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フリー・ボート

 ルクレシア王国領、西方の街グレイヘイブン。


 フィレット教国との国境に近い、小ぢんまりとした街だ。




 特に何かがあるわけでもない。

 温泉もなければ名産もない。


 人の数はそこそこ。活気は……まあ、あればいいなという程度。


 田舎すぎるわけでもなく、かと言って栄えているわけでもない。




 そんな街で、一人の青年がいつものように買い物袋を下げて歩いていた。




 ——ちらっ




 スーパーの並びにあるアンティーク雑貨屋。

 いつからあるのか分からない店で、年中閉まっているような気もするし、たまに開いてる気もする。


 その店のドア脇、やけに汚れた窓ガラスに、ふわふわと一枚の紙が貼ってあった。






【いらないボート、譲ります】






「……」




 立ち止まる青年。

 思わず目を凝らす。


 ゴシック体のフォント。日焼けしたコピー用紙。




 しかもお金は取らないらしい。




「ボートかぁ……」




 青年の胸が少しだけ躍る。


 ここグレイヘイブンはアルセールでも随一の内陸地。

 広い川はあれど、海なんてものはほとんど縁がない。


 彼が最後に海を見たのは数年前。

 友人と奮発して行った南方の島で、真っ青な海に胸を打たれた記憶がよみがえる。


 潮の匂い。焼けた砂。沈む夕日。




「……」




 青年は、紙をそっと剥がした。




 ——ペラッ




【早い者勝ち!この紙を持参してください!】




 裏面には走り書きの住所。

 それはサンセット街の、とある住宅だった。




「サンセットなぁ……」




 思わず呟く。


 高速バスで数時間。馬車でも行けるが、宿代込みとなるとかなりの出費になる。




 歩いて?


 いやいや、無理だ。

 街道を外れれば、魔族や野盗に襲われるかもしれない。

 運が悪ければ、森で野犬に噛まれて発熱して終わりだ。


 けれど。




「ボートなぁ……」




 何に使うかはわからない。

 だが、男の心に灯がともる。


 冒険の火ではない。

 所有欲だ。

 そしてロマンだ。




 風に揺れる紙切れを、ぎゅっと握りしめた。




 青年は悩んだ。

 来る日も、来る日も。




「……ボートかぁ」




 洗濯物を干しながらも考える。

 朝のスープを啜りながらも考える。

 歩きながら電柱にぶつかっても考える。




 ボートがあれば、きっと漁ができるだろう。


 港町ポロットに引っ越して漁師になるか……。いや、遊漁船にして観光客を乗せるのもいいかもしれない。




 空想が広がる。




 ——ホワンホワンほわ〜ん




 港町ポロットの港。

 水面に反射する陽光が、ゆらゆらと揺れる。


 ボートが一隻、帆を上げて港を出ていく。


 晴天。風は穏やか。空には雲一つない。


 1匹のカモメが船の先端に止まり、クワッと鳴いた。


 船の中央には簡素なビーチチェア。そこに寝そべるのは青年。


 片手にはコーヒー。もう片手には、やや湿った文庫本。

 開かれているページは、なぜか中盤のまま進んでいない。




 ——ジャランジャラン♪




 気が向くと、ふらりと起き上がり、船首に立ってバンジョーを鳴らす。

 意味もなく。ただ気分で。


 あたりには誰もいない。

 波の音と、風の音。そしてバンジョー。




 ——ホワンホワンほわ〜ん




「……」




 夢想から戻ってきた青年は、何もない通りに立ち尽くした。




「ボートかぁ……」




 買い物袋が手からずるりと滑り落ち、ネギが半分飛び出した。


 風が一枚のレシートを舞い上げる。




 ——ヒュ〜




 ボート。

 それは手に入るのだろうか。

 そして、どこへ運んでくれるのだろうか。




 日が経つにつれ、青年の「ボート欲」は日に日に高まっていった。




(やっぱボートだよなぁ……)




 もはや目を閉じれば水平線。

 鼻腔には潮の香り、耳には波の音が勝手に再生される。

 家の水道から出る水の音すら、もはや波しぶきのように聞こえていた。




 そんな中、青年が考えた手段はヒッチハイク。




(もしサンセットに用事がある人がいれば、乗せてもらえないだろうか……)




 地道に金を貯めて行くには時間がかかりすぎる。

 ボートは早い者勝ちだ。今すぐ動かないと、誰かに持っていかれてしまう。


 青年は決意し、街道沿いにあるスーパー前の道へと立つ。

 自作のボードには、手書きでこう記されていた。




【サンセットまで】




 思いのほか達筆だった。




 ——スッ




 親指を立てる。

 あまり意味があるのかは知らないが、映画ではだいたいこうしている。




 時間が経つ。


 1台、また1台と、荷馬車、トラック、バス、そして人力車までもが通り過ぎていく。


 どの車も止まる気配はない。




「……ふぅ」




 日差しがじわじわと皮膚を焼いていく。

 道の端に咲くタンポポが、やたらと生き生きとして見える。


 このご時世、見知らぬ人間を乗せてくれる奇特な人間など、そうそういない。




(あと1時間粘ってダメなら、諦めよう……)




 決意の延長線。


 そして、時が30分ほど流れた頃。




 ——ブウウウううぅ……




 遠くから、やけに低く唸るようなエンジン音が聞こえてきた。




 一台の黒塗りの高級車。

 ホイールはピカピカ。ボンネットにやたらと反射する光。




(まさかな……)




 だいたい、ああいう車は絶対に止まらない。




 青年はそう思いながらも、目が合った“気がした”。


 運転手の目はサングラスに隠れていたが、視線だけははっきりと突き刺さったような気がした。




 ——ブウウウぅ……




 エンジン音がゆっくりと落ちていく。




 ——キュッ




「えっ……?」




 静かに、しかし確かに、その車は青年の目の前で止まった。


 思わず、ボードを抱えたまま近づいてしまう。




 ——ウィイイイイイィンん




 助手席側の窓が、まるで演出のようにゆっくりと下がっていく。




「……」




 そしてそこに現れたのは——






 全身がメタリックシルバーの男。






 サングラスの奥から、獲物を値踏みするような目が覗く。




 ——ニタァ




 口元だけがにやりとほころぶ。




(ヤバい人を止めてしまった……)




 直感が、脳を突き刺した。

 目の前にいるのは、どう考えても「善良な旅人」ではない。




「乗れよ」




 一言。


 静かすぎて逆に重い言葉だった。




 青年の指が震える。

 戸惑いと恐怖が入り混じったまま、手が勝手にドアノブへと伸びていく。




 ——ちらっ




 その時、目に入ってしまった。


 ドリンクホルダーに置かれた、それ。




 銀のフレーム。太いグリップ。

 シリンダーに収まった6発の弾丸。




 リボルバー式の拳銃だった。




「……」




 乗るべきではない。

 すべての直感がそう告げている。




 だが、次の瞬間。




 銀色の男ヴァイは、無言のまま、その拳銃をひょいと掴むと運転席側へとポン、と置き直した。


 まるで「気にするな」とでも言うように。




「……」




 沈黙の数秒。

 青年は汗だくのまま、じっと立ち尽くしていた。


 だが、どこかで何かが壊れた。




(……ボートのためだ)




 次の瞬間。




 ——ガチャ




 青年は、乗った。




 ——ブウウウウウゥン




 低く唸るエンジン音が一気に高まり、黒塗りの車は地を這うように加速する。




「……」




 助手席の青年は、シートベルトをぎゅうっと握りしめながら沈黙していた。

 メタリックな男、ヴァイは一言も発さず、ただ真っ直ぐ前を見つめている。




 音楽もかかっていない。

 窓も開いていない。


 空調の風が静かに足元を撫でているだけ。




(……喉が……)




 沈黙が重すぎた。

 空気がぬるく重く、まるで室内に沈んでいくような圧を感じる。


 思わず青年は喉を鳴らした。




「実は……これが……」




 声は掠れ、まともに言葉にならない。

 乾いた唇を舌で湿らせながら、彼は鞄から一枚の紙を引っ張り出す。




 ——パラ




 あの紙切れだ。




【いらないボート、譲ります!】




 住所も添えられた簡素なチラシを、彼は無言で運転手に差し出す。

 まるで免罪符のように。




 ——チラ




 ヴァイは横目で一瞬だけそれを見て、何の反応もなく視線を前方に戻した。




「そうか」




 返ってきたのは、それだけ。


 まるで「君がそう思うならそうなんだろうな」という哲学者のような返答。




「……」




 もう話す勇気はなかった。


 代わりに、青年は心を逃がした。


 脳裏に浮かぶは理想の未来。




 ——ホワンホワンほわ〜ん




 透き通るような海の上。

 エンジン音もなく、風だけが音を運ぶ午後。


 青年は小さなボートの上で釣り竿を握っていた。

 竿の先がぴくぴくと震え、次の瞬間——グググッ!




「きた!」




 たわむライン、強く引く魚。

 汗をかきながらも楽しげな笑顔。

 そして、—人の胴体ほどある巨大魚を釣り上げ、歓声を上げる未来の自分。


 別の日、ボートの上には仲間がいた。

 なぜか気の合う友人たちが自然と集まり、船上で缶ビールを片手に語らう。




「いや〜あの時の店主がさぁ!」




 どうでもいい話。くだらない笑い。

 でもそれが最高の贅沢。


 またある日は、観光船に早変わり。

 南の島に向かう観光客を乗せ、彼は船長のように舵を取っていた。




「本日はご乗船、誠にありがとうございます〜」




 マイク越しの声が風に乗り、陽気な観光客の笑い声が船に響く。

 ボートは夢を乗せ、波間を滑っていく——




「……ぞ」




「……」




「おい」




 ——ドン




 右肩を軽く小突かれる。




「うわっ」




 現実に引き戻され、思わず短く声を上げる。




 窓の外に目をやると、そこはサンセット街の富裕層エリア。


 大通りから一本入った、手入れの行き届いた高級住宅街。

 芝が刈り込まれ、門の装飾にすら金がかかっている。




 一軒の屋敷の前で車は止まっていた。




 ——くい




 ヴァイが顎で「降りろ」と合図する。




「あ、ありがとうございます!」




 あまりにもスムーズに体が動いていた。




 ——コンコン!




 曇りガラスのはめ込まれた重厚な扉に、ライオンの形をした真鍮のノッカーが打ち鳴らされる。

 まるで王族の館のような気品と重量感。




 ——ガチャ




 扉がゆっくりと開き、そこから姿を現したのは、やや仰々しいほどに優雅な女性だった。

 細長い眼差しが鋭くこちらを射抜いてくる。




(……これが“エリシア”)




 表札の名と一致したその存在感に、青年は思わず喉を鳴らす。


 だが、彼女の視線は明らかにこう言っていた。




(……また羽毛布団の押し売りかしら)




 ——ジイイイぃ




 まるで数秒で信用スコアを測定するような目で、青年の頭のてっぺんから足元までを舐めるように見下ろしてくる。




「……」




 気まずすぎる沈黙。

 早く何か言わなければ、この空気に押し潰される。




「あ、あの!」




 掠れた声でしぼり出すように話しかける。




 ——パラ




 持参したチラシを必死に差し出した。




【いらないボート、譲ります!】




 エリシアはその紙に目を落とす。




 ——ジイイイイイィ




 ドアの隙間からじっと読み込み、ようやくその内容を思い出したらしい。




「あぁ!ボートですわね!」




 声のトーンが一気に切り替わった。

 まるで買い物リストの一項目を思い出した主婦のようなテンション。




 青年が何か返す前に——




 ——ガチャン




 無言でドアが閉められた。




「……」




(一応、間違ってなかったよな……?)




 一瞬不安になる青年。

 しかしすぐに——。




 ——ガチャ!




 またドアが開く。




「そっちの……ガレージのシャッターの前で待ってておくんなまし!」


「あっ、はいっ!」




 通りの端を指差して、彼女は小さく手を振った。

 言われるがままに駆け足でそちらへ向かう。


 確かに大きなガレージがあった。

 シャッターには塗装が剥げた箇所もあり、どことなく使い込まれた風合い。




(ここに……ボートが……)




 胸が高鳴る。

 夢にまで見た自分のボートが、今まさにシャッターの向こうに。




 ——ゴウンゴウンゴウン……




 電動シャッターが、ゆっくりと音を立てて巻き上がっていく。

 中の様子はまだ見えない。だが、その先にある“未来”だけははっきりと見えていた。




 ——ドキドキ




 ——ワクワク




(ついに……!)




 胸の高鳴りが鼓膜に響く。

 幼少の頃、クリスマスの朝にプレゼントを開ける前のあの気持ちに似ていた。




 普通なら高額で到底手が出ないはずのボート。

 しかも“無料”で、“譲ります”だなんて。


 ありえない。何かの間違いか、はたまた奇跡か。




 グレイヘイブンの片隅で見つけた一枚のチラシ。

 半信半疑でサンセットへ向かう決意をしたあの日。


 そして止まるはずのなかった高級車。


 全てが一本の線になって、この瞬間に繋がっている。




(こんなこと……本当にあるんだな……)




 ——ゴウンゴウンゴウン……




 シャッターはついに、完全に開いた。




 ——そしてその後。




 なぜか待ってくれていたヴァイ。




 ——バタン




 乗り込む青年。

 ついでだからとグレイヘイブンまで送ってくれるらしい。




 車は静かに発進し、サンセットの街を後にする。


 助手席で沈黙する青年と、前方だけを見据えるヴァイ。






 助手席の膝の上には、慎重に両手で抱えた「プラモデルのボート」




「……」




 ——ブウウウうううぅん




 ひたすら前を見続けるヴァイ。


 心なしか、横顔が「よかったじゃねえか」と言っている気がした。




「……」




 青年はただ、膝の上のボートを見つめていた。



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