の声を背に受けながら足音を鳴らして通路を歩く。
——カツカツ
——コツコツ
その歩調には気品と抑制、そしてわずかに混じる達成感があった。
「……」
一度足を止め、列の方を振り返る。
——チラッ
何かを見た。……しかしすぐに視線を逸らす。
「……」
——チラッ!?
次の瞬間、エリシアの目が、あり得ないものを捉える。
綺麗に二度見。
「えぇ!?」
——と声が喉元まで出かける。だが、ここは公共の場。
——スッ
ぎりぎりのところで寸止めした。
「えぇ……」
口を押さえ、囁くように漏らした言葉は、すでに理性の限界を物語っていた。
行列の中にいたのは——
黒光りする極太のマッキーを握りしめた一人の男。
あろうことか、ペン先を空中で試し書きしながら、期待に満ちた笑みを浮かべていた。
(ウソぉん!? 投票用紙、極太マッキーで書くやつおるうぅ!?)
心の中で叫ぶ。叫びながら、彼女はそっと会場を後にした。
駐車場に戻り、車のドアを閉める。
——バタン
ハンドルに手をかけたまま、しばし無言。
エンジンキーに触れる指が、ぴたりと止まっていた。
ほんの30秒。されど、その30秒は、彼女にとって永遠にも感じられる思考の渦。
世界一高貴な脳が、極太マッキーの存在意義について、真剣に検証していた。




