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ある小説より

 私は今、宮城県で生活しているが、育ちは広島だった。

 生まれたのも広島で、そこから十数年を過ごした。




 両親は共働きで、私はいわゆる「鍵っ子」だった。


 小学校から帰ると、誰もいない家の鍵を開け、自分で制服を脱いでランドセルを置き、テレビをつけるのが日課だった。


 男として生まれたが、周囲の人が言うには「お母さん似」らしい。

 たしかに昔の写真を見ると、目元や口元の柔らかい線は母に似ているようにも思う。




 父は、家ではほとんど口をきかなかった。




 いつもリビングの決まった位置に座り、新聞を広げているか、黙ってテレビを見ているか、そのどちらかだった。

 何度か学校のテストを見せたことがあるが、父はいつも同じ言葉を返していた。


「おう、頑張れな」


 それ以上の感想はなく、表情も特に変わらなかった。




 母は仕事から帰ると、すぐにキッチンに立ち、料理や洗濯を慌ただしくこなしていた。




 夕食の支度をする傍らで洗濯物をたたみ、炊飯器を確認し、味噌汁の味を見ながら私に声をかける。




「ご飯遅いよ」

「早くお風呂入りなさい」

「明日の準備は終わってるの?」




 そうした細かいことを巡って、よく叱られていた。

 口うるさいと思うこともあったが、それが母の“普通”だったのだろうと思う。




 祖父母には、実はほとんど会ったことがない。




 母方の祖父は、私が生まれた時にはすでに亡くなっていた。


 祖母の家には何度か連れて行ってもらった記憶があるが、いつも「畑仕事が忙しいから」と言って、あまり相手をしてもらえなかった。


 古い座敷にぽつんと座っていた時の、ちょっとした寂しさを今でも覚えている。


 父方の祖父母については、両親が「病気で体調が悪いから、行っても迷惑をかけるだけ」と言って、結局一度も会わせてもらえなかった。




 あの頃の私は深く考えなかったが、今になってふと、「本当にそれだけの理由だったのだろうか」と思うことがある。




 結局、どちらの祖父母も、私が高校に進学する前に亡くなってしまった。

 通夜や葬式には行くのかと内心で考えていたが、両親はこう言った。




「あったことない親戚も多いし、あなたが気を使うだろうから、家にいなさい」




 その言葉を今でも覚えている。

 淡々としていたけれど、それ以上のことは聞きづらい空気があった。


 家に残され、なんとなくテレビをつけたまま静かに座っていた時間を、ぼんやりと思い出す。




 高校に進学し、やがて受験シーズンを迎えた頃。




 学力と家計のバランス、そしてアパートの家賃など、現実的な条件がいくつも重なって、最終的に東北の大学へ進むことになった。


 両親も「そこがいいんじゃないか」と強く勧めてくれた。




 私が今、宮城県民であるのは、そうした流れからだ。




 大学に合格したときは、家族みんなで心から喜んだ。


 普段は外食なんてほとんどしなかった我が家だったが、その日ばかりは近所の焼肉屋に行った。

 煙がもうもうと立ちこめる中で、母はビールを飲み、父はいつもより口数が少し多かった。




 東北での一人暮らしが始まってからは、アルバイトをしながら家賃や光熱費を自分でまかなう生活。

 学業と生活費のバランスを取りながら、地道に日々を送っていた。


 大学を卒業し、宮城県内の中小企業に内定をもらったと両親に伝えたとき電話口の向こうで、父も母も、言葉少なに、それでも本当に嬉しそうに笑っていた。




 直接は会えなかったけれど、その声のトーンから、確かに喜んでいるのが伝わってきた。




 仕事にも慣れてきて、私生活も安定した。




「便りが無いのは良い便り」とはよく言ったもので、私はほとんど両親に電話をかけることもなかった。


 もともと家族との連絡は少ない方だったし、仕事は忙しかったし、同僚との飲みや休日の誘いもそれなりにあって、日々の中に埋もれていたのだと思う。




 たしか、数年前のことだろうか。




 仕事の関係で広島の現場にひとりで出張に出る機会があった。




 実家まで、そう遠くなかった。




 私が生まれ育った家は借家だった。


 まだ幼かった頃は、綺麗で、やけに広々としていた記憶がある。

 廊下の角を曲がったところに台所があって、ガラス戸越しの光がやわらかかったのを、今でもぼんやり覚えている。




 せっかく近くまで来たのだし、ちょっとしたサプライズのつもりで、ふらりと実家に立ち寄ることにした。




 カーナビに従って、狭い路地を抜け、見慣れた家の前に車をつけた。






 玄関の前には、なぜか家具や家電、詰められた段ボールの山が並んでいた。






 最初は「断捨離かな」と思った。あるいは年末の大掃除だろうか。


 そう思いながら車を降りると、タイミングよく玄関から母が出てきた。

 段ボール箱を両手で抱えていて、足取りは急いでいるようだった。




 目が合った瞬間、母はギョッとしたような顔をした。

 一瞬、表情が固まっていた。


 まあ、久しぶりに突然顔を出せば驚くだろう。

 そう思って私は特に気に留めず、軽く手を挙げた。




「仕事でこっちに来てて、ついでだから寄った」




 そう伝えると、母は段ボールを下ろしながら、どこかバツが悪そうな顔で言った。




「あぁ、ごめんね。ちょっと今忙しくて……」




 ほんの少し、声が上ずっていたように思う。


 でも私はというと、何年かぶりの実家にテンションが上がっていて、母の様子よりも懐かしさのほうが勝っていた。




 だからそのまま玄関を抜けて、靴を脱いで、ずかずかと家の中に入ってしまった。


 すると——

 そこでは、家中の荷物が、きちんと、整然と、段ボールにまとめられていた。


 台所も、リビングも、押し入れも、ほとんど空っぽだった。




 理由を尋ねると、母は少し黙ってから言った。




「貸主の都合で、この家を売ることになったの。だから、引っ越さなきゃいけなくなってね」




 新居も決まっていて、父は今、軽トラを借りて荷物を何度かに分けて運んでいるところらしい。

 たまたま、私が訪ねたその日が、ちょうどその引っ越し作業のまっただ中だった。




 いそいそと準備を続ける母の背中を背後に、私はかつて自分の部屋だった場所に足を踏み入れた。




 ドアを開けた瞬間、ふっと埃の匂いが鼻をかすめた。


 久しぶりに吸う、実家特有の空気。だが、それは懐かしさというより、どこかくすんだ思い出の匂いだった。


 子供の頃の記憶がほとんどだったからか、思ったよりも狭く感じた。

 あんなに広く感じたこの部屋が、いま見ると六畳あるかないかの箱にしか見えなかった。


 部屋の中は段ボールでいっぱいだった。

 足の踏み場もなく、ものが天井まで積み上げられ、壁も床もほとんど見えない。


 奥には、私がかつて勉強していた机があった。




 木目の角は削れ、表面には傷が走り、「粗大ゴミ」と書かれたシールが斜めに貼られている。




 その横には市の指定ゴミ袋がいくつも山積みになっていた。




 ——ガサ




 何気なく、そのうちの一つの袋をめくって中を覗いた。




「……」




 中には、ふかふかの手触りの小さなケースがあった。


 手に取って開けてみると、そこには銀色の指輪がひとつ、ぽつんと入っていた。

 装飾もない、シンプルなデザイン。大人の女性が日常的につけるような、そんな指輪。


 もう使わないから捨てたのだろうか。




 気になって、さらに袋の中を漁っていく。




 ——サラ




 何か上質な厚紙が見えた。どこかで見覚えがある。

 取り出して裏返してみたが、ただの色あせた厚紙だった。

 何かの台紙か、フレームの裏か……はっきりとは思い出せない。




 さらに別の袋を探る。




 そこには、ビリビリに破かれた光沢紙の欠片がたくさん詰められていた。


 ひとつ摘んで、光にかざして眺めてみる。




「……」






 それは、子供の頃の私の写真だった。






 思い出した。小学校の運動会のとき。父と母が見に来てくれて、終わった後にみんなで撮った集合写真。

 もう一枚は、熱海に旅行した時の写真。浴衣姿ではにかんだ自分と、後ろに写る母の笑顔。


 すべてが、綺麗に破かれ、捨てられていた。




 私はその場にへたり込むように座り込んだ。

 頭が空っぽで、何も考えられなかった。

 ただ、手の中の破れた写真の断片をじっと見つめていた。




 ふと、背後に気配を感じて振り返る。






 そこには、無表情の母が立っていた。






 口も動かさず、目だけでこちらを見ていた。




 そこから先の記憶は、もう曖昧だ。


 ただはっきりと覚えているのは車で15時間アクセルを踏みながらひたすら無言で北へ向かったこと。


 宮城の自宅の駐車場にたどり着き、エンジンを切った瞬間、私は静かに涙を流していた。

 それは声も出ない、ぽたぽたとこぼれ落ちるだけの涙だった。




 あれ以来、両親とは一度も連絡を取っていない。




 引っ越し先も聞きそびれたが、もう聞く気にもならなかった。


 電話帳に残っていた番号は、一年ほど放っておいたが、結局確認することもなく削除してしまった。




 けれど、最後に見た母の姿を、私は今もぼんやりと覚えている。


 左手の薬指に、いつもの銀色の指輪をはめていた。確かに。

 それは子供の頃から変わっていなかった。




 それっきり、私はこの出来事を、少しずつ少しずつ忘れていった。






 ——というホラー小説を読んでいたエリシア。






 薄暗いランプの下、ページを閉じた指先がわずかに震えていた。

 描写が淡々としていたせいか、かえって余韻がじわじわと染み込んでくるような読後感だった。




「ふぅ」




 ——パタン




 文庫本を閉じて、枕元に置く。




 時刻は深夜2時。

 窓の外は静まり返っていて、虫の声も、風の音も、何も聞こえない。




(巣立つまでは親、か)




 エリシアは天井を見上げながら、ぼんやりと思った。

 それは、呟きにもならないような内声で、自分の中にだけ響いていた。


 小さく首を振って、布団にもぐり込む。

 毛布の隙間から冷気が入り込み、背筋を一筋撫でていく。


 それでも、眠気はすぐには来なかった。

 読んだ内容がどうにも、胸のどこかに小骨のように引っかかっていた。




 そして静かに、眠りへと落ちていった。



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