第84話 お互い様
あの時の僕は、あの場違いな世界から逃げ出したいのが大きかった。いくら好きな人でも、施しを受けて弁護士を目指すのは違うとも思っていたけれど。それをきちんと伝えられなかったのは、あのまま晄矢さんとの恋に溺れてしまうのが怖かったからだ。
「涼が城南家を出ても、俺たちの関係が終わるわけじゃなかったのに。このまま手放したら元には戻れない。おまえまで俺を置いていくのか。そんなふうに思って」
僕はあの夜、最後に晄矢さんをトンと突いた。いつも逞しい胸板が、まるで枯れ葉のように軽く感じた。今度は僕の胸が痛む。
「だから、何とか引き留めようと。馬鹿だよな。あの、金持ち根性丸出しな傲慢な俺。あれが俺の本性かもしれん」
「そんなことない。僕がちゃんと話さなかったから……。それに、どうせ住む世界が違うってひねくれてたんだ」
僕の気持ちを金で買うつもりか。僕の気持なんかわかるものかって。そりゃ、話しもしないでわかるわけないよね。お互いが、お互いの都合でしか考えていなかった。
「何言ってんだ。涼は少しも悪くない」
晄矢さんはがばっと体を起こし、僕を自分の方へ向けた。
「涼、こんな俺でもいいか? 俺は人類みな平等みたいな面して、実は鼻持ちならない奴かも」
「そ……そう思ってるなら大丈夫だよ……僕だって、頑固な生粋の貧乏性だし。お互いさまだ」
僕らは数秒見つめ合う。なんだか可笑しくなってきた。多分、晄矢さんも同様で。どちらからともなくくすくすと笑いだした。そして、引き付けられたように唇を重ねた。
『あいつ、馬鹿なこと君に言ってしまったって、随分後悔してるんだ。帰したくない一心だったんだと思うよ』
いつか、輝矢さんが僕に言ったこと。こういうことだったんだな。輝矢さんも晄矢さんの気持ちわかってたんだ。
思わぬ晄矢さんの告白を聞いて、僕は色々なわだかまりが溶けていくのを感じた。
僕を居酒屋で見初めた? のは、正直釈然としないところはあるけど、喧嘩を納めたのは僕も覚えてる話だ。そのあと、調査員に調べさせたのは、やっぱりやり過ぎと思うけど。
――――まあ……結果オーライってことにするかな。
「涼……」
腕の中にいる僕に、晄矢さんが声をかける。僕は顔を上げた。優しい眼差しが注がれてる。
「ベッド、行こうか」
「え……ま、まだ寝るの早くない?」
まだ10時だよ。
「寝る前にやることあるだろ?」
やることって……まさか読み聞かせなんかじゃないよね。言いたいことを話してすっきりしたのか。切り替え早すぎないか?
「でも……えっと、今日、事務所でも……したよ?」
事務所のバスルーム。僕は自分の恥ずかしい姿を思い出し、思わず赤面する。
「ああ、あれ? そうか。で、なんか問題ある?」
ふっと息が漏れる。鼻で笑われてる。
「問題は……ありません……」
「ん、じゃあ、いいね」
晄矢さんはがさっと立ち上がると、僕の膝の下に腕を入れ、勢いよく抱き上げた。世に言うお姫様抱っこだ。
「うわ、わあ」
驚いて晄矢さんの首の後ろに両腕を絡ます。すぐそこに、満足そうな顔が……。
「昼間のなんか前戯にもなんないし」
右側の口角を上げ、そう言い放つ。
――――そうですか……はい。
さっきまでの胸に迫る回顧録はなんだったんだろう。再び豹変した晄矢さんは、意気揚々として僕を寝室に連れ込んだ。