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第拾話【Refrain the Rain】

【refrain】〈動〉

差し控える、慎む、こらえる 

【refrain】〈名〉

① 繰り返される決まり文句、型通りの言葉

➁折り返し(句)、畳句、(歌の)さび

(『ジーニアス英和辞典 第5版』より抜粋)



 耳を塞ぐ軽快なドラムと安心感のあるサクソフォン。遠方からは雨音というノイズも聞こえる。水面に落ちた一滴は、暫く波紋になるだろう。



 大学2年になり、ついに周りのほぼ全ての人間が友達ごっこを始めたことは、流石に知っていた。不安を和らげるために必死に行動する彼らを傍観するのは、全く飽きない。無理に趣味を相手に合わせて馴染もうとするヤツ。同じく孤独そうなヤツを目を血走らせて探すヤツ。自身の孤高具合を高らかに宣言しておきながら、特定の人間と常につるんでいるヤツ。俺はそんなヤツらをおかずに飯を食っていたのと共に、大層気持ち悪く感じていた。この歳にもなって、欲しくもないであろう友人を探し求める様が哀れでしょうがなかった。所詮自分しか信用できないこんな浮世で、他人を当てにする心理が理解できなかった。見ず知らずの人間に自分の弱さを露呈する人間が、酷く下等で汚らしく思えた。こんな情けないヤツらと同じ生物だということを受け入れられなかった。

 今考えてみると、俺は人一倍彼らが羨ましかったのだと思う。彼らが酷く下等に見えたというのは、自分を納得させるための真っ赤な嘘であった。ひねくれすぎていた。俺には友人と呼べる人間が1人もいなかった。その言い訳とも言える。どんな人間であっても自分より眩しく見え、同じ土俵に立てる気がしなかった。俺は会話を拒んだ。交流を恐れた。他人の心を遠ざけた。しかし、彼らのする友達ごっこ――いや、彼らがしているのは極めて有益な関係構築だ――それを誰よりもやりたがっていたのは、俺だった。

 さらに俺は優等生とかではなく、無気力に、惰性で教育機関、研究機関に通っていた人間だった。周りの人間を批判する権利は当然持ち合わせていなかった。

 俺は自己肯定力も低かったから、自身の価値の低さを誰よりも肯定していた。故に、そんな自分に付き纏う人間も疎んだ。


 「失礼。貴方、████さんですよね?」


 あの女に話しかけられた時もそうだった。以前から存在自体は知っていた女だった。嫌でも目立つ。異国から来た女神かと思うほど整った、彫りの深い顔。洋画の主演を務められそうな美人だった。スラッとした体躯に、暖かなブロンドの長髪がよく似合っていた。あと目立つところといえば、鴉を象ったモノを必ずどこかに身に着けていた――人がどんな装飾品を着けているかを見るのは、個性の観察をしているようで好きだった。


 「聴いているのは『テイク・ファイヴ』でしょうか」

圧を感じさせない、引き込むような不思議な包容力があった。俺はイヤホンを外して『テイク・ファイヴ』を止めた。

「あー……よく分かりましたね。お好きなんですか」

定型文のような文章が口から勝手に出た。

「ええ。とても。特徴的な5拍子が漏れていましたから。ジャズをよく聴くのですか?」

「別に……偶然聴いた時、なんつーか、“HERO”のテーマ曲のようで()()()と……思った」

「へえ、面白い感性ですね」

面白い、か。

「つーか……人の孤独を邪魔するのはあんまオススメしないですけど……何か俺に大事な用でも?」

「お邪魔したのは心より謝罪します。貴方とどうしても話してみたくて」

「は?いや……あなたみたいなキラキラしたのが、俺にわざわざ話しかけてくるってのは……つまり、そういうことでしょう?」

「そういうこととは?純粋な興味で話しかけたのですが」

「さあ……どうだかなあ」

「真顔で見つめられても困ります」

「これでも懸命に睨んでいるつもりだが」

宗教勧誘だか何だか知らないが、めんどくさいことは避けたい。が、目付きの悪さは意味を為さなかった。目の前の女は首を傾げているだけだ。故にさらに問い詰めた。

「何か……意図がある?」

「そうですね……今話しかければ、日々が絶対面白くなると思った……それ以上の理由は無いです」

「何を言ってるんだ……俺と話しても面白くない。あなた達と俺では価値観が違いすぎる……」

「だからこそです。価値観が違う事柄にこそ、私は探究心と好意を向けたい」

視界の中央に来ないようにしていた彼女を、俺はようやく見据えた。

(何故……アンタも照れてるんだ……)

少し朱色がかった頬の上、艶美な海岸より少し奥、遥か遠方の夜空のような深い切れ長の眼に引き寄せられそうだった。周囲のあらゆる喧騒は限りなく遅く、小さくなって、彼女の存在にハイライトを与えた。俺を構成する歯車から衝動的な音が鳴ったが、隠しきれただろうか。

 彼女の名前はすぐに思い出せた。よくプレゼンで前に出ることが多いし、女性ではあまり聞かないファーストネームだったから強く印象に残っていた。

「はあ……名前……フレン先輩……で合ってます?」

「はい!ご存知でしたか。良い名前でしょう?気に入っているんです」

1つ上の学年のフレン・ダーカーは、花が開いたようにパッと大きな笑みを浮かべた。言葉を選ばずに言うなら、“可愛らしい”。俺はチョロい人間であったと、言わざるを得ない。



--------------------------------------------------------------



 窓外から延々と聞こえてくる雨音は、男を無理矢理現実に引き戻すかのように、さらに勢いを増した。景観は雨中に霞み、生乾きの洗濯物のようなにおいがほんのり香っている。

 追憶から目覚めたクロガネは、カジュアルスーツのまま事務所2階の自席に座っていた。キッチンとは逆側、キレイにカバーが装丁された本がズラリと並ぶ棚の前に彼のスペースがある。横長のデスクにはペン立てや雑誌、ラジオなどといった雑貨に加え、先ほどまで読んでいた文庫本サイズの書籍が1冊置かれている。

(字が小さくて……読み始めてもすぐ寝ちまう……ちっとも進まねえな)

 顔を上げてみた。眩しさに目が慣れてくると、食卓机に徹と彩芭が向かい合わせで座っているのが見えた。落ち着いた壺菫色の無地Tシャツを着た徹は、時折ペンで頭を叩きながら、宿題に取り組んでいる。彩芭はいつもの装束とは異なり、黒のタンクトップの上に紅色のナイロンジャケット、薄手の長ズボンという動きやすそうな格好だった。彼女は週一で購読しているファッション誌を楽しんでいた。買いたい服があったか、はたまたイチオシのモデルでも見つけたか、たまにドッグイヤーを付けている。没入、とまではいかないようで、時々徹の様子を見て勉強を教えてやっていた。

 徹は、覚えていることを行う単純作業ではかなり要領が良いが、所謂“頭を使う問題”は非常に苦手なため、年上2人に教えてもらっていた。つい最近までクロガネが勉強を教えることが多かったのだが、愛想が悪いのとそもそも人に何かを教えるのが下手(クロガネ本人談)なので、彩芭が引き受けることが増えた。クロガネが彼女に詳しく聞いてみると、全国的に見てなかなか難しい、有名な大学に通っていたことが分かった。中退したらしいが、その理由まで男は聞かなかった。塾講師のアルバイトの経験もあるらしく、徹からは中々分かりやすいとの評価を受けている。彼女もまんざらではない様子だ。彩芭が多忙もしくは留守の場合、クロガネが渋々勉強を見てやることも多い。

 しばらくして、彩芭が掛け時計を見て、

「少し出かけてくる」

と欠伸をしながら立ち上がった。徹が

「えっ、装導者に会っちゃいますよ!」

と咎めると、

「私は装導者ではないからその心配はない」

と返した。

 徹がよくよく聞くと、知らぬ間によく1人で出かけていたことが分かった。クロガネは既にそのことを知っていて、問題ない様子だったから、周辺の調査とパトロール、急な買い出しなど諸々をよく任せている。

 「えぇ……知らなかったんですけど……危ないですよ?」

心配そうな徹に対し、彩芭は肩を組んでキレイな歯並びを見せ、彼の額をデコピンした。

「痛っ!?」

「そう案ずるな。で、寝起きのクロガネよ。帰りに哲也から【備考:『神託(ORACLE)』の特殊型に関して】という資料を貰ってくればよいのだな?」

「ああ。頼んだ」

クロガネは目頭のツボを押しながら頷いた。徹は彩芭の腕を邪魔そうに払って、未だしつこく、

「い、今までだって装導者と偶然会って、戦ってきたんですよね?信じられませんよ!」

と口を尖らせていた。彩芭は

「その時は一刀のもとに斬り伏せるのみ」

と闘志を滾らせながら語ったが、

「そういう問題じゃないでしょう」

と徹が紫紺の大きな瞳を半目にする。ここまでしつこく絡まれると、彩芭は折れざるを得なかった。

「いや……分かった、すまなかったよ。人っ子ひとりいない深夜の羽間山(はまやま)から順々に試したのだ、許してくれ。ああ、羽間山というのは西の方にあるあの大きな山のことだからな?彼処の頂上は、夜空はまあまあ見えたが見晴らしはイマイチだったな……」

「ちょっとちょっと!いつの間にか羽間山の話になってるじゃないですか!僕は彩芭さんが心配なのに……」

「心配などせずとも私は――」

「それに!僕はどこへも行けないのに……!ズルいですよぉ〜!」

徹が地団駄を踏みかねないくらい、ぶつくさ文句を言い始めた。

(此奴の論点はそこかぁ……)

と彩芭も困り果ててしまった。

「うぅ〜ん……面目ない、余計なことを言ってしまったな……楽しくて出かけておるワケではないのだが……私にも仕事が――」

「もういい。コイツの面倒は俺が見る。先に行って来い」

クロガネが椅子からゆっくり立ち上がった。

「う〜っ、すまぬ!頼んだ!」

彩芭が一瞬自室に立ち寄り、『月下楓葉』と大きなバッグを抱えて階段を駆けて行った。



 「徹……」

クロガネは諭すような口調で、机に伏す徹に声をかけた。

「分かってますよ……ワガママだって言いたいんでしょ?」

徹はくぐもった声でブツブツ返す。

「そうじゃない。お前はワガママを言わなきゃ死ぬんだろう?今更何も思わない」

「……バカにしてます?」

「どうだかなあ」

「えぇ……」

「……まあアレだ、時機に自由に外出できるようにしてやる」

青年はムクッと起き上がった。

「え、マジでできるんですか?」

「時機に、な……だから……あー、良い子にしてんだな」

頭を掻きながらそう言ったクロガネは、寝る前まで読んでいた本を持って徹の向かいに座った。

「宿題教えてくれるんですか?」

「……止むを得ない」

すると気持ちを切り替えられたのか、徹は唐突に、

「勉強教えてくれるの、彩芭さんのがめっちゃ分かりやすいですけど……僕はクロガネさんに教えてほしさもあるんですよ」

と言った。

「物好きだな」

「1つは、例え方のクセが強すぎるからっていうのはありますけど」

「そうか?」

「セ氏温度と絶対温度を『ホワイトノート』装導?とかいうので説明するし、定理とかはすぐ職業に例えて、しかもそれが毎回スーツアクターの話ですし」

「スーツアクターは……良い職業だろうが」

「それはそうなんですけど、変に解像度高いじゃないですか。“ストレートパンチよりも腕をのばしたまま横から殴った方が迫力が出る”って知識、多分この先一生使いませんよ」

「何かエピソードがあった方が良いだろ」

「悪いって言ってないじゃないですか。面白くて僕は好きですよ」

クロガネは目を逸らして、

「……まあ……時間が空いたら……また勉強もアクションも教えてやるよ」

と言った。徹はその言葉を聞いてニコッと笑った。

「やっぱりクロガネさんは、そういうところが良いですよね」

「どういうところだ」

「ま、彩芭さんにも言えることですけど、クロガネさんは露骨にっていうかぁ……実際言うとなると照れ臭いな……へへへ」

両頬に掌を当ててニヤニヤする徹を見て、クロガネは舌打ちをした。

「気色悪ぃな……言いたくなきゃ言うな」

と言い、本を読み始めた。

「いや、言いますよ。伝えるか迷ったら今伝えるべきですよね」

「……」

「“どうだかなあ”とは言わないんですね……」

クロガネは、昨日徹が言った


「伝えたいことがあるなら、伝わるように言った方が良いんじゃないかな、って……」


という文言を思い出したが、口には出さなかった。

「……」

一方の徹は、大人しく黙っているクロガネに対し気味が悪く感じた。

「んー……じゃあ……なんか小っ恥ずかしいですけど言いますよ。クロガネさんの良いなって思うところは――」

 その時、徹は一気に現実に引き戻された。装導者の悪意と思われるモノ、『導』が見えたのである。

「入口に、誰か来た……!この感じ、多分フレンさん側の人だ」

同時に、事務所2階の裏側の窓が開き、般若の面を装着した彩芭が侵入してきた。窓枠に跨る彼女は、先ほどの服装のままバッグを肩に担ぎ、腰に『月下楓葉』を提げている。傘を差す余裕が無かったのか、髪やジャケットからは水が滴り落ちている。

「うわっ!?出かけたんじゃなかったんですか!?」

「『光心俱楽部』の連中、御前達が2人きりになるのを見計らっておったようだな。クロガネ、表に客人が来ておる。行ってやれ」

「刺客の間違いだろ」

「客であることには変わらんな。ガハハ」

「お前はどうする」

彩芭は彼らの横を通り、顔の横で手をゆらゆら振りながら、

「一旦着替えなどして待機しておこう。夏風邪を引きたくないのでな」

と答えた。



 2人が階段を小走りで降りていくと、ガラス扉の前に人影があった。扉が濡れているせいで、顔はよく見えない。真っ白なスーツのような服を着ていた。首から下にかけてあしらわれたレースや腕の派手な黒のラインといった過度な装飾により、舞台衣装じみていた。後ろで腕を組んで、じっと前で待つ姿は軍人らしさがあった。

「知ってる人ですか?」

「……どうだかなあ」

クロガネが扉の前まで近付くと、客人はそのままの姿勢で

「『光心倶楽部』の使いで参上しました」

と室内に聞こえるように言った。クロガネは後ろにいる不安げな徹を見た。そして少し考えた後に数歩下がった。

「行儀の良いヤツだな。無視する手段は用意していない。入りな」

客人は、

「失礼します」

と言いながら中に入った。まず目を引いたのはやはりその服装。舞台衣装じみた服は、近くで見るとスーツとも軍服とも呼べるかなりハイセンスなモノだと分かる。また、その人物は女であった。クロガネや哲也より年下に、彩芭よりは年上に感じられる。後ろに結んだ焦茶の髪、色の悪い唇。具合が悪いのかと徹が一瞬思ったくらい、幸薄かった。

 クロガネはこの客人に見覚えがあった。もし彼の予想が当たっていれば、とても縁の深い、薄墨色だった彼の思い出を極彩色で彩ったうちの1人。

「お前は……」

「お久しぶりですね……クロガネ()()

自分を先輩と呼ぶ人間――同じ組織に属したことがなければ、そのような言い方はしないだろう――男の頭の中で学生時代の思い出が円を描くように疾駆した。

「現状、お二人の安息地がどこにもないことは理解していますね」

キッパリとした話し方。言葉には懐古と蔑みとあと何か2つくらいが感じられた。この時点で、クロガネは自身の予想が的中していることを確信した。

「まさか……三浦か」

「ええ。そのまさか、三浦静美です。覚えていていただけて光栄です」

 徹はこの三浦静美という人間のことを全く知らなかったが、クロガネとフレン・ダーカーの運命を強く導き、もしくは両者によって導かれた縁深い人間であろうことだけは、

(なんとなく……)

分かった。

 「先輩。()()は最終警告のために来ました。こちら側に付けば、そこの彼の安全は確保します。それ以外の選択肢は残されていな――」

先輩と呼ばれた男は、腰のホルスターから右手で素早く拳銃を取り出し、真っ直ぐ静美に向けた。斜めすぐ後ろにいた徹は狼狽して、ボリュームを下げた声で尋ねる。

「えっ!?な、何してんですか!?知り合いじゃないんですか!?」

男は両手で構え直す。気圧された静美は手の甲で額を拭い、ゴクリと唾を飲んだ。

「彼の、言う通りだと思います。何のつもりですか?」

男は重々しく威圧的な声で、

「こんなところで何をしている……」

と尋ねた。表情は変わらないが、その下の眼光を含め、今までにないくらい怒っていると徹は読み取れた。それほど大きな声でも無かったのに、空気がビリビリとヒリつく。

 彼のそのセリフを受けた静美は、逆鱗に触れられたか、歯を食いしばって衣装の袖をギュッと握って離した後、深呼吸をした。

「何をしているか、だって……?」

「お前がいて良い場所じゃない。今すぐ導乱から去れ」

そして、また拳を強く握って俯いた。

「はぁ……?それはこっちのセリフですよ……去るべきは先輩だ……大学卒業した後、“夢”、叶えたんじゃないんですか?わざわざフレン先輩……いえ、フレン様と私達の前から姿を消して……なのに、簡単に諦めて……久しぶりに顔を出してくれたかと思ったら、今度は人殺しになってて……かと思えば、フレン様に楯突いてっ!そうするくらいならっ……だったら二度と私達の前に姿を見せないで欲しかったのに!余計なことを何度も何度も……!先輩はいったい何を……いったい何考えてんですかっ!?」

捲し立てた彼女の顔は、血が上って真っ赤だった。クロガネはそのままの構えで暫し沈黙していた。男はいつもと変わらない表情だった。


 ただ、見せかけの平静であることは誰の目にも明らかだった。男の両手は銃を強く握りすぎるあまり微かに震え、赤らんだ額に滲む汗の1滴は頬を伝って顎に留まっていた。

 静美がここまで激昂する様子を、クロガネは見たことが無かった。また、彼女の矛先が自身に向いていることを受け入れられなかった。憧れていた人物に失望するより、慕ってくれていた人物に失望される方がよほど響いた。

「もう私の知るクロガネ先輩はいない……私は『小鳥のパレード』の頃に戻りたいだけなのに……だから追っかけてきたのに……こんなの……!」

静美は手首をこめかみに押し当てながら、絞り出すように訴えた。

「……」

男は構えを崩さなかったが、彼の(さが)を構成する歯車は軋む音を発しながら逆回転を始めた。男の脳内には伴奏として雨声も侵入し、深層が開かれていった。雨粒一粒一粒の落下はスローモーションのように遅くなる。やがて懐古的な調べを作り、記憶の断片を次々とリフレインさせる。


 戻っていく。まだ誰も『導』を知らなかった、あの頃の記憶に。



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 水面に落ちたその一滴は、暫く波紋になる。大いなる一歩を踏み出した時のように。



 フレン先輩と初めて話してから数週間。行き帰りの電車や昼食時などで話すようになった。時間が合えばほぼ必ずともに空き時間を過ごしたと思う。

(多忙だろうに、よく俺に時間を割けるものだ……)

俺と対局的に何事にも熱意があるであろう彼女は、部活やサークルに入っているものだと思っていた。しかし意外にも、どこにも属していなかった。理由を尋ねると、

「中学高校で十分やり切ったことを、今わざわざやる必要もないでしょう」

と答えた。なんとなく気に入らない理由だった。

 別に、いつも二人きりだったワケではない。彼女は俺と違って友人を多数持ち、よく3〜4名、たまにそれ以上の団体で行動していた。彼女が彼らを引き連れて来る時もあれば、2人で話しているところに彼らが来る時もある。始めのうち、俺はすぐその場から去るようにしていた。面倒なことになるのはごめんだ。フレン先輩も彼らも1つ上の世界の住人だと、よく理解している。それに、彼ら彼女らは仲良し小好しというより、フレン先輩目当てのように見える。信仰、という言葉が最も近いか。人の機微を読み取るのは得意ではないが、俺でも分かるほどあからさまな態度で彼女と接していた。安々と神に近付く俺は線路上の置石くらい邪魔で気に入らない存在、それもよく分かった。

 が、フレン先輩は何を考えているのか、友人たちよりも俺と話すことを優先した。俺がわざと立ち去っていると分かってからは、なんと今度は彼女が友人を避け、俺と二人きりになる時間を増やした。なぜかと問うと、

「一方的に好かれるのって無視されるより嫌でしょう?」

と返された。人によるのではないか、と反論しようとしたが、めんどくさくて口に出す気にもなれなかった。代わりに漏れ出た言葉は、

「どうだかなあ」

という安っぽいセリフだった。



 水面に落ちたその一滴は、暫く波紋になる。舞踏会への入口、古びた扉が開かれ軋む時のように。



 フレン先輩は自分に自信があるから、本当に大事なことこそ他人に話さない。

 ある日彼女は唐突に、

「ねえ、████。突然なのですが、来週から学生クラブを立ち上げることになりました」

と言った。俺の知らぬ間に準備していたらしい。クラブ名は、『小鳥のパレード』。名前の由来はすぐに忘れた。地域の学生数名と組んで、様々なボランティア活動を行う団体にするのだという。その活動内容のどこが凄いかが俺にはよく分からず、ジュースを奢ってやる気にはなれなかった。しかし、いつの間にか自力で人数を集め――俺含めて()()()()()()()()を8人集めたらしい――さらにめんどくさそうな手続きも全てクリアしたその活力に感服し、帰りにモンブランを奢った。美味そうに食っていた。

 初日はレストランで顔合わせをすることになった。先輩はこういった宴に慣れていて、ひとりひとりへの気配りを忘れず、場の盛り上げ方をよく分かっていた。どうすれば皆が喜び、打ち解けられるかを感性で理解していた。

 俺はというと、大人しくその場を乗り切ろうとして失敗していた。高校生と中学生にグイグイ来られた。休日は何をするだの、故郷はどこだの、大学はどんなところかだの、とにかく様々尋ねられ、参っていた。他人に話しかける勇気にはそれ以上の誠意で応えなければならない点が、辛い。よく笑うが妙にドライな男子高校生の方は福薙晶(ふくなぎあきら)、マジメでハッキリしている女子中学生の方は三浦静美(みうらしずみ)といった。

 何がそこまで楽しいのか知らないが、その後も懐かれた。特に三浦は、しつこかった。俺が大学のクラブ室に行く時は必ず彼女もいた。勉強を教えてくれとしょっちゅう懇願された。悪い気はしなかった。



 水面に落ちたその一滴は、暫く波紋になる。静寂の中に聞こえた、空耳かと疑うほどの微かな銃声のように。



 活動を始めてから半年。極めて順調に、恐ろしいぐらい充実した活動を送れていた。海岸のゴミ拾いやイベントの設営・運営、警備、機材搬入、児童引率、などなど。力仕事、地味な仕事、割に合わないモノも多かったが、やりがいと達成感に比べれば何も気にならなかった。俺以外のメンバー全員が皆善良で活力があったというのは大きかった。たまにメンバーと行く食事や旅行も中々に楽しめた。

 これら全てがフレン先輩の手腕によるモノだというのは自明であった。

 この頃が楽しくなかったかというと、それは嘘になる。居場所を得た。友人を得た。生活が極彩色で彩られた。それは、どんな著名な画家が描いた光景よりも、躍動的で熱情的で刹那的。一瞬一瞬の激しい煌めきのことを文化と呼ぶのなら、世界の砂漠全てを珊瑚礁に置換してしまえるほどの生命力を持つ俺の日常は、人類文化史の隅っこに書かれていてもおかしくなかった。そこまでいかなくとも、いくらか前向きで真っ直ぐな自分になったという自覚がある。ただ……だとしても俺は俺自身に満足していなかった。

 あれは食販イベントでのことだったと思う。俺がゴミ回収のブースにいた時、少し遠くで男の怒声が聞こえた。

「ねえ、どうしてくれんの!?」

「ほ、本当にごめんなさい……」

イベントが大変賑わっていたせいで彼らの声は掻き消され、姿もよく見えなかったが、俺は何とか聞き逃さなかった。クレームを入れられていたのは三浦だったからだ。

「あのさ〜、こっちはさぁ、わざわざ高い金払ってんだよ、分かるかなぁ?」

「はい……ですけど……」

「でも何!?こういう時は素直に謝って返品と違う!?」

「えっと……」

商品に不備があったのだろうか。詳細は分からない。しかしこの場合、対応するのはボランティアではなくイベントスタッフであるべきだ。イベント開始前に、不測の事態があれば必ずスタッフに頼るよう説明されていた。

 後で聞いたことだったが、スタッフは他所の事態収拾のためにその場を離れていた。

 全員が全員自分の仕事に手一杯で、誰も三浦に気付いていなかった。気付いていても、手元の作業を止める理由にはならなかった。

 俺だけは三浦の元へ行かなければならなかった。俺達の仲間だ。大切な後輩のはずだ。だが、足が動かなかった。俺は行く理由でなく行かない理由を並べた。仕事を放って行くのは迷惑がかかるのではないか。俺が行ったところで足手纏いになるだけではないか。三浦はああ見えてしたたかなヤツだからわざわざ助ける必要もないのではないか。俺が行かなくとも他の誰かが助けてくれるのではないか。俺は衝動よりも理性を優先して動かなかったというのではない。くだらない、本当にくだらない打算のせいにして動かなかったのだ。

 代わりに三浦を助けに向かった人物がいた。ブースの脇から飛び出してきたのは、フレン先輩。彼女の眼光はいつもと異なる、殺意に満ちた激しい煌めきを放っていた。クレーマーの前に出るやいなや、何かしらの寸言で眉間を突き刺した。そして呆然とする彼を本部まで連行した。

 遅れて袖から現れた福薙とクラブメンバーの1人が、三浦を気遣った。三浦はクレーマーを意にも介しておらず、誰でも良いから人を呼び、さっさと本部まで案内すれば良かった、フレン先輩たちに迷惑をかけてしまったと反省していた。

 結局、フレン先輩のおかげで丸く収まり、大したハプニングにはならなかった。三浦含めて誰も俺を責めなかった。フレン先輩は、むしろ俺が三浦の方をじっと見ていたから気付いたのだと礼を言った。

 これも後に聞いたことだが、フレン先輩達3人は1秒足りとも手を放せないくらい忙しかったにも関わらず、自分の仕事を他の人間に任せて三浦の元へ駆け寄ったのだという。ならば一層のこと、彼らではなく俺が行くべきだった。

 傍観者の俺は、彼らに“HERO”の影を見た。彼らに精一杯の讃美を送りたくなったのと同時に、自分には“HERO”となり得る気質が無いことを認めた。打算を振りかざす“HERO”などいない。人の機微を抱き締められず、独りで生きる逞しさも無い。俺は何者でもなかった。

 現在の俺の物語の主人公はフレン先輩だった。生活が彼女に掌握されているようにも感じられた。理由は明白。俺は以前と同じく、自分に対して一切自信を持てず、選択を他人に委ねて満足している感覚があったからだった。彼らに自分を進化してもらおうなどと甘えていてはいけない。己が変わろうとしなければ意味が無い。

 この一件は『小鳥のパレード』内の会議でも特に取り沙汰されなかった。だが、俺にとっては“夢”を見つけるきっかけとなった、明確なターニングポイントだった。



 水面に落ちたその一滴は、暫く波紋になる。火を噴く機関銃が輪舞曲(ロンド)の名を騙った時のように。



 大学を無事卒業して、俺は“夢”を死物狂いで叶えた。自分が見つけた自分だけの道を歩む、ここでそうしなければ俺は一生進化できないという確信があった。“夢”は自分の輪郭にハイライトを与えてくれる。なけなしの自信ともいえるそれが、甘すぎる蜜壺、『小鳥のパレード』からの卒業を決心させた。

 フレン先輩と三浦に伝えた時、偶にでも良いから顔を出すことを両方から懇願された。それでも俺は新天地での生活を優先させ、二度と顔を出すことは無かった。これといった理由もなかったと思う。ちょうど忙しくなったとか、まだまだ鍛錬が足りないとか、職場から遠いからとか、様々あったがどれも決定的ではなかった。またフレン先輩に依存してしまうのを防ぐためかもしれない。強いて理由を見つけるなら恐らく――好きな人ほど、会いたくなくなるからだ。ガッカリしたくなかった。そう思ってしまったのは多分、俺が変わったからだった。良くも、悪くも。


 “夢”を叶えてから何年も経った頃。あれはその年の記録的な豪雨が訪れた日曜――前回の導乱が始まってすぐ、まだ『ROGUE』が誰かも分からない時だった。『STEEL』の姿をしていた。一面、数多の人だったモノと瓦礫が折り重なっている。導乱で起きたほんの小さな出来事の1つでしかない。生き残った者だけが見られる、マーブル模様の悪趣味なレッドカーペット。雨は、それらをキレイに洗い流してくれるほど都合の良いモノではなかった。

 俺の右手には砂鉄でできた大鎌、左手にはガトリング砲のようなモノが握られていた。下部の弾倉から流れ出るワインレッドの液体によって、今さっき刈り取った装導者の生首であると判別できる。装導名は『ガトル・ボイガ』。頭部、両腕部が巨大なガトリング砲で形作られ、脚の代わりに無限軌道が装備された、戦闘特化の装導だった。俺はソイツだったモノの肩に跨っていて、首元から噴き出る血液に塗れていた。彼の特徴的なガトリング砲は全て俺が刈り取っていたため、見る面影もなかった。

(死後の『導』硬直……コイツが()()()死体に戻るまで待ち、その後装導を回収する……)

肩から飛び降り、生首を地面に置いて座り込んだ。ちょうど水溜まりだったそこは、血溜まりになろうとしていた。映っていたのは、だらしなく開いた剥き出しの顎を持つ、三つ目の怪物だった。

(…………)

もうこの醜い姿を見たくはない。ずぶ濡れになる方が余程マシだった。また、無駄なエネルギー消費を抑えるためにも、装導を解除した。この行動がいけなかった。結果論だが、軽率だったと言わざるを得ない。俺は、俺以外に2人の生きている人間が居合わせていたことに気付いていなかったのだ。

「え……クロガネ……先輩……?」

瓦礫の後ろから顔を出したのは……三浦だった。同じ場所から立ち上がったもう1人は……

「なぜ貴方達は人外の姿になり……惨い血祭りを演出しているのか。説明してください。クロガネ」

フレン先輩だった。

(やはり俺は()()()で呼ばれなくてはならないのか……)

さらに都合の悪いことに、2人とも装導が見えているようだった。俺の横の生首、後ろの胴体も明確に捉えている。

 言い逃れはできまい。が、決して彼女らをこの地獄に巻き込むワケにはいかない。俺はもう一度『STEEL』となり、『ガトル・ボイガ』の死体を砂鉄で包み、担いで立ち去ろうとした。

「待って!」

手を伸ばす三浦。俺が

「クロガネなんかじゃない……」

と言って背を向け、雨中に跳んだ。俺を引き止めようとする三浦の声が、雨音と速い鼓動の中で何度も聞こえた。走れば走るほど自分の息遣いしか聞こえなくなっていき、気付けば俺だけがビルの屋上にいた。

 見上げても、雨は三つ目と口内を濡らし続けるだけだった。見下げても、俺の存在に気付く人間はいなかった。横を見回して、俺は望んで独りになったことをやっと自覚した。

 逃亡する直前に見た、恐怖と困惑の入り乱れた三浦の顔と、フレン先輩の極めて原始的な衝動に満ちた表情――その衝動をあえて無理矢理言い換えるなら、“溢れんばかりの希望”だろうか――この時の彼女らの表情は、今でも鮮明に思い出せる。



 フレン先輩の導乱参加が判明したのは、それから僅か1週間後のことだった。



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 心臓が次の鼓動を始める前に、夢想は終幕した。リズム隊役を全うした雨声は元の速度を取り戻し、退屈なノイズに戻った。

 依然、クロガネは拳銃を構え続けている。しかし引き金にかけた指には、もう力が入っていなかった。

 静美は綺羅びやかな袖口を噛んで、荒い呼吸を無理矢理整えてから続けた。

「いえ……もう戻って来ないモノを悔やんでも仕方がない……それは分かっている……分かっているからこそ!」

彼女は右手で、上着の内ポケットから何かを取り出した。クロガネは瞬時に腕を撃つべきだった。しかしできなかった。もう、負けていた。

「その装導は……」

正六角形の黒い箱。手のひらサイズの平たいクッキー缶のような外見で、大きく六芒星が刻印されている。

「クロガネさん!アレ、キラさんも持ってた……装導だ!」

引っ掻いたような字で上から『DOGMA』と刻まれていること、彼女が左手にも同じような形状の箱を握っていることに男は気付き、目を見開いた。

「その手があったか!逃げろ徹!」

「ど、どこに!?イダッ!」

静美の排除を選択肢に入れていなかったクロガネには、徹を後方に突き飛ばすこと以外できることがなかった。

 迷える彼らの行動は、静美に十分すぎる隙を与えた。彼女は両手の甲を外側に向けたまま、腕を正面で十字に交差させて発声した。

「『弐重征服(デュアル・アチューン)』」



第拾話【Refrain the Rain】-END-

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