美化に努めよ
魔王城・特務室。
——スウウウううぅ……
静まり返った執務室の片隅。
聞こえるのは書類をめくる音と、何かを滑らせるような柔らかな摩擦音。
「……」
ミノタウロスは手を止めずに書類に目を通しながら、ちらりと横目を向けた。
——スウウウううぅ!
「〜♪」
そこには、クイックルワイパー片手に機嫌よく掃除をしているエリシアの姿があった。
「る〜ん♪」
——スウウウううぅ……
彼女が押し出すたびに、床に落ちていた埃や髪の毛がドライシートに吸着されていく。
ワイパーの滑りは完璧。姿勢も無駄がない。
しかし——
ある程度拭き終わると、エリシアは手を止め、シートをぺりっと剥がす。
——ガサッ
「……」
そのままゴミ箱へ。何の躊躇もない。
(表面しか使ってない……)
ミノタウロスの脳裏に浮かぶ、一つの結論。
両面使える。
表を使い終えたら、裏返してもう一回。
それが庶民の知恵であり、事務所の節約であり、ドライシートの常識。
しかしエリシアはそれをしない。
当然のように、片面だけ使って捨てている。
まるで魚を裏返して食べない貴族のように。
もしくは、ポッキーのチョコところだけ齧って捨てるような暴挙。
そして二枚目。
——スウウウううぅ……
「〜♪」
何事もなかったかのように、また始まる“片面掃除”。
結果、吸着力は余っているのに、使用済み扱いでゴミ箱行きとなったドライシートたちが増えていく。
思わず、声が出た。
「エリシア殿」
「……?」
エリシアが手を止め、こちらを振り返る。
「クイックルワイパー……」
「……」
「裏返して使えますが……」
言い終わらないうちに、彼女は真顔になった。
「知ってますわよ」
「えっ……」
ミノタウロスの目が点になる。
その隙をついて、エリシアがゆっくりと息を吸い込んだ。
——スウウウゥ
「……あのねぇ」
口調は静かだったが、明確な殺意が混じっていた。
「表使ったら、ひっくり返すときに汚いところ触るでしょうが」
「……」
彼女は当然のように、当たり前のことを言う顔で続ける。
「私がそんな汚いところ触るわけないでしょ!」
「……」
ミノタウロスは反論できない。
言い返せる理屈はあるのに、なぜか声が出ない。
脳内で上司評価システムが“触れるな危険”と警告を発している。
「ていうか」
「……」
「オフィスの掃除はあなたの仕事でしょ?」
「……」
「何私にやらせてんですの」
「……」
——カラン
エリシアはクイックルワイパーの柄を、まるで“使用済み”の何かのように放り出した。
そして、何もなかったように出口へ向かって歩き始める。
——カツカツ……
「まったく……牛小屋じゃないんだから〜」
——バタン
扉が閉まる音だけが、重たく室内に響いた。
「……」
ミノタウロスは黙ってワイパーを拾い上げる。
——スウウウうううぅう……
静かに、床を拭き始めた。
「……」
今、彼は猛烈に反省していた。
いや、「モ〜」だけにとか、そういう問題ではない。
(言わなきゃよかった……)
キジも鳴かずば撃たれまい。
牛も鳴かずば撃たれまい。
そして、牛は今日も静かに働くのであった。




