第76話 バスルーム
気になっていたことを聞き忘れたけど、これからいつでも会えるし聞ける。そう思ったらなんでもなかった。
僕はこの日、これまでにないくらい集中して勉強できた。3年生のうちに予備試験を突破してみせる。今回の二人の姿が、僕に未来を見せてくれた。この道を選んで良かったと心から思ってる。
帰省がいよいよ来週に迫ってきた。夜行バスで帰る。そっちには早朝に着くとばあちゃんには伝えてある。正月以来だから楽しみだな。
――――ところで。晄矢さんのこと、どこまで話そう。
内緒にしててもばあちゃんは鋭いからなあ。いやあ、照れちゃう。
その晄矢さんなんだけど、今日はこれから城南法律事務所に行く。
秘書さんやパラリーガルさんたちも交代で夏休みを取るから人手不足なんだって。こちらも久々で嬉しいや。
ガラス張りのエントランスを抜け、吹き抜けのロビーに出る。ここは商業施設なので、ブティックやレストラン街になってるんだ。
そこから事務エリアへ抜けて専用エレベーターで10階へと上がる。
――――約ひと月ぶりか。なんだか緊張するな。
スーツは城南家に置いてきちゃったから、今日は大学やバイト先に行ってる服で来てる。非常に場違いな感じで13階の晄矢さんの部屋に向かった。
城南法律事務所の執務室は、透明性を謳い、廊下側の壁がガラスになっている。中でなにをしているのか一目瞭然。この時も廊下から、晄矢さんがデスクを背にして電話をしている姿が見えた。
仕立てのいい明るい色のスーツ。投げ出された脚が長くて、まるでメンズ雑誌の表紙のようだ。
「ああ、そうだ。じゃあ、よろしく頼む」
僕が入ると、晄矢さんはウィンクを投げ、急いで電話を切ろうとする。そんなに慌てなくてもいいのに。
「お疲れ様。電話、良かったの?」
「ああ、大丈夫。来てくれてありがとう」
早速僕の真ん前まで大股で体を運び、くしゃくしゃと頭をなぜた。会うのはあの公判以来。心臓が勝手に駆け足をしだして困る。
「もう、ただでさえ天パーなんだから」
太い腕をぐいっと上げる。近いっ。そのまま抱き着きたくなる。顔が赤くなりそうで、僕は腕を持ったまま俯いた。
「ふふーん。ね、あそこ、行く?」
「え?」
言われて顔を上げると、晄矢さんが親指を突き出し、ある場所を指していた。
――――バスルームっ!
以前、あそこで濃厚なキスをされたことがっ。うわお、顔から火が出そうだよ。
「あはは、ウソ嘘、冗談だよ」
「ひどいなっ! 僕、本気に……」
晄矢さんの腕をパッと離し、僕は頬ほてらせたまま抗議する。どうしてこうも僕の気持ちをかき乱すのか。
「んー、やっぱり冗談じゃない」
「え?」
ストレートの前髪をさらりと揺らして晄矢さんは踵を返す。今度は晄矢さんが僕の腕を取りバスルームに向かった。引きずられる感覚で後を追う。廊下に誰もいませんようにっ。
「今日は、藤原さん休みだからね」
バスルームのカギを締め、あの時と同じように僕は壁に押し付けられる。
「好きだよ……涼……」
飛び切り甘い声が僕の耳をくすぐる。そして、いつものオーデコロンの香りに包まれて。柔らかい唇に息を奪われた。