第85話 菜々子さん
『明日は午後から事務所行くから、朝はゆっくりだ』
やることやった(言い方が露骨)深夜零時。晄矢さんは、バスタブの中で満足そうにそう言った。僕は十時からバイトだよ。
というわけで、まだ爆睡する晄矢さんをベッドに残し僕は一階に下りた。立花さんには八時出発をお願いしてる。
「おはようございます。相模原様、朝食のご準備できてます」
おっと二宮さんだ。彼女は昨夜いなかったな。
「おはようございます。先日は色々お世話になったのに、黙って帰ってしまって……」
「いえ。私はなにも。それより……本当に出て行かれたので驚きました」
彼女は僕に、『自分なら、石に噛り付いてもこのポジションを守る』と言ったのだ。
「んー。まあ僕は、もし実力が見合ってても、城南法律事務所に所属する気はないからなあ」
「でも晄矢さんとはお別れにならなかった」
「そういうことだね……それは僕もある意味驚いてるけど……あ、でも朝食って頂いていいのかな」
「もちろんです。相模原様はお客様なのですから。ちょうど菜々子様も召し上がってますよ」
あ、そうなんだ。昨日は全く話せなかったから、少し話したいかも。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく頂きます」
二宮さんに関しては、ちょっと当たりが怖かったけど、思った以上に普通で安堵した。僕って本当に小心者だな……。
「菜々子さんは、輝矢さんとどこで知り合ったんですか? あ、もちろん差し支えなければ」
朝の挨拶を交わし、大学の話なんかしてから僕は尋ねてみた。気になってはいたけど、普通に世間話のつもりだ。
「はい、大丈夫ですよ」
夏休みだから祥一郎君も家にいる。ただ、彼は既に食べ終えて、リビングでテレビを見ていた。
菜々子さんは、輝矢さんより少し年上とのことだったが、若々しい人で二十代と言われても無理はない。水色の涼やかな、ノースリーブワンピースを着ていた。
「輝矢さんとは、私が巻き込まれた事件のことで知り合いました」
「ああ、そうなんですか。それは……」
ありそうなのに考えてもいなかった。これは迂闊だったかな。菜々子さんはなにかの事件の被害者だったのかもしれない。
「私というか……前の主人なんですけどね……交通事故……即死事故だったんですが」
――――えっ? なんて?
「加害者が主人に過失があったと言い出して……保険会社に紹介いただいたんです」
ちょっと待て……菜々子さんはバツイチじゃなかったのか? ご主人、亡くなってるの!? これは一体、どういうこと!?
何か言わなきゃいけない。でも僕は混乱のため、受け答え不能に陥ってしまい、意味なく口をパクパクさせるだけだった。