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安宿での一夜

 フィレット王国領

 とある街にて。




 魔王城特務室のエリシアとミノタウロスは、とある用事のためこの街を訪れていた。




 その日の夕方。




 チェックインを済ませたのは、2階建てのこぢんまりとした宿だった。




 外観こそ古びてはいるが、真新しい宿よりも落ち着いた雰囲気がある。

 町外れの坂道沿いに建っており、裏手には小さな川が流れている。夏場は蛍も出るという。




 ミノタウロスは、てっきりエリシアが「ホテルじゃないと嫌ですの!やいのやいの〜!」などと駄々をこねると思っていた。




 だが、彼女は宿の受付カウンターで部屋の鍵を受け取ると、そのまま何の文句も言わずに歩いて行った。




(あれ……)




 期待というか、心構えが肩透かしに終わったミノタウロスは、とりあえず後を追う。




「ま、こんなもんですわね」




 フロント横の廊下で鍵を差し込みながら、エリシアがぽつりと呟いた。




「……」




 鍵の回る音が静かに響く。




 たまたまこの日は、冒険者のグループが何組か泊まっていたらしい。


 エリシアとミノタウロスに割り当てられたのは、二段ベッドが一つ置かれた狭い部屋だった。




 ——ガラッ




 扉を開けると、ほんのりと埃臭さが鼻を突く。

 けれども床や机に埃は積もっておらず、シーツも新しく取り替えられている。


 最低限だが、必要な清掃はされているようだった。




 その中で、エリシアは一切の躊躇なく、まるで忍者かと見まがうほどの素早さで、二段ベッドのはしごを登り上段に陣取った。




「あなた下ね」




 布団に入るや否や、上からぞんざいな声が降ってくる。




「はい」




 ミノタウロスは黙って下段の布団を整え始めた。




 その日の夜。




 夕食も入浴も済ませ、時刻は10時過ぎ。


 明日は朝から移動する予定。




「明日は早いしそろそろ寝ましょうかね〜」




 二段ベッドの上段に寝転んだまま、エリシアがスマホを見つめながら間延びした声で呟いた。




「そうですな」




 ミノタウロスは下段で相槌を打つ。


 その時だった。




 ——ドン!




「……?」


「……」




 二人は思わず上を見た。




 ——ドン!ドン!




 天井を突き上げるような鈍い音が連続して響く。


 二人がいるのは一階の部屋。音は真上、すなわち二階の宿泊客から聞こえてきた。




「誰ですの!?こんな時間にぃ〜」




 苛立ちを隠そうともしない声。




 エリシアはスマホの画面を下に伏せ、枕元に置いた。手首がわずかに震えているのは、怒りを堪えている証拠か。




「これはまた」




 ミノタウロスも眉間にしわを寄せたが、どちらかというと困惑気味だった。




 音がうるさいというより、何より厄介なのは、怒り狂ったエリシアが即座に階段を駆け上がり、相手を部屋ごと破壊しかねないことだ。




(この人、過去にも何度かやってるからな……)




 旅先だから大人しくしているとは、到底思えない。ミノタウロスは肩をすくめ、諦めの表情で天井を見つめた。




 ——ドン!ドドン!




 音はさらにリズムを増していく。


 何かが引きずられる音、跳ねる音、叫び声こそないが、夜更けに相応しくない騒ぎ方だった。




 ——ガバ!




 エリシアはベッドから跳ね起きた。

 その動きには一切の無駄がなかった。




「行きますわよ!ぶっ殺してやる!」




 彼女の表情は冗談ではなかった。明らかに本気だった。




「……」




 ミノタウロスは静かに立ち上がり、肩のホコリを払った。




(こりゃ終わったな)




 諦念と共にうっすらと目を伏せる。


 こういう時の彼女に助言は通じない。


 怒りの導火線が着火した後でできることといえば、後片付けの段取りを考えておくことくらいだった。




 また一人、「宿泊した事実ごと」消されるのだろう。




 ミノタウロスは、どこか遠い目をしながらエリシアの背後に続く。




「こんな時間に騒音とかマジありえねえですわ!ゴミですわ、ゴミ!」




 怒気をはらんだ声が階段の吹き抜けに反響する。


 彼女の足取りはもはや歩きではなかった。踏みしめるというよりは叩きつける。

 スリッパが可哀想になるような、ドスドスという暴力的な足音が宿の静寂を破壊していた。




 ——ドスドス




 エリシアは階段を乱暴に上がっていく。


 古い木造の建物にとって、それは地震のような衝撃だった。




 そして未だドンドンと音を立てている部屋の前に立ち、躊躇なく、というかそもそも躊躇という概念が存在しないかのように、ドアを当たり前のように蹴り飛ばした。




 ——バッギャァ!




 金属と木が共に悲鳴を上げる。


 蝶番の一本がもげた音が確かにした。ドアは壁にぶつかりながら半開きになり、中の空気が一気に廊下に吹き出す。




「コラァ!うっせえですわ!」




 怒声が廊下に響き渡る。


 扉が軋んだ音を立てて壁にぶつかったまま、情けない風に開きっぱなしになっている。




 部屋の中では、上半身裸の男が筋張った腕をぶらりと下げ、困惑したように立ち尽くしていた。




 腹筋は見事に割れているが、顔は完全に気後れしている。




「……」




「なんとか言えや!」




 言葉を叩きつけるように吐き、エリシアは仁王立ちのまま男を見上げた。視線はナイフのように鋭く、床板を震わせる勢いだ。




「え、あ、いや」




 狼狽する男。




 その隙を逃さず、エリシアはパジャマのズボンの腰からリボルバーを抜き取った。




 ——スチャ




 鉄の摩擦音。構える動きに一切の迷いがない。




 ——パン! パンパン!




 乾いた銃声が廊下に三度弾けた。火薬の匂いと共に、弾丸が男の耳元すれすれを通過して壁を抉る。




「ひ……ひいい!」




 音よりも速く膝をつく武闘家。顔は蒼白、目は涙目、体中から冷や汗を噴き出している。




「だから、こんな時間までドンドン何やってますの!?」




 叫びは怒りというより、呆れに近い。だがその威圧感は変わらず。




「す、すいませんでした!」




 無様に土下座しかける勢いで頭を垂れる男。エリシアの表情は変わらない。




「すいませんじゃなくて、何やってたか聞いてんですの!」




 語尾に釘を刺すような語気。


 武闘家は舌をもつれさせながら、震える手で胸を押さえた。




「実は……」


「……」






「飛び蹴りの練習をしてまして……」






 瞬間、後ろで黙っていたミノタウロスが顔を上げる。目をぱちくりとさせ、口を半開きにした。




(え、ここで?この時間に?なんで飛び蹴り?)




 部屋の天井の低さ、防音のなさ、床のミシミシという音、すべてを無視して行われた飛び蹴りの練習。


 もはや狂気である。




 と、次の瞬間——




「……」






 ——ニコ!






 満面の笑みへと一変するエリシア。




 リボルバーをスッと腰に戻し、気さくな口調で言った。




「あ、飛び蹴りのねぇ……!練習でしたのね!」




「はい……もう少しで掴めそうでして」




 眉尻を下げて、か細い声で応える武闘家。


 ミノタウロスはその様子を呆然と見ていた。目を丸くし、鼻息すら忘れていた。




(何を掴むつもりなんだ……?)




「飛び蹴りなら仕方ないですわね〜」




 無邪気に許すエリシア。武闘家が、安堵した顔で言葉を継ぐ。




「すいませんでした。……あともう少しだけ!12時までやらしてください」




 彼が言い終わらないうちに、エリシアはくるりと踵を返した。


 そして肩越しに、明るい声で。




「はいはい。飛び蹴りね〜、いいですわよ〜」




 足取り軽く部屋へと戻っていく。その背中には怒気も圧も、もはや微塵も残っていなかった。




 静かに帰っていき、ベッドに登るエリシア。




 ミノタウロスが目の前で見たはずの“銃撃騒動”は、まるで夢か幻だったかのように、何の余韻も残さずに布団の中へと消えていった。




 ——ガサゴソ




「さ、寝ますわよ」




 無駄に可愛い声でそう言うと、エリシアは満足げに鼻を鳴らし、ブランケットを肩まで引き上げた。




 ——ドン!ドン!




 その瞬間も階上からは相変わらずの打撃音。

 だが彼女はそれに一切触れることなく、目を閉じる。




「……」




 ミノタウロスはしばし放心した。






 ??????

 ??????






 あまりに情報量が多い。

 というか、矛盾と理不尽が多すぎる。




「グースカピー……グースカピー」




 ぐっすり眠り始めたエリシアを、下段から見上げながら、彼は小さく声を漏らした。




「いや、なんで?」




 誰に問うでもない呟きだった。


 今更「?」がいっぱい出てくる。




 なんで飛び蹴りの練習?

 なんで許された?

 飛び蹴りならいいのか?

 じゃあスクワットは駄目なのか?

 踵落としも駄目なのか?




(そもそも、こいつ……じゃなくてエリシア殿は一体何なのか?)




 明らかに常識を逸脱しているのに、なぜか一部の人々は彼女の言動を「まあ、あの方ですから」で済ませる。


 いや、済ませてはいけないのでは? そうじゃないのか?




「……」




 人間なのか?


 飛び蹴りなら音立ててもいいという基準はどこから?


 ていうか魔術師だろ、こいつ……じゃなくてエリシア殿は。


 なんでリボルバー?




 そんな疑問が頭の中でループする。




「……」


「グースカピー……グースカピー……」




 軽く寝返りを打つ気配。

 それすらも堂々とした寝相に感じるのが不思議だった。




 ——ドン!ドン!




 再び天井から響く飛び蹴りの音。




(……)




(てか、エリシア殿に殺されかけてるのに「12時までやらして」って……あいつも何なんだ?)




 そんな思いを抱きながら、ミノタウロスは布団を頭まで引き上げた。




 一睡もできなかったミノタウロスだった。



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